記録「おぢぃちゃんが子供の頃の太平洋戦争」

朝起きて、今日って何日だっけと考える。

今朝も同じように考えて、4月23日はなんかあったような。。
それも、私が普段活動しているダンスとは違うような。。
思い出せずモヤモヤするまま過ごしているうちに、机の奥から出てきた大切な日記を思い出す。

今から3年前の平成29年4月23日に久男(ひさお)さんからもらったプレゼント。「おぢぃちゃんが子供の頃の太平洋戦争」と言う個人的な記録。
今で言うブログのようなもの。久男さんとは生前、私がリハビリインストラクターで出入りしている高齢者施設で出会い、無口でシャイで優しい方だった。

施設では、多くの利用者さんがカラオケや麻雀、レクなどをして過ごすが、久男さんは1人パソコンに向かっていた。施設利用日には必ずUSBメモリを持参してパソコンに接続する。
この後、「どうするんだっけな」と操作がわからなくなり、作業が一旦停止。何とか記録のページを開くと、前回記したところの続きから打ち始める。一日2〜3行程度進んで「あ〜疲れた、ここまでにします」と、保存をしてUSBを取り出すところまで自身で行う。
90代の方がここまで1人で作業する事は稀だろうし、素晴らしい生き方だと思う。自身の経験を保存し残そうとするその意思が、久男さんからいただいた「記録」にずっしりと詰まっている。

私自身は、このnoteというアプリをインストールしつつも、書き残したい内容がなく放っておいたが、今日やっと残したいものが見つかったので久男さんの「記録」を記録しようと思う。

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おぢぃちゃんが子供の頃の太平洋戦争


縁故疎開
 昭和19年9月1日、戦争で小学校三年生の一学期の終りに学校はチリヂリになり、私は縁故疎開で文京区真砂小学校から越谷小学校に転入しました。当時の越谷駅前の片隅には馬が三頭いてオシッコをすると舗装などない駅前広場に流れ出すような田舎でした。伯母の家は深川から疎開、越谷小学校に隣接していました。
 この学校で地元の子が私を「カッコベ、カッコベ」とからかうので取っ組み合いの喧嘩になりました。足洗い場に倒れ込み、下になった子をズブ濡れにしてしまい受待ちの女の先生に言い付けられたのか、伯父の耳に入って「こんな子は預かっておけない」と言われ、僅か25日で家に帰されたのです。私は内心喜んでいました。
 学校で斡旋した集団疎開も、自分で行く縁故疎開も出来ない親から離れられない甘ったれの非国民、「残留生」の扱いは厳しく、大した理由もないのにやたらと立たされ、横ビンタをされました。

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東京大空襲 翌20年2月4日東大生の下宿屋下宿屋から出火して焼け出され、真砂小学校の裏に転居していました。あの3月10日の東京大空襲の真っ只中に居て、恐ろしい光景は今でも瞼に焼き付いています。空襲に備えて着の身着のまま、枕元には学校で使うものをいつでも持ち出せるようにしていたのですが、あの晩、2階で「ドカン」と物凄い音がして「ソラ焼夷弾が落ちた」、何も持たず学校に駆込んだのです。校庭で見上げるとどっちを向いても空は真っ赤、B29は100m位の低空で、火災の炎に反射して、赤く輝き「ゴーッ」っと何機も何機も降下してきます。寒さと怖さで震えていました。
後で聞きましたがこの時燃料を撒いて、文字通り火に油をそそいでいたようです。消化活動なんて何もしていません。ひたすら燃え尽きるのを待つのみです。学校を出てアチコチ逃げ場を探し回っている内に夜が明けてしまいました。
我家はほぼ一ヶ月の間に2回も丸焼けの丸裸になり、今の東日本大震災の跡と同じ光景でした。
 水道橋の角の講道館が避難所になっていて一晩居た後、越谷の家に一時行く事になり、浅草の東武線乗り場の松屋のシャッターは下りていました。そこには焼け焦げた太い木の幹のような遺体がトタン板をかけて山積みされていて、母から「子供は見るんじゃないよ」と言われてもそれは無理、イッパイ。今でも浅草松屋のシャッターの正面に立つと、あの時の光景が浮かんできます。
東武線は「曳舟」が始発になっているとの事、トボトボと一家で焼け野原を「曳舟」を目指して歩く道端にもゴロゴロと遺体が転がり、囚人が大勢で片付けていました。私は小学3年だったのです。
 思い出して下さい。あの東京スカイツリーの下がこんな光景だったのです。あの時講道館出る際に焼け出されて何もなく、弁当など持ってるはずがなく、空腹すら感じませんでした。
何年か前、吉村昭の小説「破獄」でこの時囚人を一般社会で使った記録を発見して驚きました。


