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山田風太郎が焼け跡で抱き続けた違和感

2022/08/01 Newleader

 「敗戦して、自由の時代が来た、と狂気しているいわゆる文化人たちは、彼らが何と理屈をこねようと、本人は『死なずにすんだ』という極めて単純な歓喜に過ぎない」(昭和20年12月24日)

 「(兵は兇器也)……しかもこの巨大なる浪費、無上の惨害は人間として不可避なるものにあらずや。この浪費惨害を徒に避けんと欲する者は更に大なる浪費惨害を招来するの事実を洞察せざるべからざる也。不戦の憲法その試みにおいて壮なるべくその志において美なりとするも、不可避の事を憲法化して世界に公言し……」(昭和21年4月24日、2日前に枢密院で憲法改正草案審査始まる)

 「きょうよりサンフランシスコにて対日講和会議はじまる。……戦時中日本を誤った最大の機関の一つは新聞であったことはまちがいない……何がうれしき講和なりや。……真の平和は文字で与えられただけである。真の自由もまたしかり……それなのに、なんたるオッチョコチョイの記者ばかりであるだろう」(昭和26年9月5日)

 「魔界転生」などの伝奇小説、時代小説で一世を風靡した山田風太郎の日記。「戦中派不戦日記」などの名で敗戦直前から講和条約発効までの分が刊行されたものの一部です。大正11(1922)年生まれの山田は、早くに二親を亡くし、養家を家出して上京、軍需工場で働きながら医学部受験を目指すものの失敗、兵役検査では丙種で除外。昭和20年に東京医専(現在の東京医科歯科大)に合格し、兵役免除の医学生として8月15日を迎えます。幾重にも除け者、挫折者の想いを抱えた知識人階級の端くれの敗戦記です。

 この「不戦」の「除け者」だった山田青年の目に、主権回復した日本のあり方は自立のための要件を欠いた「文字で与えられただけのもの」と映りました。

 極東という、いつ大戦が起きても不思議でない地域で、敗戦国としての身過ぎ世過ぎを図るために吉田政権がこぎ着けた路線でしたが、逆に、吉田を嫌い続けたはずの文化人と新聞の手によって祭り上げられ、「不磨の大典」と化してしまいました。この人々と敗戦の責任を認めたくない復古色の強い右派が対立、吉田系の自民党本流は実利一辺倒というのが戦後日本の安保議論の構図でした。それぞれポジショントークのみで、実質的な中身はアメリカに丸投げでしたが。

 70年間、それで安穏にやってこれたのだから大慶の至りなのですが、日本周辺の環境は更に剣呑なものになってしまいました。それが近年、安全保障政策を進展させる原動力に。左派の方々は「右傾化」と呼びますがちょっと違うように思えます。戦後のゴタゴタを引きずる人々が、さすがに世代交代で消えていったからではないでしょうか。

 7月の参議院議員選挙では、ウクライナ侵攻もあり更にその傾向が顕著に。また敗戦の8月がやってきます。今度こそ現実から目を背けないために、焼け跡の中の山田青年の冷めた視線に立ち返ってはどうでしょうか。

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