トーベ・ヤンソンのセクシュアリティについて(2)「最愛の男性、親友の女性」

前置き。トーベ・ヤンソンに関するさまざまな記事/ご意見を目にする機会が増えたことから、手元の資料を活用して考察を試みることにしました。ここに書いたことはすべてわたし個人の主観であり、特に結論はありません。結論が出せる事柄だとは思いませんし、むしろ、カテゴライズやラベリングは無意味だと考えています。この記事を鵜呑みになさることなく、ぜひリンクやご紹介した書籍をお読みになって、ご自身でお考えいただく一助になればさいわい。なお、シェアやリンクは歓迎ですが、転載/リライトはかたくお断り申し上げます。

日本におけるトーベのイメージ

ムーミンの作者トーベ・ヤンソンは、少なくとも日本では長い間、「孤独を愛する独身の高齢女性」といったイメージで表現されてきました。
翻訳家・山室静氏による1978年『たのしいムーミン一家』講談社文庫版への解説には「彼女はほかにフィンランド湾に小さな島を一つもっていて、夏にはそこに一人でとじこもって過ごし(略)彼女は友達が多く、またムーミンなんかの空想の動物もしょっちゅう訪ねてくるため、一人ぐらしをしていても--彼女は独身なのです--ちっともさびしくないそうです」とあります。これは現在も流通している講談社文庫新装版にも収録されており、その後のトーベのイメージに大きな影響を与えたのではないかと思います。
文章は「先年、ヤンソンさんが日本に遊びに来たとき、わたしははじめて彼女に会いました」と続きます。つまり、山室氏はムーミンを日本に紹介した立役者とも言うべき重要人物ですが(日本で最初に出版されたムーミン作品は1964年、『ムーミン谷の冬』。講談社の少年少女新世界文学全集に収録。翻訳は山室静氏)、以前からトーベと親交があったわけではなく、解説に書かれている内容も伝聞が多いように見受けられます。
山室氏は1979年の『ムーミン谷の仲間たち』と『ムーミン谷の夏まつり』の講談社文庫の解説にも「小さい島を一つもっていて、夏には、そこでただひとりで暮らし」と、同様のことを書いています。

トーベがクルーブハル島を手に入れたのは1964年。小屋の建設もトゥーリッキと共に進めていて、ほぼふたり(ときには母シグネも含め3人)で滞在していたので「ひとりで」というのは明らかに間違いなのですが、単なる事実誤認なのか、「孤独を愛する作家」というイメージを気にいってしまったのか。版元の編集者もなぜ指摘しなかったのか、謎です。

というのも、1973年7月発行の『彫刻家の娘』(講談社文庫。絶版)を翻訳した香山彬子氏のあとがきには、島を訪ねたときの思い出として「親友の画家トゥーティッキさん達と楽しい日々を過ごす」と、より詳しく正確な情報が記されているのです(トーベのパートナーの名前はトゥーリッキ・ピエティラで、彼女をモデルにしたキャラクター名がトゥーティッキですが、トーベが送った手紙の宛て名がトゥーティッキとなっていることもあり、トゥーティ、トゥーティッキ等の愛称で呼ぶこともあったのではないかと思れます)。

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のことについては、最近は雑誌やテレビでも紹介されていますし、オフィシャルツアーで訪問することもできますが、詳しく知りたい方にはトーベ・ヤンソン/文、トゥーリッキ・ピエティラ/画による『島暮らしの記録』(筑摩書房)がおすすめ。残念ながらプレミア価格になっているので、図書館ででも探してみてください。少し脱線しますが、翻訳家の冨原眞弓氏による「島暮らしをめぐる断章」という読みごたえのあるあとがき(1999年)にもちょっと驚かされます。
「母親のハムはべつとして、島での滞在を許される数少ない友人のひとりが、本書に挿入された淡彩や腐食銅版の制作者トゥーリッキ・ピエティラである」。続けて、トゥーリッキの生まれや業績についても詳しく記されているので、情報不足や事実誤認ということではなく、あえて、トゥーリッキをトーベと対等なパートナーであり、島と小屋の共有者だと明記しない、という意図を感じずにはいられません。だって、島の小屋の表札にも、ふたりの名前が並んでいるんですよ?
ほかの人ならいざ知らず、トーベとの親交を誇る冨原氏がトゥーリッキとトーベの関係を知らないとは考えにくいにも関わらず、冨原氏はその著作において一貫してトーベの恋人たち(トゥーリッキだけでなく、アトスやヴィヴィカについてもあまり言及がない)の存在を軽んじ、主にトーベと母シグネ(愛称ハム)との関係を重視して論じてきました(『ムーミン画集 ふたつの家族』講談社、『ムーミンを産んだ芸術家 トーヴェ・ヤンソン』新潮社など)。このことはずっと疑問だったのですが、2020年9月に発売されたばかりのエッセイ集『ミンネのかけら ムーミン谷へとつづく道(岩波書店)を読んで、少し、謎が解けたような気がしました。冨原氏はただただ真っ直ぐトーベ・ヤンソンだけを注視していて、トーベのパートナーが仮に男性で結婚していようが、子どもがいようがいまいが、周囲のこと/人には関心がなかったのではないか、と。また、同書ではついに(?)トゥリッキ(トゥーティ)のことを「長年のパートナー」と表現なさっています。