集団疎開
4月初旬には学校から塩原温泉に集団疎開をしました。弁当を2食持参しろと言われ、1食は汽車の中で食べ、着いたばかりの生徒は小さな部屋に入れられ、残りの弁当は取り上げられ代りの食事はウドの味噌汁と雑穀の多いご飯が一膳。ウドなんて食べたことも無く、苦さに味噌汁よりも大粒の涙の方が塩辛かったのを覚えています。
食事は毎食味噌汁しかなく、それも湯を沸かして味噌を溶かしただけ、実はかならずウドかカンピョウ。ご飯は油を絞った後の大豆カス、粒小麦、芽無し芋、コウリャン、まるで豚の餌のようで、お米はツナギに入っている程度。育ち盛りに副食もなく毎日、毎食これだけです。
 6畳にが学童6名が一室、同室の細井君は栄養失調と消化不良で亡くなってしまい、お母さんが部屋を見に来て泣き崩れたのを覚えています。
 手紙のやりとりは全て検閲され、私は検閲ズミの手紙の裏に家に帰りたいとつぶさに書いたら、親がまともに返事をくれてしまい、先生にバレてビンタの嵐でした。でもまた、その事を書いて出しました。勿論返事はいらないと書きました。
 初夏にはあの頃でも鮎釣りに来て宿泊するお客がいて、梅雨時の寒さに一人でお風呂に入り脱衣棚に衣服を脱ぎ捨て湯船に使ったらオジサンが入ってました。風呂から上がり部屋で本を読んでいると、先生が「今風呂に入ったものはいるか?」「はーい」「チョット来い」「お前は客にシラミをうつしたんだ。着ているものを乱暴に乱暴に扱ったからだ!」と往復ビンタ。「シラミが勝手に歩いて行ったのになぁー」と思いました。河原で川虫を5匹とって、「オジサン鮎と取り替えてー」と交換、焚き火で串刺しの鮎を焼き、食べてしまう程のたくましさも2.3ヶ月で身に付けていました。
 滞在の旅館は学年毎に分けられ、時々全校集会で近所の上級生と会い、たまたま後に付いて行って畑に入り、キュウリ、トマト、もちトウモロコシを食べてしまい、誰かが落とした手拭から足がついてしまいました。私は同級生の前に立たされ、怒る先生のリンチです。メチャクチャに殴られ、吹っ飛ばされて柱の角に頭をぶつけ、お岩さんのようになりミジメで泣きジャクリました。私のオデコは今でも凹んでいます。


終戦
 暑い暑い夏の午後、旅館の広間に集められ「日本は戦争に負けたんだ」と聞かされました。「サァこれで家に帰れる」なんて荷物の整理を始めて寮母さんに大慌てで止められました。
 温泉ではあっても石鹸などはなく衛生状態が悪く、ノミ、シラミが多くて乾布摩擦の時間はシラミ退治の時間になっていました。私はシラミのお陰で体中に「疥癬=かいせん」と言うダニが媒介するオデキが出来て、股関節のリンパ腺が腫れて身体がケダルく微熱が出て横になってばかり。
「忘れられない日、昭和20年9月6日」突然、兄貴が迎えに来てくれたのです。「家は杉並区に引っ越していて真砂小学校には戻れないから」と疎開先の学校側に言ってくれたそうです。
膿だらけになって、家に帰っても疥癬には悩まされ続けました。これと言った薬もなくケンカばかりしていた姉が友達の家に行くのにくっ付いて行った所が偶然皮膚科のお医者の家で先生がくれた薬が良く効いて良く年の春には完治しました。
私の小学3,4年時代は戦争の強烈な影響を受けて、つらい思い出ばかりで今でも忘れようにも忘れ去る事はできません。
私の畑の盗み喰いの事は十数年間「トラウマ」になって、何事にも自信のないオドオドした学生生活を送り続けました。成績も良くなかったです。


B29
 今、海外旅行などで使われるアメリカのボーイング社がB(爆撃機=ボンバーのB)を付け29番目に製造した飛行機で全長30m幅43m、プロペラエンジンを4基搭載、11人乗り、飛行高度1万m、約4000機が作られ空の要塞と呼ばれ日本の空襲に使われました。日本の戦闘機はほぼ5000mくらいしか上がれないし、高射砲もとどかないので、なすすべもなく、やられる一方でした。

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焼夷弾
長さ50センチ直径8センチの六角形の鉄製の筒、中身は今キャンプで使っているゼリー状の高熱燃料と同じで、その筒が19本、2段の束になってまとめられていて、落下傘を付けて落ちてくる。落下中に38本に分かれて、落下の衝撃で筒が割れて火のついたこの燃料が飛び散り木造家屋に粘りついて焼き尽くし、水では消えにくいのです。終戦間際には国中の中小都市も壊滅状態になりました。

記録の途中ですが、
私は最近体調が悪いので入院することになりました。
もう少し残したいものが、他にもあったのでとても残念です。このような私個人の記録が誰かの役に立つのか立たないのか解りませんが、誰かが読み受け取って下さると願い施設の職員さんに託します。宜しくお願い申し上げます。

長い話になり、恐縮ですが感想をお聞かせ下されば幸いです。
平成29年4月23日 ○○ 久男

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記録 令和2年4月23日

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