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障害とは…そもそも無いんだな。

障害へのイメージ 


昔から、「○○とは」。
とテーマを決めて自分で定義することが好きで。


長男を出産した時に
いつか考えるであろうと思ってた
障害』について、
最近考えてみた。


障害、というものにほぼ無縁だった私の元に。
難聴の息子が生まれて。

私は障害と縁ができたんだなぁと、その時思った。

障害って、とてもデリケートな問題だと思っていいて。

触れていいようないけないような
自分とは違うけど、そんなには違わないような。

大したことないと思いたいけど、直視できないような。

そういうキツさがあって。

なんか、
障害があるということは、悪いことでも変なことでもないと思うけど。

そういう人に対する気遣いや思いやりみたいなのも持てなくて。

持てないというか、そういう人に親切にする?しようとする?こと自体が良いことなのかも分からない…みたいな。
(お節介な感じがするというか)

もはや、どうしていいか分からない! という感じだったんですよね。


だから正直避けてた。
(嫌だからじゃなく、どうしていいか分からないから)


私がボランティアを全くしないのと同じ理由…。

(ボランティアって。そのことへの好意とか、助けたいとかいう気持ちの表れだと思うけど。そんな気持ちはそこまで無いし、無いままやるのは偽善的パフォーマンスみたいで変な気がしてて。もはやどうしていいか分からないんです…。)


でも、本当に助けが必要な人からしたら、

助けてくれる理由なんて何でもいいんだろう、と今は思う。

(心が伴わない行動でも、その活 行動自体が誰かの助けにはなると思う。)


長くなったけど、
これが、以前の私の『障害』へのイメージ。


障害って何だろう


それで今、改めて、
『障害』ってなんだろー?と
ふと言ってみるなら。


そんなものは、そもそも、無い。


というのが結論。

障害っていうのは、
私みたいに健常者と呼ばれる人の集団が作り出した概念に過ぎないと思う。


人って、本当に自分が基準だよね。

自分が思うこと、自分みたいな状態であることを、
当たり前だと思いがち。

それは、それでいいんだと思う。普通なんだと思う。


でも、自分と同じように、
みんなが自分基準であることを知っておいて、
お互いの「自分基準」を尊重してもいいよね。


そしてそれが、
あくまでも個人同士の問題で有ればいいと思う。

し、そう願っている。


でも、実質、同じような人が集まった時、
結局人数が多い方が『私たちが基準。私たちみたいなのが普通。』って、思うようになってしまっていて。

それが社会のスタンダードになってる。

そういことが、カラクリ的に起こってると、
しみじみ思う。



今、3歳になる息子を見ていて。

難聴、という診断で障害者手帳を持ってるから、世間的には『障害者』なんだけど。

全く、何も欠けてないと思うんだよね。

いや、むしろこれが完成形だよね。

これがこの子のスタンダードなんよね。

って思う。


まぁ多少の親心もあると思うけど。

どちらかと言うと、
『難聴って、こういうものなんだ。難聴の人ってこんなんで、一緒に過ごすってこんなんなんだー!』
ということを「知った」のが、大きいと思う。


私はあまりにも
障害のことを知らなかったんだなと思った。

(もちろん障害って、人によってそれぞれだけど。この一つの経験で、障害の全てを知ったとは思ってない。)

聞こえを伸ばそうとする違和感

息子は一歳半の時に、
人工内耳の手術を受けて。

(内耳の中に、音の信号を聴神経に届けるワイヤーを入れ込む、という手術。効果が出れば補聴器より良い聞こえが得られる、というもの。ざっくり言うと…ね。)


今、3歳を過ぎて、いよいよ発音を練習しているところ。

そんな息子と過ごしてきて思うのは、
この子は『聞こえにくい』という完成形で生まれたのに、
『聴こえる』という完成形の人たちに合わせることが、
ベストだとか、普通だとか、思われてないか?
それって理不尽じゃないか?
ということ。

その差って、
どっちの完成形の人が多いかってだけの話だと思うから。


そりゃあ、
社会全体として、聴こえる人が多くて、
そんな中で生きていくから
その中に適応するということが
課題になるのは目に見えてるけど。


そうすべきだとか
それがベストだとか普通だとかは
周りが言うことじゃ無いよね。

本人がどうしたいかだよね。


今、息子の聞こえや発音を見てはいるけど
それが出来るようになって『良かった』のか?
常に考えちゃう。

そりゃあ私からしたら
同じように聴こえて話せたらコミュニケーションがスムーズだから嬉しいけど。

それをまるっと、『良かった』としてしまうことには、
違和感がある。

だって裏返したら
聞こえないままの息子は『良くない』みたいだもんね。
それは違うと思うから。


他のお友達に混ざってしまえば
息子は『あんまり聴こえなくて、お話も上手に出来ない』とそのうち見られてしまうかもしれないけど。

…いやいや。聴こえないのに話すのって、凄いことだからね。
本人的には話すことを強いられてるだけなのに。

それを受け入れて、健常の子より意図的に訓練してるのだからね。
それってすごいことだ。

私だったら、
めちゃくちゃ理不尽だと、怒るはず。

なんでそっちに合わせなあかんのや!と。笑


私が『障害』の側だったら

つまり、
本題に戻ると、、、

私が息子みたいに難聴だったらこう言いたい。

私にとって、聞こえないことはスタンダードで、完成形だから。

それを聞こえる側に合わせろとか、
不完全だとか、劣ってるとか思われるのは
全くの心外。


聴こえる人たちが
私の何の問題もない『聞こえない』状態に
勝手に『障害』と名前をつけただけだ。

私にはそもそも『障害』なんてないのに。

私だったら、そう言うと思うな。


(これはあくまでも、私の一つのケース。私の経験から思うこと。)

(障害という言葉を設けたことで、助けになることがあるのは確かだと思う。社会の仕組みや、制度的にそれが必要な面はあると思う。実際、沢山の制度にお世話になってはいるから。)

(障害、と言う言葉は教科書的には、社会生活の中で不都合や不便さを表すことってなってる。その辺の表現はなるほど、と思うし。必ずしも、「劣っている」という表現ではない、とは理解してます。)

結局は、心身が健康であれば良いなーと、思ってます。

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マミのママライフ
▶︎Instagram @mamii_mamalife

モットーは、毎日つづける、ゆるゆる子育て。
ママでも自由な人生選択を。


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