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「それ、”本気”で言ってんの?AIが言ってんの?」

知り合いとやり取りをしていて、「ん??」と思ったことがある。「ああこれ、AIでかいたのかな?」と。

内容というよりは、箇条書きが駆使されていたり、やけに網羅的だったり、そう思えば思うほど「AIかもな」という気持ちが自分の中で確信に変わっていく。

でも面と向かって「この文章ってAIですか?」と聞くほどでもない。AIであろうがなかろうが、その人の意見と同じであることは変わらないのだから――と考え変えてふと、自分の思っているもやもやにたどり着いた。「でもこれって本当に、この人の素の意見なんだろうか」。「AIのそれらしい回答を張り付けただけだったりしないんだろうか」と。

◆補助線を引かれた意見は、きれいだけれど

かくいうぼく自身も、AIを使って原稿を書いたり、メッセージを作る作業を効率化させている。生成系AIをどう企業に浸透させるか、みたいなテーマでセミナーの講師をさせていただいたことすら、ある。

AIによって補助線を引いたうえで返すメッセージは、確かに求めた意図を満たしているように思っていた。でも、本当にそうなんだろうか。思わず漏れ出るような本音だったり、自身の温度感を探りたいようなコミュニケーションの時には、「補助線が引かれたうえできれいに形成された声」というより偏りがあってもいい。

こういう状況って、ビジネスの新人教育の現場でも今後起こっていくんだろうなと思う。「AIに聞いたらこんな風に言っていました」とは言えるけれど、「でもあなたは何がしたいの?」と言い返したくなるというか。

むき出しの声がほしい。というかそれがないと、人間に意見を聞く意味って、なんなんだろうとも思う。

◆生のコミュニケーションと組み合わせないとなんだろうな

自分はその意見を「本気で思っている」ということを体重を乗せて伝えられるか。自分の言葉で伝え、その意見を言うだけの説得力のある生き方をしているかどうか。AIが生まれたことで誰もがそんな重みを求められるのは、確かに大変な時代かもしれない。でもそういうことがこれからの発信に本当に求められるものなのかもなあと思った。

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