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ハッキリとした「わたし」はいない。それが分かると他人の目が気にならなくなる

「わたしってこういう人だから」

このセリフ、気づくとつかっていませんか?

「わたしって才能ないから」
「わたしってお母さんだから」
「わたしって怒りっぽいから」


わたしの名前は○○で、○○歳で
家族がいて/いなくて、
仕事は○○をしていて/してなくて
○○な経歴で、○○な性格で、
○○が得意/苦手で…

こんな風に
わたしを定義付けています。

この「わたし」は外側から見たわたし

前回の記事に書いた
観察するわたしとは違います。)


他の人と区別するためにあるもの

だから
この「わたし」の意識が
強くなればなるほど

他人との比較が強くなり
他人からどう思われているか?
つまり
他人の目がすごく気になるようになります。

○○さんより
わたしは若いけど、あの人のほうが肌がきれい。

わたしは○○が得意だけれど
○○さんの方が
凄いといわれている。

お母さんなんだから
早く帰って夕飯を作らなくてはいけない。

あの人たちに
バカにされている気がする。
きっと嫌われている。

こんな風に
自分の行動を決めたり
自分の評価を決めることに使っていて
大抵それは自分に対して辛口評価

たとえそれが良い評価だったとしても
その評価を落とさないように
わたしをもっと頑張れと駆り立てて

わたしの気分を落としてきます。

こうやって
他人の目を気にすること
他人と比べることをすることで
辛くなっていっているのですが

その大元は
他人と比べるわたしでも
他人の目を気にするわたしでも
他人や自分を否定するわたしでもなくて

「わたし」という定義を
くっきりはっきりさせてしまうことなんです。

前回の記事にもかいたように
わたしは
思考や感情、思い込みや過去という
カタチのないもので定義され
創られています。

カタチがないもので出来ているから
本当はすごく流動的。
いつも同じじゃない

確固とした「わたし」なんていない。

実際
ご機嫌な時のわたしと
落ち込んでいる時のわたしとでは
かなり印象は変わってくるでしょう?

そんな外側からのわたしにばかり気を取られて
そんな曖昧なわたしを取り繕おうとして
苦しくなっている。

それだけだったんです。

しかも
他人の目や他人の評価というのも
わたしが勝手に思いこんでるだけだったりもして

お母さんだから
早く家に帰らなきゃと思ってたけど
実際、遅く帰っても
家族は特に気にしてなかった。とか

肌が汚いからって気にしてたけど
誰も気づいてなかった。とか

嫌われてると思ってたら
ただ遠慮されてただけだった。とか

よーく考えると
そういうことありますよね?

そう、だから
わたしがいま苦しいと思っていることは
わたしが思い込んでいる
「○○なわたし」から始まっていて

○○なわたしもいるけれど
△△なわたしもいて
▢▢なわたしもいて

いまここで
「あー、おいしいなあ」
「あー、気持ちいいなあ」
「あー、もやもやする」と
起きていることを感じて
寛いでいると

なにかが緩んできて

あんなに気になっていた
他人の目が気にならなくなり
わたしを否定することも減り

なんだか分からないけど
何かが、すべてが変わってきます。



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