小学校時代の反省会吊し上げといじめの日々をつらつら書いてみる(その3)
※いじめの描写を含みます。フラッシュバック注意
しばらく間が空いてしまったが続きを書くことにする。
前の記事は下記
クラス替えはなかった。
6年生になったが、クラス替えはなかったし担任も「持ち上がり」であったため変わらなかった。但し担任の苗字は変わった。どうやら結婚したらしく、お相手は教員同士の研究会で知り合った方らしいという情報が流れてきた。
このことは後年、いじめの問題を探るヒントになるのではあるが、当時そんなことが意識されるわけもなく「ふうん」程度のものであった。
どう転がっても良い予感のしない小学校最終学年のスタートである。
しかし、学校外では少しだけ楽しみなことがあった。
中学受験向けの塾に通うことにしたことだ。昭和51年、首都圏での中学入試は「四谷大塚」の予習シリーズ(1~4)をこなすのが必須といった雰囲気であり、小5からスタートするといったのが定番のコースらしかったが、まあ、何とかなるだろうと、自転車で10分くらいの距離にあった四谷大塚準拠塾の入塾テストを受け、学習塾に通い始めた。
5年生の冬、地元の中学校へ通うことが「恐怖」でしかなかった私に「学習参考書」の問題の末尾にある(○○中)という文字が、地元以外への進学という選択肢を教えてくれた。
親に「受験して地元以外の中学校に行きたい、そのために塾に行きたい」というと、「ちゃんと頑張るならヨシ」とあっさりOKが出た。裕福な家ではないので他の習い事は全部やめることにはなったが、希望には代えられない。
相変わらずの学級会の日々
さて、学校の話に戻るが、学校はと言うと、基本的には5年生の時の状況が続いていた。
とにかくありとあらゆることに難癖が付くのである。
困ったことは「逃走路」が確保しにくい位置にあったことだ。階段は近かったが、屋外に出るのに職員室の前を通らざるを得ない。
これには一計を案じた。
巧妙化するいじめ
難癖のパターンは少し変わってきた。「学習」に関わることが増えてきたのと、多少「巧妙」になってきたということだ。「巧妙になっていった」のはクラスメイトも担任もである。
持ち物が無くなったり汚されたりは、少しは減った。
昇降口が職員室前であったので、靴はなくならなくなった。
真面目でない罪
授業中の「態度」にまで派手な難癖が付くようになった。
しかし基本、私は他人の邪魔をしない主義であるので、授業中は至って静かなものである。
授業そのものは、学期初めに教科書全部読んでしまう類の児童だったので、特に楽しくはない。地図帳や資料集で暇つぶしができない時間は、問題でも解くか落書きするくらいしかない。
教科書の隅に落書きしていて、授業中の課題時間の机間巡視でいきなり名指しで叱られたことがある。ほかに教科書を落書きだらけにする奴なんていくらでもいるのにも関わらず、私だけが叱られるのである。
もう目をつけられていることは明らかなので「いや、その課題はできていて暇なんですけど…」などといった口答えはしなかったが、顔に出ていなかった自信はない。
その後「★さんは授業中に落書きをしていました、良くないと思います」といった、「不真面目の罪」での糾弾が発生することになる。
協調性がない罪
「班での○○調べ」「班での○○新聞づくり」などというのも、案外面倒くさい代物だった。
今であれば、ある程度フォーマットが揃っているが、当時は「やりなさい」だけの課題である。そして分担とかいうものがついて回る。
何のためにやらされるのかも分からないそれらの課題を、右往左往しながら「仕上げ」させられる。誰も何もなにも提案しなければ終わらないが、誰かが何かを提案しないと終わらない。正直いって目立ちたくないので手を出したくない。
そうすると放課後に班で残って延々と「話し合い」となる。そこで、適当に仕上げ方向に提案をすると、皆とっとと終わらせたいので乗ってくる。そして課題完成に至るわけだが、なぜかそれだけで話は終わらない。
翌日~数日後に「班員の意見を聞かずに勝手に進めた罪」なるものが捏造されるのである。
