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らべあろ企画❅名城名勝めぐり❅二本松城

※本記事は、H5/5/2 に公開したものですが、本日(H5/5/11)二本松市観光課さまのご厚意により、二本松城の画像を追加し再編集したものです。
東北の名城のひとつ、二本松城のリアルな画像もお楽しみください。

新緑や杜の都の青葉城  嶋田 泉

なんとも初夏の心地よい風を感じさせる御句。
仙台城を詠っていただきました。
さて、嶋田 泉 様から仰せつかったミッションはこれも東北の名城
『二本松城!』
渋い、渋すぎる。お城ファンとしては涎が出そうなお題です。

別名「霞ヶ城」とも呼ばれ、日本百名城の一つにして、国史跡の二本松城。
まずは、ちゃちゃっとこのお城の物語から語らねばなりません。
面白いと言っては語弊があるかもしれませんが、戦国~江戸時代ファンには堪らないストーリーが続きます。

霞ヶ城公園(本丸石垣)

ただし、その前にお断り ⇓ 私、二本松城の攻城は未経験です。信頼できるスジからの情報を基に記事を書いているつもりですが、いつものごとく思い込み、妄想、独断の類いが入っているやもしれません。その点、留意されてお読みください。

❅二本松城物語【前編】

元々は、今から600年も前に畠山氏(当時は二本松氏とも)が居を構えたのが二本松城の始まり、その後江戸幕府の終焉~戊辰戦争に至るまでの450年間、(奥州街道の要衝だったこともあり)壮大な歴史ドラマの中の渦中にあり続けました。歴史上の大物も続々登場します。

天正14年(1586)、畠山氏は伊達政宗に滅ぼされます。
一行で済ませてしまいましたが、原因については隣国とのしがらみ、いさかいが渦巻くドロドロの経緯があったようです。
しかしそのわずか数年後、あの豊臣秀吉が触手を伸ばしてきます。
蒲生氏郷(キリシタン大名として有名、信長の娘婿)の所領とさせ、懐刀の石田三成や浅野長政らも駐留させます。
その後は奥州仕置きとやらで豊臣秀次が入城するやら、徳川家康がちょっかいを出してくるやら、そうそうあの春日山城で登場した上杉景勝の居城(わずか二年ほどでしたが)ともなります。それほどの要衝だったのです。

江戸期の二本松城主は先の蒲生氏の系から、加藤嘉明(秀吉の子飼衆で賤ヶ岳七本槍のひとり)を経て丹羽光重に。この丹羽氏の治政が明治維新まで続くことになります。
光重は織田信長の宿老、丹羽長秀の孫。長秀は本能寺の変後、上手く立ち回っていれば天下を取っていても不思議ではなかったほどの大物です。

ちゃちゃっとのお話のはずが、結構なボリュームになりそうです。
飽きられないうちに前編・後編に分けてと。
つなぎとして拙句も詠んでおきましょう。

若楓霞ヶ城のもののふぞ

                 Sen-sing 


二本松城 箕輪門

❅二本松城(別名は霞ヶ城)物語【後編】

予告編?で、二本松藩のご家老を存じていると言ってしまいました。
そのお方こそ、丹羽久米之介(貴明)。
江戸期後半に、天下の三介と呼ばれた名ご家老三人の中のひとりです。
すなわち、姫路藩の河合隼之助、沼津藩の土方縫殿之介ぬいのすけ
そして当地の丹羽久米之介。
河合隼之助(後に道臣~寸翁)は、藩財政を任されたときの負債が73万両(今の400~500億円ほど?)を木綿など、特産品の生産奨励や流通ルートの改革で10年ほどで返済し、武士、庶民隔てなく学べる学校「仁寿山校」を創り、干ばつに備えて「固寧倉」という米の備蓄倉庫を各地に置いたりした名家老です。この頃は、各藩とも財政危機に喘いでいました。米沢の上杉鷹山しかり、薩摩の調所広郷ずしょひろさとしかり、そしてこの三人。
なぜ、NHKは彼らを「英雄たちの選択」に取り上げないのか!