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話を戻して。1969年発行の『ムーミン谷の夏まつり』(講談社)の翻訳家・下村隆一氏による解説には、献辞「ビビカにささぐ」に関する説明があります。
「ビビカというのは、ヤンソンさんとしたしい子どもの名まえだろうと思っていましたが(略)ビビカ=バンドレルさんといって、舞台監督で劇場も経営している女の人の名まえなのです。ヤンソンさんととても仲がよいそうです。(略)なかよしのお友だちだから、あんなしわくちゃのおばあさんねずみにしてしまえたのではないでしょうか。(略)この作品は、ビビカさんのすすめで書きはじめられ、ビビカさんにはげまされつづけて生まれたのだそうです」
小説ムーミンシリーズの特殊な事情として、全9巻の翻訳担当者が同じではなく、5人いる、ということがあります。原語のスウェーデン語から訳した人もいれば、英語が底本だと思われるケースも(余談ですが、それゆえの語句の違いなどを、スウェーデン語翻訳家の畑中麻紀氏が翻訳編集という形で、原著に忠実に修正したのが新版ムーミン全集です)。下村氏はスウェーデン語から翻訳しており、そのことをトーベもとても喜んだと書かれています。
トーベとヴィヴィカ(ビビカ)が恋に落ちたのは1946年、別れたのは翌年。1948年にはヴィヴィカとトーベをモデルにしたビフスランとトフスランという仲良しふたり組が登場する小説『たのしいムーミン一家』を出版。トゥーリッキ・ピエティラとの出会いが1955年。下村氏が解説を書いた時点で、どこまで事情をご存知だったかはわかりませんが、子ども向けの本(当時、ムーミンは童話扱い)の解説としては過不足なく、誠実な内容だったのではないかという印象を受けます。

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同性愛が違法だった時代

さて、ここで、トーベのセクシュアリティが長くぼやかされてきた理由のひとつ、「子ども向け」「児童文学作家」というキーワード。出典が思い出せないのですが、版元がトーベのプライベートをあからさまにしてこなかったのは、そのことによって親たちがトーベの本を子どもに読ませることを躊躇するのではないか、という心配があったと聞いたことがあります。
忘れてはならないのが、50年代当時、フィンランドでは同性愛が法律で禁止されており、見つかれば刑務所か精神病院送りだったという時代背景。同性愛が非犯罪化されたのは1971年ですが、疾病扱いから外されたのは1981年、宣伝するなどの助長行為を処罰の対象とする規定が廃止されたのは1999年だったといいます。
トーベは自身の恋愛を隠さないタイプだったようで、ヴィヴィカに熱いラブレターを送って「危険だ」とたしなめられたこともあったほどですが、両親にもはっきりとカムアウトすることはできず、自身のセクシュアリティを公に明言はしていません。また、トゥーリッキも表立って主張をするほうではなく、トーベを守ることを最優先に考えて行動していたように思います。
つまり、少なくとも1999年あたりまでは、トーべに関わる人たちや出版社がトーベのセクシュアリティをおおっぴらにしなかったのは、不都合だと隠蔽したわけではなく、必然と善意ゆえだったといえるのではないでしょうか。

そこで登場するのが、トゥーリッキを形容する「親友」という言葉。親友と恋人はぜんぜん違いますよね(怒)と思うのですが、同性パートナーという言葉が日本で使われるようになったのもわりと最近のことで、言葉の壁(トーベが日本の仕事相手にトゥーリッキのことをなんと紹介していたのか、とか)も考えると、仕方がなかったのかなという気もします。
以前、とあるテレビ番組に出たとき、某有名漫画家の方にトゥーリッキというパートナーの存在を伝えると「え、それってセッ〇スしてたってこと!?」と聞かれ、「いやそんなの誰か見たわけじゃないんだから、なんとも言えませんよね」と答えたのですが、目の前でイチャコラしないかぎり(仮に手をつないだり、キスしたりしたとしても、北欧の人だからな、で片づけられる可能性もある)、40歳以上(トーベがトゥーリッキと知り合ったのは1955年、41歳のとき)の女性が仲良く暮らしていても「大の親友」と解釈してしまう勘の鈍い人がいたとしてもおかしくはないのではないかと。

