見出し画像

雀百まで踊り忘れず【100日間エッセイチャレンジ】

雀百まで踊り忘れず。
幼い頃に身に付いた癖や習慣は、年を取っても抜けないものであることを示す言い回しである。
同じような言葉として、
「三つ子の魂百まで」
もあるが、こちらの方がよく使われているかもしれない。

そういえば、最近とんと雀を見なくなった気がする。
今幼稚園児の息子が小学校に進学した後にこの言葉を教えても、
「すずめって何?」
と言われてしまう恐怖さえあるが、雀をそれなりに見たことがある私でも、飛び回る雀を踊っていると思ったことはないし、そもそも雀が百まで生きるわけがないじゃないか(調べてみたところ、雀の寿命は3年程度であるとのことだ)などと色々突っ込みたくなってしまったことも併せて書き添えておきたい。

どうやら、この言い回し自体、良い意味で使われることを想定されていないらしい。
雀という人間にとっては取るに足らない存在でさえ、一生踊り狂う(何も考えずチュンチュン飛び回る)存在なのだから、いわんや人間をや、といったところなのであろう。また踊り自体が、当時から道楽の象徴であることを意味していることからも、やはり
「幼い頃に覚えた悪い癖や習慣は一生抜けない」
という意味で解釈するのが妥当であると思われる。

私の実家の町内では、そろそろ祭りの時期がやって来る。
毎年GW前の土日、ステージ披露の前夜祭と、神輿で町内を廻る本祭という2日間の日程で開催されている。
今思えば相当な力の入りようだ。

しかしながら、(私の時代から既にその傾向は見られていたが)、少子化の煽りをもろに受け、祭りの規模自体が年々小さくなっていたところに、コロナ禍の到来である。
このほど4年ぶりの開催となったが、どの程度盛況するのだろうか。

私が小学生の頃は、この祭りへの参加が半ば義務付けられていて、小学生は前夜祭の盛り上げ役に位置付けられていた。
具体的に言えば、
男子は和太鼓、女子は踊り
を披露するのだ。

もちろん、希望制などではなく、半強制的に、である。
今時、男女で演目が分けられていること自体問題視されそうであるが、この頃は誰も異を唱える者がいなかったということであろう。

こうして、私は有無を言わさず「踊り」チームに振り分けられ、講師の指導を受けることとなるのだが…。

この講師がまた、強烈であった。
汚れたつなぎを着て、無精髭を生やしたおじさん、なのである。

あまりにも訳が分からないと思われるので、もう一度言う。
汚れたつなぎを着込み、黒ずんだ手に無精髭を生やしたおじさん
こそが、私たちの踊りの先生
だったのである。

この先生に、演目や動きの説明を受け、私(たち)は指導を受けることとなった。
今更の説明になるが、「踊り」とはもちろん、今時のダンスといった類ではなく、盆踊り形式で「〇〇節」「〇〇音頭」と言った民謡に乗せて踊るといった演目である。

それを、前述のつなぎおじさん先生に教わる、という、本当に訳の分からないものだった。
これが述べ2ヶ月ほど続いた後、本番を迎える。

当然ながら、同学年の男子もいる。
浴衣を着込み、若干化粧を施した女子が(訳の分からない)踊りを踊る、という光景は、下手をすればからかいの対象にもなりかねない。

しかも、男子は別日程、別講師から和太鼓を教わり、本番に挑む。
当然ながら、迫力のあるパフォーマンスは保護者や観客の注目を一挙に集めることは言うまでもない。
学年が上がるごとに、音量も技術も目に見えて上がっていく男子達は、ちょっとした名物にもなっていたほどだった。

だが女子はそういうわけにはいかない。
私の学年は女子が3人しかおらず、大して見映えもしないという理由からなのか、高学年からは浴衣が法被になり(これはまだ良い変化だが)、ゆったりした曲調から、チャキチャキした曲調のものに変わっていった。

いずれにしても、片や手放しでの称賛、片や公開処刑である。
同じことを思った同郷の女子は、きっと私だけではなかったと思う。

相当後に分かったことだが、このつなぎおじさん先生は、町内で屋根瓦の工務店を経営していたようである。
その見た目に反して手指の動きはしなやかで、確かに踊りの名手ではあった。
事実、町内を飛び超えて、地元の小学校で自作された音頭の振り付け監修も担当していたほどだ。

だが、いかんせんその見た目だ。
いくら踊りが上手くて優しくても、清潔感のかけらもなく、小学生女子には既に受け入れ難いものであったことは、火を見るより明らかというしかない。

加えて、小学校中学年以降にもなれば、「踊り」自体が気恥ずかしいものになってくる。
私は踊りそのものが嫌いではなかったものの、気が進まない女子が出てきても、それは仕方がないことであると、今なら首がもげるほど頷きたい。

だが、段々時代や嗜好が変化するのは当たり前のことであり、私の一回り下の妹の代(最終学年時)では、彼女達の希望で「太鼓もやりたい」という話になり、踊りと太鼓の両方を披露していた。
更にその後からは、踊りを希望しない女子が増えてきたためか、高学年からは女子も太鼓のみとなり、ついには少子化の影響を避けられず、太鼓も踊りも行われなくなった―。
こう書いていると、それだけで切なくなって来てしまうのは何故であろうか。

だが、今でも憶えているのは、この、つなぎおじさん先生がいつも笑顔で思いの外優しかった、ということである。
上手くできなくても、多少不真面目にやっていても、女子たちを叱りつけたりすることは一度もなかったし、そんな話は聞いたことがない。

清潔感のなさを子どもたちに突っ込まれることはあっても、先生に飛び付いたりおんぶされたりしていて、心底嫌われている、というわけでもなかったし、特別の事情を除いて練習に来なくなるような子も私が知る限りひとりもいなかったのだ。

今思っても、これは不思議だし、驚異的なことでもあった。
人を見た目で判断してはいけない、という教科書的な事例とも言えよう。だからこそ、やいのやいの言われても、あそこまで踊りの文化(?)が続いていたのかもしれない。
先生の人柄と踊りの技術だけは確かだったと今でも言える。

今、あのおじさん先生はどうしているのだろうか。
また、実家で話を聞いてみようと思う。

明日のタイトルは
セトリ地獄

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?