手のひら返しもいいところである。
「おいおい、皆同意したろう」と主張はするが、それに同意するものなどいない。
かくて「いかに勝手であるか」といった、吊し上げ大会がはじまり、「そういえばあの時…それはこういう身勝手な気持ちから」といった、大想像発表会にまで至る。
気持ちを勝手に想像するゲームを延々と聞かされるゲームが続く。
担任はというと…基本なにも介入はしない。
宿題を写させる罪
宿題は、案外真面目にやっていた。
宿題といっても「教科書orワークの何ページの問題を解く」だけである。
不愉快な担任の出す宿題であっても、学習の結果は自分に積み上がるだけで、別に損があるわけではないと考えていた。
なので、登校時には仕上がっていることが多い。
すると、教えろ写させろ…と言ってくるやつがいる。
下手に断るとまたケチだなんだいろいろ面倒なことになることが予測される連中もその中に入っていたりするのでややこしい。
別に教えることはやぶさかではないが、時間の限界も、相手の限界もあるし、私は教師ではないのでそこも限界がある。
仕方ないのでノートの宿題をやったあたりを開いたまま、その場を離れるという手でしのいでいた。
これが気に食わないのは「真面目な女子ボス」である。
帰りの会でやり玉にあがり「宿題を写させる罪」が問われるということになる。勝手に写した層は、罪に問われることを恐れてだんまりである。だが、教員も「宿題の意義」に関わる部分なので、手を緩めにくい問題である。
翌日の臨時の「学級会」持ち越された。
何人か気の弱い「答えを写した層」が、「やりました」をゲロして、連帯責任で謝らされるという事態に発展。さらに謝らされた層が、逆に「写させた罪」を糾弾する側に回る。
馬鹿くさいとは思ったが、糾弾されるのはお門違いであるし不愉快極まりない。
かくて、私は5年生の時と同様に教室から逃走した。
逃避行
逃走経路の関係から校外には出にくくなった。
追っ手の足音が近づく前に捕縛されない場所に「隠れる」だけである。
なぜ私が逃げ隠れしなければいけないのか?とも思うが、捕縛されることはさらに屈辱である。
別棟の体育倉庫の付近の塀との隙間、体育倉庫の壊れた大玉ころがしの玉の中、昇降口の脇に置いてあった跳び箱の中にも隠れた。
壊れた大玉ころがしの玉の中は案外快適であったが、跳び箱の中はあまり居心地は良くなかった。
が、居心地は良くなかったが跳び箱のあった昇降口は職員室のすぐ前であったことと、跳び箱には持ち手の穴があいていたことから、追っ手の様子を観察できた。
授業時間中に捕り物よろしく教室から追っ手が出てくるなど、どう考えても目立つし不自然だと思ってしまうので、それを止めもしない担任の考えていることはわからないなあと思っていた。
追っ手が消えたころに適当に廊下に出ていって担任以外の教員にあえて見つかり、教室に戻るのである。
通常授業を潰して開かれる学級会
担任も巧妙になった。帰宅が遅いといった苦情に懲りたのか、新婚さんで早く帰りたかったのかは定かではないが、「帰りの会」でもめると、30分程度で「では明日、★さんのことについて話し合いましょう」と、他日に持ち込むことが増えた。
特別活動としての「学級会」の枠だけでは到底おさまらない。つまり他の教科の授業を完全につぶしての「学級会」である。
勉強嫌いの子にとっては「教科授業がつぶれる」は嬉しいことだっただろうと思うが、あまり教科授業を潰しすぎるのはよくないのでは?とひとごとのように思っていた。なお、なぜか「体育」の授業は潰さないのが特徴であった。
班抜かし
前の記事でも書いたように、クラスでは「多数決による決議」が常習化していた。
「★さんは自分勝手なので班抜かしにするべきだと思います」
の提案がだされ、私の「班抜かし」が、私以外の満場一致で決定した。
元々が手のひら返しの果ての捏造案件であるから屈辱である。
一番後ろの席をあてがわれそうになったが、ここで私は1つだけ抵抗を試みた。視力が悪いことを理由に「一番前」を主張したのだ。
「教育を受ける権利」の主張なので、担任もこれには同意せざるを得なかった。
