トーベ・ヤンソンのセクシュアリティについて(3)「ボーイフレンドたち」

前置きは(2)もご参照いただきたいのですが、作品ではなく、作者の私生活について、つらつらと語る必要とは?と思いつつ、そこから見えてくるもの(前回の、時代による表現の変遷とか)もあるよな、というのと、そのために誰かのセクシュアリティを根掘り葉掘り詮索するのも失礼な話では?とか、いろいろ感じています。また、実在の人物、実際にあった出来事に関してネタバレというのも変ですが、先入観なしに作品を読みたい、映画『TOVE』を見たい、という方にとっても、余計な話かもしれません。長々と続きますので、ご興味のある方だけ、おつきあいくださいませ。

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最初にもうネタ元を明かしてしまいますが、日本語で読めるトーベ・ヤンソンの評伝は二冊あります。
まず、『トーベ・ヤンソン  仕事、愛、ムーミン』(講談社、ボエル・ウェスティン著、 畑中麻紀、森下圭子共訳)、発行は2007年、日本語版は2014年。ボエル・ウェスティンはストックホルム大学教授で、ムーミンとトーベ・ヤンソン研究の第一人者。トーベ自身は自伝や公開を前提とした日記を残していませんが、自分の伝記が書かれることを願っており、ウェスティン教授に積極的に協力。トーベの逝去後は姪のソフィア・ヤンソンを始めとするヤンソン家の人たち、トゥーリッキ・ピエティラらの許諾を得て、アトリエに自由に出入りすることを許されたほか、残された手紙や資料をすべてを閲覧した上で、執筆にあたったとのこと。そうして完成した本は関係者たちからも高く評価され、決定版と称されており、以降に執筆された記事や書籍にも大きな影響を与えています。

もう一冊は、『ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン』 (河出書房新社、
トゥーラ・カルヤライネン著、セルボ貴子、 五十嵐淳訳)、2013年発行、日本語版は2014年。トゥーラ・カルヤライネンはヘルシンキ市立美術館(HAM)、ヘルシンキ現代美術館(キアズマ)の元館長で、トーベ・ヤンソン生誕100周年を記念してアテネウム美術館で開催された大規模な回顧展のキュレーターも務めた人物。彼女は1995年にサム・ヴァンニの展覧会を企画していたとき、その調査の一環として一度だけトーベ・ヤンソンに会っています。著者が美術畑のわりに、この本はゴシップ的な要素が多いのですが、アーティストたちの交流を重視したのかもしれません。

二冊ともビジュアルも豊富で、とても読みごたえがあるので、ぜひご自身でお読みいただきたいのですが、ここではトーベの初期の恋愛について、かいつまんでご紹介したいと思います。
トーベは『彫刻家の娘』という自伝的な小説を残していますが、恋愛的な要素はほとんど描かれていません。10代の頃は恋愛よりも創作への関心が強かったのか、評伝においても最初に恋人として登場するのは1935年に知り合ったサム・ヴァンニです。当時、トーベは20歳前後、サムは6歳年上で、師弟関係から恋愛に発展。サムのことで日記が埋めつくされるほどになり、結婚の話も出ていたといわれています。1940年頃までは関係が続いていたようですが、トーベがパリに短期留学していた時期などもあったので、つかず離れずといった状況で、後半は恋人というよりは友人だったのかも。ふたりはお互いをモデルにした肖像画を残しており、後年、トーベのアトリエの目立つところにサムの肖像画が飾られていたといいます。サムは後に、トーベの友達でもあったマヤと結婚。3人で旅行に行くなど、長く友人関係が続いていました。

