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私は娘の避難シェルターでありたい[100 days challenge_day14]

「あ、またお手紙が回ってる」
授業中のお手紙回し。
先週まではわたしもその中の1人だったのに、明らかに飛ばされて、お手紙が来なくなった。
休憩時間も、ひとりぼっち。
友達の輪に近づくと、さささーっと解散される。
仕方がないから、図書室に逃げる。

そんなときに限って担任が言う。
「今日の給食は特別に、好きな人と食べていいよ」
この嫌がらせ、担任もグルなのか? と疑いたくなる。

「明日からしばらく休もうか…」と考えるが、
親との折り合いも悪かった当時のわたしは、
家にいるのもそれなりにつらかった。

10歳のわたしにとって、家と学校が世界のほぼ全て。なかなかに地獄な日々だった。

学校に行きたくなかった

しかし、1ヶ月くらい経ったとき、まるで何事もなかったようにまた友達が話しかけてくる。

今度は別の子が、それまでのわたしになる。

友達の輪に戻れてホッとするけれど、
イジメの対象がどんどん変わるから、
安心できない。誰も信用できない。
インフルエンザになったときには、布団の中でガッツポーズした。

小学4年生の時の話。

絶対に味方でいてくれる存在に支えられた

そんなわたしの唯一の心の拠り所は祖父母だった。
初孫ということもあり、もうそれはそれは可愛がってくれた。

スマホのかけ放題なんてないから、当時はまだ電話代もなかなかにかかる頃。それでも、わたしが「毎日電話して欲しい」と頼んだから、本当に毎日電話してくれた。
寝る前の10分間ほどが、その日1日で一番幸せな時間。電話のベルが鳴ると、妹と争って出ていた。

子機もない我が家は、リビングに置いてある家電で話すしかない。
親も聞いているし、祖父母に心配かけたくないし、無難なことしか話せない。

でも、大人って、ちゃんと気付くよね。
祖父母も(そして親も)、わたしが発するSOSを察知したのか、わたしの誕生日、家に帰ったら祖父母がいた。

京都と東京で離れて暮らしていたから、まさかいるなんて思わなくて、人はうれしくて泣くってことを初めて知った日だった。
「まぁちゃんが一番かわいい」
祖父母のその言葉と存在に、そのあとも随分と助けられた。
祖父母が私の避難シェルターだった。そこに行けば、必ず肯定してくれて、わたしが壊れないで入れる場所。絶対でゆるがいない、安心安全なところ。

大きくなっても、祖父母は生きている間中、ずっと伝えてくれていた。
受験の失敗とか、失恋とか、友達関係のいざこざとか。細かく話したことはないけれど、全部受け止めてくれた。

「そのままで、何もしなくても、生きているだけでいい」

そう言ってくれた祖父母の存在に、私は本当に感謝している。
そして、それさえあれば、なんとか生きていこうと思えるんじゃないかとも思っている。
娘にとって、私が、私にとっての祖父母の存在になれたらいいなと思って、毎朝欠かさず伝えている。
「娘ちゃんは、ママの大事で、宝物で、大切だよ」と。

新年度、クラス替えで親しい友人と離れてしまい、少しブルーになっている娘も苦笑いしながら「はいはい、ありがと」と今日も学校に出かけた。

祖父母からはもう聞けないけれど、おばあちゃんにそっくりという私の声で、娘たちに今日も明日も明後日も、聞いてくれなくなっても、ずっと伝えたいと思う。


今日心がけたこと:読んでくれる人に情景をできるだけリアルに思い描いてもらう

反省:感謝とか、うれしいとか、感情を他の方法で表せないか考えたけれど、できなかった。五感を使った表現をできるようになりたい。


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