「なんなの、その反抗的な目は!?」のお呼び出し案件
毎度の「逃走」の後、担任に職員室に呼び出されることもあった。
「なんでみんなと協力できないんですか?」
はっきりいって疑問符が涌きまくる発言である。
協力もへったくれもない状況を作っているご本人がそれ言うか?である。黙ったままでいると次の矢が飛んでくる
「黙ってないで何か言いなさい」
ときたもんだ。
「言ったら言ったでまたケチつけるだろうな」としかおもえなかったので黙っていたら、さらに次があった。
「なんなのその反抗的な目は!睨むんじゃありません」
これは面食らった。
なぜなら、目つきで難癖が付くのは日常茶飯事であったので、できるだけ見ないように、焦点をぼやかしていたのである。
睨んでいたように見えていたのか?担任の先入観かはわからずじまいである。
青い稲穂をわたる風
学校では吊し上げ学級会の日々が続いていたが、放課後は5年生の時とは打って変わっていた。
「委員会」とやらでは当番があるので不人気の「図書委員」になった。これでカウンター裏にある、禁帯出シールの張られたの図鑑や全集等も読み放題である。それ目的にほかの子(他クラスである)の当番を交代してやることもあった。
中学受験塾に通い始めたころも大きい。受験塾といっても昭和50年台初頭である、田んぼと住宅地の狭間にその塾はあった。
週三回、80分4コマ/週であったと記憶する。
受験塾であるから、もちろんクラス分けは成績で振り分けられる。
「どれだけ厳しいのだろう?」と初めはおっかなびっくりでもだったが、ド意外や意外私には楽しいものであった。
学校にはない学びの世界に夢中になった。
初夏の頃だった、窓から入ってくる風に、ふと窓の外を見おろすと青い稲が気持ちよさそうにそよいでいるのが目に入る。
「生きていてよかった」
そう思った。
学ぶことに楽しさを感じていいんだ。それが実感として湧き上がってきた瞬間であった。稲の青さがまぶしかった。
(そんなわけで、アイキャッチ画像が田んぼの写真なんですわ)
給食事件
事件は、二学期が始まってしばらくした頃に起こった。
給食当番は、吊し上げの提案をする男子ボス、太田(仮名)とその腰巾着である増岡(仮名)がいる班だった。あからさまに、配食量を通常量の半分くらいに減らしてきた。
たいていのことには腹も立たなくなっていた私ではあるが、これには怒りがわいた。一日目は「抗議」したが、「誤差」であると強弁され、とりあわれなかった。しぶしぶ席戻って食べはしたものの…腹が減った。
すでに給食くらいしか楽しみがなかったので、切実な問題であった。
二日目は怒りが沸騰した。
まあ、後先考えていたかと言えば、あまり考えてはいなかった。
がんとしてゆずらない体制で猛抗議をした…と言えば聞こえはいいが、配食された椀をひっくり返したのである。人にはぶつけていない。
もちろん大騒ぎになる。
さすがに担任も放置はできなくなり、給食後にお決まりの学級会がスタートすることになる。投げつけた椀の分はまあ自己責任として処理された。
やっぱり腹が減った。
民主的議決に生存権が負ける
クラス構成員の腹がそこそこおさまったところでスタートした「学級会」ではあったが、当たり前に私が糾弾されることになる。
まあ、自治的な学級では「みんな」に抗うことは、それ自体が罪であり、蚊のほどの力もないのである。
「不平等な配食」よりも「抗議の手段」が問題にされた。
そして
「そんなに言うんなら、おまえは1mlも違えずに平等に配れるのか?」
といった屁理屈が登場、そうだそうだの合唱が付く。
そして「明日の給食は、★さんが1mlも違えずに平等に配るべし」という決議で学級会は終了した。
決議のバカくささに唖然としつつも、頭をかかえた。
父の入れ知恵
放課後、とぼとぼと家に帰った私は、父にこのことを話した。話しを聞いた父は、平然とこう言い放った。
「1ml以下にしかならないように配ればいい、数滴までなら絶対1ml以下におさまる、それでやってこい」
