小学校時代の反省会吊し上げといじめの日々をつらつら書いてみる(その1)
※フラッシュバック注意(特にいじめサバイバーの皆様)
私が小学校に入学したのは昭和46年:1970年である。かなり昔だ。
東京からほど近い埼玉南部、日光街道が通っていた宿場町の古い小学校。木造校舎が2つ鉄筋校舎が2つ昭和46年当時は首都圏の人口が激増していた時代だったのでクラス数も非常に多かった。
昭和46年当時は首都圏の人口が激増していた時代だったのでクラス数も非常に多かった。確か1年生のときには8クラスだったが、他の学年はもうちょっと少なかったようだがとにかくクラス数がピークと言う感じ。
前座1:小学校1年の割と平和な日々
教室は、古い木造校舎の二階、担任は女子師範を出た退職間際という感じの教師。体育と理科はこれまた退職間際という感じの男の先生だった。
まあ、トラブルがなかったわけではないが、わりと平和だった。
小1で弱視矯正のためにコンタクトレンズの装用を始め、当時のコンタクトレンズなので、当然ハードレンズであり、今ほど性能良くなかったために、風邪をひいてしばらく装用を休むたびに、短時間装用の慣らしをする必要があったため、学校でつけはずしをしたり…となると、悪ガキどもがからかってきたりもする。うっかり落としてレンズを探す…これもネタになる。
とはいえ、からかう悪ガキどもが担任がこっぴどく叱られ…という結末であった。
もう一つトラブルネタとしては、仲良しの秋子ちゃん(仮名)絡みである。
一年生の初めに隣の席になったことがきっかけで仲良くなったのだが、彼女は、すこしゆっくり目の動作や成績などをネタに、しばしばからかいの対象になっていた。そして、彼女と仲良くしていること自体もからかいの対象になった。
そして、男子悪ガキどもと私の抗争に…ということになるのだが、まあ、それでも担任がそれなりに公平に対処していた。
前座2:小2はじめての濡れ衣に驚く
担任は持ち上がりで、基本平和だった。
ひとつだけ違ったのは訳のわからない「濡れ衣騒動」が1回起こったことだ。
「下校時に私が踏切の遮断機が下りているのに踏切を渡った」
という話が女子二人によって流された。1人は二年になって転校してきたそこそこ成績のよいクラスの中心になるような子だった。
私にしてみれば「はあ?」である。安全第一過ぎる性格のわたしがそんなアブナイことはしない。
が、まあ担任としては登下校の安全にかかわることでもあり放置もできなかったのだろう、目撃者2名とともに呼び出されて詳細を聞かれた。
「そうか、わかった、帰っていいよ」と、先にさっくり帰されて終わりであった。その後の話では目撃者2名が担任に絞られたらしい。
なぜそんな妙な噂をでっち上げるのか?当時の私に謎だったが、「悪意」というものがあることはわかった。
後から思うに、腰巾着にならなかったから…なのかもしれない。
小3吊し上げ学級会と逃走の日々のスタート
クラスは少し減って5クラスだったと思う。
三年生になったら担任が変わった。おそらく20台前半の若い女の先生で、都内大田区から通ってきていた。
ただ、その先生は帰りの会の「反省会」をする先生だった。
あっという間にクラスは「学級会」と「帰りの会」が支配することになった。
「○○くん(さん)が、掃除をサボりました」「○○がケンカをしました、良くないと思います」「○○さんあは謝るべきだと思います」「○○さんは協力的でないと思います」
ほぼ濡れ衣案件である。
当初はターゲットは数人といった感じだったが、次第に私一人にターゲットが集中するようになった。
何故か?
