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どうも、わたしは身体的狩猟採集民らしい。

どうも、わたしは身体的狩猟採集民らしい。「どうも」「らしい」というのは、何か確定的なことがあるというより、たまたま狩猟採集民の話を聞いたり、本を読んだりすると、「そうそう」と腑に落ちることが多く、自分の行動に納得感が出てくるからだ。

2020年に橋本緑が書いてくれた絵。この時は自分の性質にまだ気づいてなかったが、
外から見たら明らかだったのかも(笑)。

日々感じる狩猟採集民的性質

例えば、ブリコラージュ的に手持ちのものでなんとかするのが得意なこと。レシピがある料理をつくるのは正直面倒くさくて苦手だが、冷蔵庫に頭を突っ込んで、あるものでなんとかするのは、めちゃくちゃ楽しい。

例えば、先が見通せると途端に興味が失せること(未知への志向性)。仕事にしろ、旅にしろ、体験できそうなことが見えた時点で、一気に興味が失せる。未知という意味では、トラブルにも強い。

例えば、決定的に権力が嫌いなこと(平等がいい)。効率良さそうであろうがなんだろうが、権力というものがとても嫌だ。どんなに素晴らしい人が目の前にいても、崇め奉られているとモヤモヤする。例えそれがブッダであったとしても。もちろん、自分がちやほやされるのも気持ち悪い。

例えば、挑戦することへの恐怖心が薄い(挑戦心・冒険心が強い)。自分は、積極的に破綻してやれ、先取りして壊してやれ!と思う。自分が壊れる度に、自分の中心に近づき、より世界との出会いが楽しくなるのを知っているからだ。挑戦するのが怖いという人がいるが、挑戦しない方が怖い。

例えば、自由がいい。人とべったりするくらいなら、孤独の方がいい。小学生の頃から、つるむのが苦手で、移動教室を一緒に友達と歩いたり、トイレに一緒に行くなんて芸当は到底できず、「一匹狼がいい」と小さい体でも思ってた。

わたしは何に飢えているのか?身体的狩猟採集民とは?

「わたしは、狩猟採集民です。」などどいうと、「葉山には海山があるから、魚をとって、木の実を集めて生きてるんですか?」と思われるかもしれないが、そういうことではない。

現代においては、お金を出せば、食料は手に入ってしまうので、狩猟したり、採集したりするスイッチが発現しにくい。少なくとも、わたしにとっては。狩猟採集的本能が発揮されるのは、「飢え」だ。じゃあ、わたしは何に飢えているのか?それは、「生き生きとしたもの」だ。

パターンランゲージという考えを生み出したC・アレグザンダーは、「生き生きとした生(ライフ)」の存在について語っているが、わたしが子どものこ頃から飢えて、追い求めているのは、このライフ=「いのち」なんだ。

もともと「いのち」を追い求めるハンターであった

「対話」をするようになって、自分の内側の声に耳を傾けられるようになると、幼い頃の記憶がふと身体的に浮かび上がってきた。保育園の年長さんか、小学校の低学年の頃、ジャングルジムの横に立ち、何やら孤独らしきものを感じながら、1人佇む自分が見える。

「”いい学校入って、いい会社入って、いい条件の人と結婚して、子どもを産んで、幸せな家庭を築く”のが幸せに至る方法のようなことを大人は言っているが、その方法を知っている割には、大人は幸せそうじゃないな。嘘くさい。仮にそれが一般的な幸せへの道とすでに証明されているなら、わたしがそれを証明する必要はもうない。自分は自分のやり方で幸せへの道を探求するんだ」

こんな風に言語化できていなかったとは思うが、ジャングルジムの横に立って1人考えを巡らせていた時の体の感覚を今ことばにすると、こんな感じだ。「社会」に巻き込まれて、すっかり忘れていたが、もともと嘘くさいものが嫌いで、生き生きしたもの「いのち」を追い求めていたんだった。

与えられた性質でこの時代を生きること(現代の狩猟採集民)

「いのち」は何も外に追い求めるばかりではなく、自分の内側にもある。未知の仕事に挑戦すると生き生きスイッチが入るが、先が見通せるとやる気が無くなるのは、自分の内側の「いのち」の流れが停滞するのを感じるからだ。

都会にいると、「いのち」に触れる時間が短くて窒息しそうになるが、自然豊かなところにいても、「いのち」に満ち足りすぎて、かえってやる気をなくす。「適度な飢え」があることが、わたしの性質にスイッチを入れ、からだが勝手に生き生きしてくる。

だから、わたしがわたしの性質を生きること、わたしが生き生き生きられる方向を選んでいくことは、「いのちがあるが見えにくい場所に、いのちを巡らせる」ことになるはずだ。

つまり、藪をかき分けないと見えないところに突っ込んでいって「いのち」を発見する(狩る)が、自分のものにして耕すことにはあまり興味がないので、次々に「いのち」を発見するにとどまるという、そんな感じ。

自分で性質は選べない。この世界に、自分として生きるとは、その性質と、時代と、場所が出会ったときに、出現しべきものを出現させるということ。だから、まあ、良し悪しではなく、与えられたこの性質とこの世界との一期一会を楽しむとしようか。







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