さすがにこの答えには私もびっくりした。まあ、確かに決議に反しないとはいえ、酷い手を考えるものである。ただ、これでは騒ぎが収まるわけもなく…は容易に想像がつく。
「え、それじゃあ、また騒ぎになっちゃう」と心配する私に
「後は任せろ、何とかする」とも。
父にどういう策があったのかはわからないままであったが、ここは賭けるしかない。他に乗れる手はない。
校長現る
さて翌日の給食の時間がやってきた。意地悪くニヤニヤ顔をした連中もいれば、騒ぎの予感におびえるかのような顔をした子もいる。
ともあれ、平然とした顔をしながら、配食開始である。
もちろん、一瞬で騒動になる。
「決議通りにしたまでだ」と言いはる私に、「ちゃんと配れ」「なにやってるんだ」の怒号が飛び始め、担任が止めにかかる。
が、止まるわけもない。
「決議」は担任が承認したものであり、担任に食って掛かる子も出はじめる。そして皆、腹が減っているのである。
騒然とした雰囲気の中、突如教室のドアが開き、校長先生がニコニコしながら入ってきた。この瞬間、父が校長に事情を話して、なにか話をつけたことだけは察しがついた。
校長はさも驚いた様子で
「あー、これはいったいどういったことですか?」
といった。途端に空気が変わった。
しどろもどろになる担任に対し、校長は
「じゃあ、この場は私があずかるということで」
とだけ言い、私に来るようにと促した。校長に促されるままに私は校長室に行き、ソファに座ってその日の給食を食べた。
そしてその後数日、私は校長室で給食を食べることを指示された。給食の時間になると校長室にいくのである。校長先生と雑談をしながらソファーで食べる給食、私にとっては天国であった。
太田の父の謝罪と裏事情
一週間ほどたった頃だっただろうか?突然、太田の父が訪ねてきた。
「★さんもうしわけない、嬢ちゃんに謝らせてください」
地元で商店を営む太田の父は、もともと父の営む洋服店の客でもある。店の客に宛てた年賀状の宛名書きは、その頃は既に私がやっていたので、私もそれを知っていた。そもそも太田は、ある時期までは私とよく遊んでもいて、小5の後半から豹変していたのである。
狭小住宅である我が家では、店と父の仕事場は繋がっており、小学生の頃は夕方は仕事場の隣の台所で私が勉強をするのが常であったので、私は台所にいた。
話しのネタが私であるらしいので、うっかり顔を出しそうになった私に、父が出ぬようにと目配せをするので息を潜める。
どうやら、給食騒動後に太田の家で騒動があったらしいのだ。
太田の家では、太田の母が「女の子に負けるなんて」と太田を叱っていたところで、太田の父がいぶかしく思い事情を問いただしたらしい。そこで給食騒動が発覚。
常日頃から太田の母と付き合いのあった増岡の母と一緒になって、なぜか私を当て馬にして盛り上がっていたらしい。そして、太田はなにかにつけて私と比較され母に叱られていたという。その八つ当たりで各種吊し上げや給食騒動の首謀者になっていたようである。
そして、すったもんだの末、事情を飲み込んだ太田の父が、恥を忍んで我が家に頭を下げにすっとんで来たということらしい。
その時点では太田の父母間での決着はついていなかった模様である。
その後、太田は謝まりまではしなかったものの、吊し上げ動議をすることは無くなった。まあ、こってり絞られたのだとは思うが、母との関係もあろう。
授業参観からの展開
相変わらずの帰りの会
連日の帰りの会は相変わらずのものだった。
「★さんが反省すべきだと思います」の大量決議である。
「授業中に塾の勉強をしている、おかしい(やってない)」
「★さんがあの子を睨んでいた(やっていない)」
「朝きてから宿題をやっていた。(やっていない)」
女子グループの中田、中岡によるものは陰湿であった。あることないこと言っては「腰巾着層」に動議を出させたり、喋らないように圧をかけたりといったもの。
とはいっても、既に一人班なのと、男子軍から太田が抜けたのもあって、派手なものは減っていた。
担任の提案
そんな10月の末頃の日曜参観の前日、担任が私を呼び止めた。
