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災害研究者が新型コロナウィルス感染症について考えてみた(12)オミクロン株と続く緊急対応

1.続くコロナ禍

デルタ株からオミクロン株へと変異株が変遷してきている。
既に東京都は緊急事態宣言を検討しなければならない状況にあるとも言われるが、現在のところ、そういった動きは見られない。

そうした中で、
オミクロン株の致死率がデルタ株と異なる点を問題にしつつ、
経済活動の継続と維持について現実的な対応すべきだという声が見られるようになってきた。
例えば、楽天の三木谷会長はTwitter等で主張をそうした主旨の展開している。

長く続くコロナ禍への疲れだけでなく、
段々と変異株の性質が変わってきていることもあり、
こうした言説に賛同が集まるようになってきている。

2.オミクロン株なら大丈夫なのか?

しかし、
オミクロン株を始めとする新型コロナウィルスの性質と、
コロナ禍への政策対応のあり方は、それほど大きな関係があるとは思えない。

結論から言えば、
①新型コロナウィルスの検査薬、ワクチン、治療薬の全てが開発され、十分な供給量が確保できるようになるまでは、感染症の蔓延により社会活動への影響を低位に抑える政策対応を優先して行うしかない。いわゆる、時間稼ぎ戦略が主眼となる。このことは、オミクロン株を始めとする変異株の毒性の強さとは関係がない。

②社会活動への影響が無視できない水準になる一つの目安は、医療機関の受け入れと検査機能の容量である。例えば、重症者向けの病床利用率が高くなりすぎたり、検査が実態に追いつかない状況になれば、これらの指標を抑えるために強い社会的な措置を取らざるをえない。その選択肢には、現状、緊急事態宣言が最も重い措置として位置づけられる。
逆に、経済活動への影響を懸念して、上記の要因がオーバーフローする中で社会生活を継続しようと思っても、実態的にそれは難しいだろう。多くの市民は不安を感じるだろうし、感染症の脅威に逆らってまで平時の生活を継続しようとする人が大多数とは思えない。

③社会活動への影響を低位に押さえておくためには、新規陽性患者数という先行指標を参考にして、先手の対応が必要となる。例えば、病床利用率は一致指数か遅行指数だと思われるので、これが相当高い水準になってから対応しようとすると、既に実態に対して政策対応が遅れた状態になっている。

感染症管理サイクルの緊急対応のステージにおける政策目的は、感染症の収束である。感染症の収束は、①にあるように、検査薬、ワクチン、治療薬の3つが完成した時点で、そのゴールが見えてくることになる。それまでは、感染症の脅威が社会に与える影響を低位に留めておくために、感染症が拡大すれば強めの措置を講じ、感染症の流行が低位になれば社会活動を少しずつ再開する、ということしかない。

そして、上記の政策対応の枠組みは、変異株の毒性の強弱とは関係がない。新型コロナウィルスの変異株の特徴によって、戦術のディテールや判断の時期に変化はあるものの、基本的な対応の枠組みは変わらない。例えば、デルタ株は致死性が高く、オミクロン株がそうでないとしても、感染症によって社会的機能が圧迫されればそれを抑える措置を講じる必要がある。逆に、感染症の流行が小康状態なら社会活動を再開し始めれば良い。

いつまでこの繰り返しを続ければ良いのかと問われれば、検査薬、ワクチン、治療薬が完成し、その供給が十分になるまで、と言うほか無い。そういう意味では、コロナ対策には、製薬企業への支援や研究者に仕事の場を与えるといった手段も含まれていなければいけなかった。(これは社会科学の分野も同様。薬品の開発とは別に、それを制度的に承認し、社会に供給していく過程で、様々な社会的課題が出てくるだろう。このことを分析するのは、経済学、政治学、行政学、社会学、社会心理学、政策研究等、様々な知見が必要となる。)

なお、政府は先々の見通しについて、感染症管理サイクルに基づいて社会的合意を形成しつつ、民間企業や市民の行動にインセンティブを与えるべきだろう。例えば、感染状況が悪化すれば緊急事態宣言も含めた強い措置を取るとした上で、そうした措置を導入する大まかな指標を提案しておけば、企業や市民の行動変容を促す上で役に立つだろう。

逆に、政治の総合的判断で蔓延防止策や緊急事態宣言が発令されることとなれば、企業や市民は将来の不確実性が増大したと感じて、コロナ禍に対応した行動様式へと移行してくれなくなるかもしれない。例えば、企業の中には思い切ったテレワークの導入に踏み切れないものもあると聞くが、その原因は政治の説明力にもあるのではないか。

3.「ジョーズ」の再来

以前にも、今回のコロナ禍への政策対応が、スティーブン・スピルバーグ監督作品の「ジョーズ」に酷似していることは書いた。そして、ある程度こうした実感は、市民や行政の間に広がっているものと思っていた。

しかし、
今回のオミクロン株の致死性と経済活動の再開に関する議論を聞いていると、改めて、我々はパニック映画のプロットを正確に辿っているように思えてくる。

大体のパニック映画のプロットはこうだ。
まず、(後から考えれば小規模な)事故や災害が起きる。市民は恐怖し、政府や専門家が対応に追われる。そして、問題は解決され、一見、脅威は去ったかのように見える。しかし、その後、より大きな脅威が再登場し、市民や政府は混乱する。
そのような中、主人公だけは最初からより大きな脅威を認識していた。そして、主人公の果敢な活躍によって、真に脅威は去っていく。

今回のオミクロン株の脅威が、仮に、デルタ株よりも小さいのだとして、
それはパニック映画のプロットで言うところの、中盤の小康状態に過ぎないのではないか。この後、より大きな脅威が再来して、「そんなことは考えもしなかった。」と多くの市民や行政が「あっ」という出来事が起きるのではないか。

実際に、
映画「ジョーズ」では、専門家が「サメの胃を解剖すれば、このサメがアミティの脅威であるか確認できる。私もそれを確認したいし、皆そのことを確認したい。」と主張したが、市長はそれを認めなかった。そして、専門家と警察署長は夜中にサメが遺棄されている倉庫に行き、人知れずサメの解剖を行い真実を突き止める。「ビーチで市民を襲ったのは、このサメではない。」そして、物語では脅威の認識を誤ったまま海開きが行われ、さらなる犠牲者が出てしまうのである。

そう考えると、
脅威の強さに比例して政策対応の強弱を変えるという発想、それ自体が誤っていると考えなければいけないのではないか。感染症管理サイクルの全体像とその政策目的について政治は積極的に市民に説明し、批判を受けながらそれを逐次修正し、政策の精度と質を上げていく努力をしなければいけない。


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