1939年、第二次世界大戦が始まった頃、同時期にアテネウム美術学校で学んでいたタピオ・タピオヴァーラとの新しい恋が始まります。タピオはサムと同じ1908年生まれなので、やはり年上。彼が前線に召集されたことで、その恋は波瀾万丈なものとなりました。タピオは戦地から熱い愛の手紙を送る一方で、休暇で戻るとトーベ以外の女性たちとも遊びまわり、トーベのほうはいつ命を落とすかわからないタピオのことで気を揉み、全力で尽くそうと無理を重ねました。子どもを残したかったタピオと、絵の仕事を続けたかったトーベとの仲はうまくいきませんでしたが、生涯にわたる友情が残りました。1945年にタピオが結婚し、子どもが生まれたとき、トーベはとても喜んで名付け親になったそうです。

トーベとアトス・ヴィルタネンは共にスウェーデン語系フィンランド人で(余談ですが、サムはユダヤ系、タピオはフィンランド語が母語)、共通の知人も多く、戦前から知り合いではあったようです。親しくなったのは1943年、まだアトスが既婚者だった頃、アトスが自邸で開いた大がかりなパーティーに、カクテル係としてトーベが参加。トーベは文化人たちが多く集まるパーティーを楽しみ、交遊関係が広がっていきました。トーベはアトスとロマンティックな交際を望みましたが、アトスのほうはクールな態度で、トーベは彼にとって自分が何なのか自問したといいます。前に調べてツイートしたのですが、アトスの最初の結婚(3カ月で終わったらしい)は1942年という記録と43年という記録があり、はっきりしません。また、トーベのほうもタピオと別れた後、”海の画家“と呼ぶ男性と情熱的な関係を持っていて、二重生活に悩んだ挙げ句、アトスを選びました。
アトスは最初のムーミン小説『小さなトロールと大きな洪水』を書き上げて出版するように勧め、自身が編集長を務めていたスウェーデン語系の新聞『ニィ・ティド』に初のムーミンコミックス「ムーミントロールと地球の終わり」を掲載するなど、公私にわたってトーベに大きな影響を与えます。
ふたりは「婚約していた」と書かれることもありますが、はっきりと婚約(指輪を交換するとか、具体的な式の日取りを決めるとか)していたとは言い難いかもしれません。結婚の話は何度も浮上し、トーベは彼となら結婚して子どもを持ってもいいと考えた時期もありましたが、未婚の男女が同棲することに強い批判があったにも関わらず、結婚には至りませんでした。
理由としては、アトスの婚歴、お互いの仕事、タイミングなどがあったのではないかと思われます。1946年、第2作『彗星追跡』(現在の『ムーミン谷の彗星』の原型)出版。戦争が終わり、トーベは精力的に仕事に取り組んでいました。
そんななか、1946年の秋の終わり、ヴィヴィカ・バンドレルとの出会いが……。トーベがはっきりとアトスとの恋愛関係を解消したのは1952年。その2年後、アトスはダンスアーティストのIrja Hagforsと再婚しますが、トーベとアトスの交流もまた生涯にわたって続きました。

トーベとアトスの関係については「ムーミン」生みの親の元彼はスナフキンで詳しく読むことができます。後半は有料ですが、トーベがアトスについて書いたエッセイも掲載されていますよ。

以前、ネット上で、トーベをレズビアンだとする書き込みに対し、トーベと親交があったという方から「ボーイフレンドもいっぱいいた」と反論があったことを思い出しました。ここに名前を挙げた3人は皆、それぞれに作品や活動歴の残っている、トーベとの関係を抜きにしても著名な人物です(それはヴィヴィカやトゥーリッキ・ピエティラも同様)。また、トーベは恋人たちと別れた後もずっと良き友人として交流を持ち続けました(それもヴィヴィカも同様)。なので、彼らのことをなかったことにしてレズビアン/同性愛者と決めつけるのは違和感がある、という意見があるのもわかります(一般論として、過去にどれだけ異性と交際していようとも、本人が同性愛者だと自認するなら、それがファイナルアンサーです。が、トーベの場合は自認が明らかになってはいません。そのあたりはまた追って考察したいと思います)。

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