「★さん、授業参観で一人班は恥ずかしいでしょう、授業参観の時だけ他の班に入りませんか?」
この時ぞとばかりに、威勢よくにっこりと答えた。
「このままで結構です、特に困るはことないですから」
参観対応については父と「担任が何かいってきても妥協はしない」という方針をたてていた。
日曜参観当日
参観なので観衆がいること以外は、いつも通りの一人班である。
「班で話し合ってください」と担任が言ったところで「一人班」なので私はそのままだ。
何もしなくても目立つ。
参観に来ている父母が少しざわつく。全く事情を知らない父母もいただろうから面食らうのは当然である。
参観後すぐ下校となった私は、参観にきていた父と家路についた。
その日のクラスメイト家での話題、私の話が出た家はそれなりにあったらしい。
臨時保護者会
参観の数日後、保護者会が開かれた。議題は「学級の状況」である。
「一人班」という奇妙な存在に疑念を持ったPTAクラス役員らが言い出したらしい。
保護者会は父が出席した。母親勢に混じって学校が商業地域の真ん中であるため、地元商工業者の父ちゃんたちも結構いた、太田の父もいた(ここまでは見ている)。
ここからは父に聞いた話であるが、担任は「子どもたちの自治的な決定であり、教育である」と譲らなかったらしい。とはいえ、それでは保護者の納得も得られず、保護者側から保護者交代での「クラスの見守り」が提案され、担任もそれには同意せざるを得なかったとのこと。
父ちゃん達が多かったことを考えると、私の父が根回ししていた可能性も否定は できないが確認はしていない。
保護者による見守り
かくて、5~6時間目~帰りの会まで保護者による「見守り」が実施される運びとなった。
毎日二人ほどの保護者がいる中での授業と帰りの会、担任にはあまり気持ちの愉快なものではなかった様子である。「担任の煽り」はなくなった。
帰りの会は実施されはしたが、全体としてはかなりトーンダウンした。
それでも、今までやってきた「お祭り」を急にはやめられないのだろう。女子勢を中心にトーンダウンしながらの「吊し上げ」は中々やまなかった。
日々は過ぎていった。
11月の末に派手な風邪をひき、一週間ほど学校を休むと「ずる休みだろう」「学校休んで塾に行っている」など、根も葉もない揶揄は起こったが、大して気にもならなかった。ただ「しつこいな」と思っただけである。
そして、12月一杯で担任が産休に入ると知らされた。
学区変更
12月に入り、我が家が、新設の公立中の学区に入ることが判明した。
今までならS中学校の学区だったのが、S中学校とH中学校の共通区域に変わった。
中学受験を思い立ったのは、そもそも「今のクラスメイトと同じ中学校に行きたくない」ということが理由の主であり、受験の目的自体がなくなった感じである。
そうはいっても、それなりに勉強してきて、目標校にはほぼ合格できそうな成績にはなっていたので、ちともったいない気もする。
勉強への欲もでてきたところである。
とはいえ、あえて金のかかる私立に行くメリットはすでにない。我が家は裕福な家ではない。オイルショックの後の繊維不況の影響や量販店の台頭などもあって先行きは不透明だった。
そこで、国立と私立を受験はするが、私立しか合格しなかった場合は公立に行くことにした。
基本は意地と義理である。「受からないから受験をやめた」とか、絶対言わせてなるものか!という意地もある。そして、クソしつこい私の質問等に付き合ってくれた塾の先生への恩義もある。力試しがてら合格実績の一つくらい出したいではないか。
「反省会」が消えた日
三学期がスタートし、学校には新しい担任が来た。男の先生である。新学期恒例の席決めはくじ引きで機械的に決まり、一人班状態は解消した。
三学期初日の「帰りの会」はほぼ事務的な連絡のみの後終わりの挨拶となった。
翌日、「反省会の動議募集」が当たり前化していたクラスメイトに若干の動揺が走ったようで「反省会」を求めるかのような声が上がりはしたが、新しい担任は取り合わなかった。
今でいうなら「華麗にスルー」といったところだろう。
打って変わった平和な日々続いた。
