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突然、「執着」について語りたくなったから書く

執着について書きたい。現代、数多の執着が諸悪の根源とされている。しかし、私は執着なしでは人間らしい生き方ができないと感じている。自分の過去、仕事、住む場所、国籍など一人の人間が保有している情報は多い。それは、客観的事実以外にも主観的なものや目に見えないものが含まれる。私は、年を重ねるうちに自分の身の回りのものや自分自身への執着が薄れてきたと感じる。ビジネス書をたくさん読んできたことによる弊害とも言えるかもしれない。たいていこれらの本は、「シンプルisベスト」「変化を受け入れるべき」と謳っている。そして私もこの考えに傾倒し、物事が効率的に適切に進んでいるのか常に気にしてしまう人間になっていったのだ。これは、執着に関係していると考える。シンプル化するのは、その他の雑多なものを切り捨てることであるし、変化は既存のものを疑うことだからだ。しかしこれらは物理的には豊かになるプロセスかもしれないが、精神的には豊かになるとは限らない。頭は変化のスピードについていっているが、心と体はついて行っていないのだろう。私は、環境を変えることや新しいことを始めるが心の底から好きでそういう性分なのだろうと思う。しかし、頭では人生が良い方向へ進んでいると証明できるはずなのに何故か、突然無気力になったり人間として普通ではない感覚に襲われるのだ。この状態は、人間らしい状態ではないことは明確だ。過去の事に捉われないこと、所有物を思い切りよく手放すことはある意味アイデンティティをすり減らしていることなのかもしれない。もちろん、ある程度の情報の取捨選択は必要不可欠だ。だが、自分の思考を司る記憶や自分の心が理由なく踊るものはあえて執着してもいいと思った。合理的に考えて選択すると理想が近づく。しかし、理想が近づいたからと言って幸せになれるとは限らない。自己実現欲求が仕事上で得れる機会も多いだろう。しかし、この幸せは家族と過ごすことで生み出される幸せとは質が違う。アドレナリンとセロトニンの違いだろうか。(よくわからない。)私は物理的にうまくいっている状態よりも平穏な心の方が価値があると思っている。できないことをできるようにしてもがいて勝ち取っても、そばにある平穏の方がよっぽど自分を幸せにするのではないかと。執着は自分への愛や人生の主体性に関与する。つまり、執着がなくなると全てがどうでもよくなる。それは人間らしい健康的な心理とは言えない。執着を捨ててきた私は、執着の必要性を身を以て感じた。執着が平穏な心を裏付ける。何事もバランス。おそらく、執着しすぎも執着しなさすぎも良くない。自分の中で情報を解釈し、断定的思考に陥らないようにしたい。断定的思考は魅力的で、自分の行動がスムーズになるのでつい陥ってしまう。それが、自分が思っているよりも効果を生まないのは経験的にわかっている。わかってのに、性分に逆らえず行動してしまっているのは非効率で人間らしいではないか。と、まぁ真逆の結論が導かれたところで執筆終了。

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