とりあえず謝って済ますということを私がしなかったからだ。
担任は自主性に任せるという方針で殆んど介入しなかった。
当然、帰りの会は長時間化する。
担任は、日直に対し帰りの会が終わったら職員室に呼びに来るように指示してその場からいなくなる。
二学期には、連日一時間は当たり前、日の短くなってき晩秋には下校時間で時間切れで終了というパターンも頻発するようになっていた。
こうなると習い事に行けないなどの苦情が保護者から出てくる。他の子の保護者に事情がよくわかるはずもなく、そして電話番号簿が配られるていたご時世である。苦情電話は我が家にきていたようである(後年父からきいた)。
学級会の時間では何かにつけて「話し合い」が持たれ、係り活動やら班長のリコールも頻繁に行われた。
「○○さんは班長にの責任を果たしていないのでリコール」
何につけても「空気」と「多数決」が支配する世界である。勝手に班長に仕立て上げておいてリコール…わけのわからない世界だった。
まあ、ここまでこじれれば、学級会以外でのいじめも起こって当然である。しっかり起こっていた。
からかいの類は多発した。
コンタクトから眼鏡に切り替えていたので「メガネザル」は定番だった。特に理由のない「エンガチョ」も横行。
休み時間に特殊学級の友達のところに遊びにいくことも揶揄の対象になった(小1の同級生だった秋子ちゃんはそっちに移っていた)
ケンカも多発した。ただ小3の体力では取っ組み合いのけんかになってもたかが知れている上に、結構ケンカには強かったため、相手が2~3人くらいだと勝ってしまう。女子の間での仲間外れ…も一応起こった。
連日の吊し上げ反省会は、以下に気が強い私であっても小3時分であるからかなり堪えた。
「なぜ私がターゲットになるのか?」はわからなかった。
分からないがゆえに、家に帰っては父(洋服職人なので基本家にいる)を前に悔し泣きする…という日々だった。
父は「嫌になったら威勢よく逃げてこい」と私に言ってくれた。
教室が、外廊下式の校舎の一階だったので、しばしば上履きのまま廊下の端から脱出して逃走したりもした。
その「逃走」すらも、翌日の反省会のネタになった。ありとあらゆることが吊し上げのネタになった。
「子どもたちの自主性」を盾に職員室に引っ込んでしまう担任の存在も私を混乱させた。帰りの会や学級会以外の面でいえば授業も結構楽しく、至って優しい担任であったことが混乱に拍車をかけた。
「先生が帰りの会を放置するからだ」という担任への恨みと「いや、そんなひどい先生なわけない」という思い、そして、「なんで私がいじめられなきゃいけない?」という憤りと「私の何が悪いんだろう」という疑問の間を行ったり来たりする日々だった。
自分に関する問いについてはわりと早めに解消した。
大規模校なので、近所の仲のいい友達は別のクラスにいたので、放課後の遊び相手には全く困らなかったし、住んでいたのが校区のはずれだったため、地域の子供会は別の小学校の子もいて、そこでは特にトラブルもなく平和に暮らしていたのである。
そこが解消してしまうと担任の問題しか残らない。
(いや、もう何度、担任を〇〇そうと思ったことかw)
身体が弱く、年に数回は派手な風邪をひき、最低数日は休まざるを得ないことで、反省会、学級会がリセット状態になることは多少救いであった。
小4 相変わらずの吊し上げの日々
クラスは持ち上がりであり、担任も変わらなかったので、反省会の日々は基本的に三年生の時と同じだった。
ただ、4年生ともなると成績について気にする層が発生する。流行のものなどにも敏感になる層が増える。そこいらが問題を複雑にしていった。
ドリフターズの全員集合くらいは見ていたが、基本、流行歌というものに興味はなかった。百恵ちゃんやら秀樹やらがテレビを席巻した時代である。
ただ単に興味がないのであまり知らないだけだったが、知らないだけで変なやつ扱いされた。
当時から好きな歌手が当時から藤山一郎や霧島昇や三波春夫だったので超変な奴には違いないが、親の世代よりも趣味が遡るくらいなので変な奴なのは自分で承知していたのでクラスメイトに語ったりはしていない。
「興味を持たないこと」が「悪しき事」なのである。
成績が良かったことは、にわかに成績を意識したと思しき層が、攻撃側に回ることが増えたのだ。「ガリ勉」という揶揄も増えたし、「ガリ勉だから近眼になった」とも言われた。
実際のところ、本を読むのは好きであったが、大して勉強もせずテレビ見てたクチであり(クイズ番組やドキュメンタリーが好きだった)、かつ私は斜視由来の遠視なので全て事実無根の言いがかりなのであるが、言いがかりつけたいだけのクラスメイトにそんなことが通用するわけもない。
担任は相変わらず反省会を放置して長引かせるのが常だった。
教室が二階になったことに少し私は困った。逃走経路が確保しにくいからだ。
それでも逃げた。月に二回くらいは逃走していたように思う。
ちなみに、外廊下のすぐ下には結構好都合な植え込みがあり、うまく飛び降りればいけたので一回だけ飛び降りて逃走したが、その時は後で騒ぎになったらしい(私が校外に出て以降なので詳細は私は知らない)。
授業参観後の学級懇談会では、私の問題が取りざたされていたらしい。
「いじめられる方に原因がある」とされた時代だ。
やり玉にあげられて母も苦労したようであるが、母はつい穏便にと社交辞令的に謝ってしまうタイプなので、母が懇談にでると翌日以降の反省会の牽制球にはならないのが悩みだった。
習いごとなどで反省会が長時間化すると困る子から、さっさと終わらせようという動きも出てきたものの、既にこじれまくっていたためあまり変わらない日々が続いた。
そんなクラスは同じ学年ではほかになかったようだ。
私は私なりに「どうすればやり玉にあがらないか」を悩んでいた。
別のクラスの友だち何人かに相談したりもしたが「わからない」としか答えが返ってこないので途方に暮れた。
担任の休職で突然終わった吊し上げの日々
秋の運動会が終わった頃から、時々担任が病気で休むようになった。
そして、秋の深まるころ、突然担任の休職が告げられ、30前後の臨時採用の新しい担任が来た。
新しい担任は、帰りの会で反省会をしなかった。学級会もレクリエーションの時間になり、「話し合い」の類も最低限になった。
いじめも吊し上げもなくなり、学年末まで、平和で早く帰れる日々になったのではあるが、それまで悩んだ諸々が「教師」のやり方ひとつであったことに愕然とした。
残念なことに、その平和な日々は嵐の前の静けさであった。
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