4年の後半に次いで二度目の「担任交代」による急激な変化を経験したわけだ。そして私は「担任の方針」こそが、いじめの原因であると確信するに至った。
とはいえ、5年のはじめからずっと「吊し上げ」その他各種いじめが続いていたクラスで、信頼関係の再構築をすることは難しかった。
表面的には平和ではあるが凍りついたような世界ができあがった。
男子勢が完全に手を引いていたので、女子勢の当てこすりだけが残った。
私は別に困らなかった。
信頼できる世界が教室の外にあることだけは既に私は知っていた。
中学入試の受験~小学校卒業
入試シーズン到来
瞬く間に一月は過ぎ、入試の時期がやってきた。
結果はというと一勝一敗に終わった。
国立は受験者を絞り込むための20倍の抽選で外れて試験を受けるに至らなかった。
2月1日、私立入試の当日、関東の晴れっぱなしの寒空の中1人受験票をもって電車に乗り受験校に向かったのを今もおぼえている。会場に「保護者控室」なるものがあったのにはちとびっくりであった。
合格発表当日は私は学校に登校したので、母が見に行った。
登校すると、また例によって、中原と中井の周辺で
「結局自信がないから受験しなかったんじゃないの?」
「そーよね~、間に合う訳ないもんね」
などと噂話に余念がない。
しっかり私に聴こえるように言っているので、やれやれと思ったが。もう慣れっこであったので、どうでもよかった。
昼頃であったろうか、担任が私に家からの合格の報を伝えてくれた。そりゃ、学校に調査書依頼しているのであるから、学校には報告するのである。
家に帰ると、父母は「せっかくだから合格した私立に通ったら?」と言ってくれたが、それは固辞し、高校入試に向けて同じ塾に通い続けたいと頼みこんだ。
中学入試を受験する子は全体の5%くらいしかいなかった学校だが、同じ塾に通っていた子もそれなりにいたため、入試結果は翌朝には筒抜けになっていた。
「塾通い」「受験勉強」などをネタに、あれこれ揶揄を作り出していた女子勢が静かになった。教室の空気はますます凍り付いた。
二つ目の裏事情
ある日、他のクラスの友達と話をしていて、妙な話が耳に入ってきた。
女子ボスの中井を気の毒がるといった話であったが、話しをした子はその子と私の軋轢を知らないようであった。
それによると、中井の母親が成績等に関して非常に厳しく、それをこぼしていたということであった。中井の父親が地元の町内会の役員や学校PTAの本部役員をやるなど、わりと地域活動には熱心であるらしかったことが影響していたらしい。
中井の家は、学校を挟んで丁度学区の正反対の端であるために、その辺の事情は私はまるで知らなかった。そのエリアは同じ苗字が多いエリアなので中井の父がPTA会長であることも気が付いていなかった。
中井が私を目の敵にする謎が一部とけたような気がしたが、お茶を濁して話を終えるしかなかった。
人にはいろいろな事情があるようである。
二つの謎
卒業式の前あたりというのは女子はいろいろ盛り上がる。
やれ寄せ書きアルバムだとか、記念のプレゼント交換だとか…である。
基本、私の回りの空気は凍っているが、新しい担任が帰りの会の空気を変えたことで、ほんの少しずつではあるが氷の緩む部分はあって声をかけてくる子いた、私も別に水を差す気もなかったので、なにか書けとたのまれれば書くくらいのことはした。
昭和52年である、「仰げば尊し」が卒業式の歌であった。
練習中、「仰げば尊し我が師の恩」のフレーズがくるたびに「尊くないのもいるなあ」と思ってしまう私がいた。
そしてどうしても「なぜ?」が私の頭に湧いてきてしまう。
私は何故いじめられたのだろう?
吊し上げ反省会とはいったい何だったのだろう?
「理由なんかない」するには、あまりに重すぎた、そしてあれこれ符合するものがありすぎる小学校生活であった。
ま、とりあえず死ななくてよかった。
そのくらいしか思えないまま卒業式を迎え、私は戦場をあとにした。
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