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贈与論から考える #3

また少しずつこの贈与論を読んでいきますか。

▶︎ 前回

前回は、この「贈与」が成り立っているのは両者の間の「法」だけではなく、「霊」という見えない存在によって担保されているという事だった。
現代と違って、科学が浸透する前の世界は、こういう宗教的な存在による秩序が重要だったんだなという事が分かる。

▶︎ 概要

贈与や交換は、社会の中でどのような意味を担っているのか? モース(1872-1950)は、ポリネシア、メラネシア、北米から古代ローマ、ヒンドゥー等の古今東西の贈与体系を比較し、すべてを贈与し蕩尽する「ポトラッチ」など、その全体的社会的性格に迫る。「トラキア人における古代的な契約形態」「ギフト、ギフト」の二篇と、詳しい注を付す。

*何言っているか理解しづらいけど、自分的には、
「昔の民族同士の贈与形態やその背景を追っている」と解釈しています。

*集団間での給付体系をここでは「ポトラッチ」と呼んでいる。

▶︎ 本書の論の方向性

①法規範と利得追求に関わるどの様な規則があるから、贈り物を受け取るとお返しをする義務が生じるのか。
②贈与される物にはどの様な力があるのか
③受け手はそれに対して、お返しをする様に仕向けられているのだろうか

▶︎ ピックアップ&雑記

人間が契約関係を取り結ばねばならないかった存在者たち、(中略)そもそも人間と契約関係を取り結ぶためにそこに存在したいた存在者たち、この様な存在者が最初はどの様な範疇の存在者であったかと言えば、それは何よりまず死者の霊であり、神々であった。(p,117)

霊第一主義的なものがあるからこそ、他人に贈与しないと自分に何かしらの仕返しが行われると信じ込めるのは凄いなと人間第一主義側としては思う。

となるとこの時代は、自分がどうなるかよりも、どうあるかの方が大事だったんだなと。未来の事は重要ではない。今の自分の行いが神や霊にとって正しくあり続ける事が最重要課題だと。
別の苦しみ的なのはあると思うが、神と人に正しくあれば将来も保証されていると思えるからこそ、生きやすい時代の様には感じる。

少なくとも自分が何者かにならないといけないと思ったり、将来の事をよく気にする現代よりかは。
狭い世界では、ちゃんと教えの通りにいれば良いんだろうな。

世界も宇宙規模で見れば狭い世界かもしれないが、これだと現代の人類は友好的に関わるのに苦戦するだろう。
そのために、自由で個の欲求を追い求めるのが許可されてある資本主義という教えがあるんだろうなと。

人間への贈与も神々への贈与も、人間との平和的関係および神々と、平和的関係を、それと引き換えに手に入れる事を目的としている、(中略)こうして、邪悪な霊が遠ざけられる事になる。(p,122)

現代から見れば、ルールがある事によって、邪悪な霊の様に見える、人間の苛立ちや不快が行動に現れるたり、何かしらのミスにこれらが結び付けらた結果、霊がいるとなるんだろうと。
科学的であろうとなかろうと、どうでも良い話で、何か信じれるモノがある事の方がよっぽど大事なんだなと。
結局、人間どうにもならなかったら最後は祈るよね。
現代に無いと分かっていても、こういう教義を全体が信じるだけで、また違った良い方向に進むのではと思う。

施しとは、贈与と富にまつわる倫理的な考えが生み出したものであると同時に、犠牲にまつわる考えが生み出したものである。そこに置いては気前の良さが義務付けられている。(p,125)

"しかしながら後代になると、法と宗教が発展する過程で人間が再び前面に現れる様になった。"
とこの前の文章であるのだが、人間が前に出れるんだと思いながらも、
この「富める者は与えないといけない」
という所得の再分配機能が宗教にあったんだなと。

というよりも、
"度を越して富に酔いしれる人は貧者と神のかたきになるからお裾分けしないといけない(意訳)"
という文章があるが、そもそも「富を稼ぐ事」は悪だったのかなと思う。
多分それは、資本主義ではないからこそ、富は限られているので、独占してはいけないというのがあったのだろう。

どう感じかは分からないが、
もしかしたら自分が富む事は誰かが犠牲になる事を理解していたのかもしれない。

だが資本主義で資本や貨幣が増えていく事を知った途端に富む事は悪いとは言わなくなった。

果たして現代は富を独占する事は、本当に善なのか悪になるのか、富む事と贈与の関係性をより考えていこう。


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