ん!?、話がコースアウトしてますね。戻します。
とにかく、丹羽久米之介も彼に負けず劣らず、藩内のインフラや財政再建に力を発揮した名家老なのです。

で、話は明治維新~戊辰戦争に進みます。
「会津征討」
薩長を中心とした新政府軍は、京都守護職時代の松平容保憎しだけのために(←個人の感想です)会津藩を攻め、白虎隊や婦女子の大量自決などの悲劇につながるのですが、二本松藩でも起きていたのです、少年隊の悲劇は。

新政府軍は、会津周辺の仙台や米沢などの大藩にも会津への追討命令を下します。会津の隣国二本松藩も同様、一旦は会津征伐組に加わります。
ただ、各藩は水面下で会津藩を説得し、新政府に降伏させてなんとか戦にならないよう懸命につとめていました。
しかし、新政府軍の世良なにがし(奥羽鎮撫総督府下参謀)という元長州藩士らは、錦の御旗をいいことに奥羽で乱暴狼藉の限りを尽くし、しかも会津藩が信念を曲げてまで出した詫び状も受け付けません。怒りが頂点に達した仙台、米沢藩等は二本松藩も巻き込み、新政府軍と戦うことになります。
東北戦争です。

しかし、二本松藩は兵力もわずかで新政府軍の最新式銃のような装備もない。勝敗の行方は戦う前からついていたのです。
そんな内情から早い内に降参したかった。
ただ、藩主丹羽長国は元々病弱ということもあり、米沢藩へと(仙台藩の護衛をつけて)逃げている。
これが何を意味するか。未だに仙台、米沢藩は新政府軍と戦う意欲満々、藩主長国は人質のような立場になって、二本松藩は降伏することも出来ないのです。
二本松藩の正規兵は城を出て戦います(白河口の戦い)。
残ったのは、老兵や13~17歳までの少年隊。新政府軍はそこをついて城に攻め込みます。白旗を揚げようという大人は(城外や自刃して)既にいない!

・・・

二本松少年隊の今に残るリストには、13~17歳の62名が名を連ねています。
その内、戦死者14名(18名という説も)。13歳が4名、14歳の2名もその中に入っています。慶応4年(1868)閏7月29日のことでした。

(再掲)
    若楓霞ヶ城のもののふぞ
   
わかかえでかすみがじょうの武者なるぞ

運命のいたずらは、あまりにもむごい結末になってしまったのです。


長々とお付き合いただきありがとうございました。


城内におかれた二本松少年隊像は、今も涙を誘います


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ではでは、次のお城をご案内していただく隊員をご紹介します。
私をらべあろ隊の一員にしていただいたと言っても過言にあらず。
レギュラーメンバーの… …( ジャーン ~ ドラムロール ・・・・・・・・・・・・ )

☆☆☆--- すうぷさん ---☆☆☆ です。

例のイベントも一息つき、(と、勝手に思わせてもらって)
無理にひっぱって?お願いしました。(でもまだまだお忙しいはず)
お読みいただくのは、水戸城 (今日のNHKお城番組でも紹介されますね)

どうぞよろしく、お願いいたします!。

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このツアーも後半戦、念のため(名ガイドさんに代わり)行程確認しておきます。

 岐阜城スタート
⇒ 丸岡城 ⇒ 金沢城 ⇒ 富山城 ⇒ 春日山城 ⇒ 弘前城 ⇒ 松前城 ⇒ 五稜郭 ⇒ 仙台城 ⇒ 【二本松城】 ⇒ 水戸城 ⇒ 江戸城 ⇒ 小田原城 ⇒ 静岡城 ⇒ 松本城 ⇒ 名古屋城 が最終。

最後にもう一枚、お楽しみください。

写真のタイトルは「天空の城★気高く」
石垣が青空に映えます


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