一方で、それは違うんじゃないの?と思うのが、アトス・ヴィルタネンにつけられた「最愛の恋人」「初恋の男性」という枕言葉。ちなみにアトスについては(トゥーリッキもですが)ムーミンシリーズの解説やあとがきでは特に触れられておらず、どの時期にどんなふうに日本で紹介されていたのかははっきりしません。
ひとつのヒントになりそうなのが、1996年発行の『ムーミン童話の百科事典』(講談社)。著者は大阪国際児童文学館で「ムーミンゼミ」を主宰していた高橋静男氏と、フィンランド語翻訳家の渡部翠氏のご夫妻。ふたりはトーベとの親交が篤く、もちろんトゥーリッキとも面識がおありで、渡部氏はムーミン絵本などの翻訳も手がけていらっしゃるのですが、一貫してトゥーリッキを「親友」と表現なさっているのです。
『~百科事典』のカラー口絵には今となっては貴重な写真が満載で、そのうちの1枚、髭面の渋い男性の肖像画に添えられたキャプションは「トーベの最愛の恋人。A・ビルタネン。書棚のいちばんいいところにおいてある」。トゥーリッキとふたり並んだ写真(何年撮影かは明記されていませんが、晩年だと思われます)には「親友のトゥーリッキと。トーベのアトリエにて」。それだけ見ると、”最愛の恋人と離別し、親友と晩年を過ごしている“みたいな間違ったストーリーが浮かんできそうな感じ……。
事典のスナフキンの項には「スナフキンは、哲学者で詩人で政治家だった、彼女のかつての恋人がモデルである。学者のおじさんたちや、末弟ラルスにもにているらしい」。ここにはアトスの名前は明記されていませんが、巻末の年表「作家・画家 トーベ・ヤンソンのあゆみ」に「編集長アートス・ビルタネンは(略)わたしの、世界を見る目をつちかってくれた人物であり、恋人であり(略)とトーベは語ってくれた」とあります。
おしゃまさん(トゥーティッキ)の項には「おしゃまさんのモデルは、作者ヤンソンの大の親友で、グラフィックアーティストのトゥーティッキ・ピエティラ教授(Prof.Tuulikki Pietilä)。さっぱりしていて思慮深く、豪快なのに愛情の深い女性で、おしゃまさんにそっくりである」と実感のこもった記述がありますが、年表だと1958年にいきなり「晩秋にトゥーリッキ・ピエティラとギリシャへいく」と出てきて、出会いの日時や経緯には触れられていません。

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高橋静男氏は1994年発行の『ムーミン谷への旅 トーベ・ヤンソンとムーミンの世界』の「素顔のトーベ・ヤンソン」という章も執筆なさっていて、「とりまく人々」として「女性演出家ビビカ・バンドラー(略)ふたりは親友となり」「ひとりぼっちのさびしがりやのトーベの初めての親友トゥーリッキも作品に登場する」「スナフキンは(略)最愛の恋人だったひとに、いちばんよく似ているという」と書かれています。ビビカのほうがトゥーリッキよりも先に出会っているので、「初めて」の位置がおかしいのですが、高橋氏が1938年生まれだということを考えると、女性同士の親密な関係を表す言葉として「親友」しか持ち合わせていなかったのかもしれません(そして、おそらく、共に暮らしている様子を実際に知っているトゥーリッキの重要性を何らかの形で強調したいと思われたのではないかと)。
「最愛」のほうは、過去にトーベが交際した男性のなかで、と限定すれば、理解できないでもありません。ただし、「初恋」(今、具体的な出典が見当たりませんが、そう表現されることが確かにあった)のほうは明らかに間違いで、1935年からは絵の師匠でもあったサム・ヴァンニ、戦時中には美術学校の同級生だったタピオ・タピオヴァーラと交際していたことが知られています。

さすがに長くなったので、ここでいったん切ります。今後、あまり知られていないアトス以外の男性の恋人たちのこと(異性愛者としての側面/時期)、女性の恋人たち(フェミニスト、反戦論者として)、バイセクシュアル/レズビアンだとカテゴライズされる理由と本人の表現、みたいなことを考えてみたいと思っています。

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