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【らべあろ企画】名勝・名城めぐり 水戸城

こんにちは。
Sen-singさんにお声をかけていただき、水戸から乗車します。

Sen-singさんの記事は、面白く学びを深められます。
二本松城の詳細なご案内と歴史にまつわるエピソードから、見事に詠まれた御句がこちら。

若楓霞ヶ城のもののふぞ

解説を読んで「若楓」を思って涙がこぼれました。

私がバトンを受け取ったのは水戸城。

小さい頃は、夏休みに水戸の叔母の家に行って、従弟たちと戯れていました。男兄弟4人、ワイルドだった・・・
私にとって水戸は馴染みの街。
と思いきや、水戸城の知識ゼロでした!!
驚くほどに(;^ω^)
はい、お勉強。
ラベンダーさんが用意してくださったこちらのサイトへ。

・水戸城は、北を那珂川、南を千波湖に挟まれた日本最大級の土造りの城
・大規模な土塁とともに、城の西側の台地には五重の堀、東の低地には三重の堀を巡らせ、堅固な防衛線を築いていた
・元は平安時代末から鎌倉時代初期に馬場氏の手により建てられた館に由来し、後に江戸氏、そして佐竹氏の手を経て、慶長14(1609)年、徳川頼房公が水戸に封じられるとともに水戸徳川家の居城となる

上記サイト

その歴史は古く、12世紀末~13世紀初頭に建造され、馬場大掾氏が城館を備えたことに始まります。以来、江戸氏、佐竹氏、徳川氏と城主が変わる毎に拡張が繰り返された土造りの平城。
1609年、徳川頼房が入府し、以来、水戸徳川家が11代にわたって支配しました。ご存じ「天下の副将軍」水戸光圀は頼房の子で第二代藩主です。


慶長14(1609)年、徳川頼房公が水戸に封じられるとともに水戸徳川家の居城となります。頼房公は三の丸や外堀の整備拡張を行い、二の丸に御殿を造営、併せて三階物見と呼ばれる櫓を建設しました。しかしこの三階物見は明和元(1764)年の火災で焼失、後に再建された際に屋根を銅瓦葺とし、天守らしく鯱を上げ三階櫓(御三階櫓)と呼びました。

上記サイト

1945年、水戸城は空襲で大半を焼失しました。
今では、土塁や堀、三の丸に作られた藩校弘道館や薬医門などが残り、かつての姿を偲ぶことができます。

水戸城の特徴は、なんといってもその規模の大きさ。
昨日のNHKの番組でも紹介されましたが、かつての堀を利用して現在は線路と県道が敷かれています。
さらに本丸跡を中心に今では城跡に学校がずらりと並んでいるのです。

本丸西側の堀と土塁は、幅40メートルもある。おもしろいのは、堀底がJR水郡線の線路になっていること。直線的な空間が確保されている堀底に線路を敷くケースは全国的にもよくあるが、水戸城はその代表例といえよう。線路との比高は22メートルに及ぶ。

現在の水戸第一高校の敷地がおおよそ本丸跡、第二中学校や水戸第三高校、茨城大学教育学部附属小学校の敷地が二の丸跡にあたる。そして、弘道館や三の丸小学校、県庁三の丸庁舎が三の丸跡だ。中心部だけでもかなり広大だったことがわかるだろう。東二の丸を含むこれら主要部は、東西約1200メートル×南北最大約400メートルに及んでいる。

朝日新聞digital https://www.asahi.com/and/article/20230501/423748632/


2014(平成26)年度からの本格的な歴史景観整備事業がはじまり、学術調査をもとに大手門や二の丸角櫓、土塀などが復元されました。


では一句。

草若し堀の線路の累々と


(お笑いコンビのカミナリのイントネーションで読んでみてくださいね。)

おい、城を詠め!と言われそう。
いや、ほんとうに難しかった~
汗💦駄句駄句ダクダク
らべあろツアーの皆さま、
錚々たる俳句が並んでいる‥流石です。

おまけの川柳

学問も土に根差すや水府城
ラーメンに舌鼓うつ御老公

まだまだ書きたいことは山ほどあれど、
長くなったので、このへんで~
添乗員さん、私のお弁当あります?

次はいよいよ江戸城へ
詠んでくださるのは、橘鶫さんです!

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