医療療育センターの訓練室にあった歩行器を使って

LITALICOの佐々木真美です。13本目となるnoteは、医療療育センターの訓練室にあった歩行器を使っていた頃の経験についてです。

これまでの記事にも書いていますが、脳性麻痺当事者で四肢麻痺がある私は、4歳から17歳まで仙台市太白区秋保にあった医療療育センター(以下、センター)に入院していました。

センターには、入院している人が使う訓練室がありました。その訓練室で、小学5年生から中学3年生まで、「SRCウォーカー」という、自力で立つことが難しい人が使う歩行器を使い、歩いたり走ったりしていました。しかし、歩ける嬉しさの反面、歩き方によりデリケートゾーンを痛めてしまうといった困りごとも経験しました。

このnoteでは、そうした身体への負担と付き合いながら、私が「歩くこと」「移動すること」にどのように取り組んできたかをお話します。

SRCウォーカーとは

SRCウォーカーとは、自力での歩行が難しい人の移動をサポートする福祉機器です。赤ちゃんが使う歩行器の大きいバージョンと思ってもらうと、イメージしやすいかもしれません。

赤ちゃんが使う歩行器とSRCウォーカー(以下、SRC)との違いは、またがって座る椅子の部分の角度を変えられることや、使う人に合わせて歩行器全体の高さを調節できることです。それから、自分の足が見えるようにテーブルがアクリル板になっていて、テーブルには掴まって踏ん張れるように横に長い棒が付いています。

※参考
以下のサイトでSRCウォーカーの画像を見ることができます。


療育センターでリハビリを受けるなかで出合ったSRC

 

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私は4歳で入院する前から、母代わりだったおばあさんと電車に乗り、後に入院する医療療育センターへ療育に通っていました。その甲斐があり、今も誰かの支えがあれば立つことが出来ています。

その後、センターに入院し、より自分に合う訓練を受けられるようになりました。自分を含む入院をしている人は、訓練を受ける曜日が週に5回ありました。個人個人の症状によって、リハビリの種類は違いますが、自分は理学療法士(PT)・作業療法士(OT)・言語聴覚士(ST)による訓練を1日2種類ずつ受けていました。

私とセンターに入院していた仲間が利用する訓練室は、入り口からPT・PT・OT・STという順番の設置になっていました。SRCが置いてあったところは、入り口から近い方のPTの部屋でした。入ってすぐのPTスペースにある上、廊下に置いてあったので目に入りやすく、幼稚園に通っていた頃から気になっていました。けれども私が使うようになるのは、自分が小学5年生のときでした。

ずっと気になっていたSRCに乗れた!でも最初は、立つ練習から

小学5年生になった年のことです。自らPTの担当の先生に言ったのか、担当の先生からの提案だったのかは忘れてしまいましたが、念願だったSRCに乗れるようになりました。けれども、最初のうちは、SRCに重りを載せて立つ練習からだったのです。私は、「初めから歩く練習をするだろう!」と思っていたので、肩を落としました。でも、実際にやってみると、SRCを動かさずに足に体重をかけることは想像以上に難しかったのです。

それから、自分は普段、車椅子に座っていることが多いこともあり、膝裏をしっかり伸ばすと痛みが生じます(子どもの頃から現在まで続いています)。なので、膝裏を床にピタッと付けることが得意ではありません。また、立つときに膝を曲げないで立つことも、自分にとってはレベルが高い動きでした。そこで、SRCを使って歩く練習の前に、PTの先生に膝が真っ直ぐになるように後ろからおさえてもらい、膝を伸ばす練習がしばらく続きました。そしてやっと、歩く練習が始まりました。

立つ練習から歩く練習へ。少しずつ1人で動ける範囲が広がっていく

歩く練習が始まったといっても、最初は私が歩きやすいように、SRCの全体の高さや、またいて座る椅子の高さを合わせるところからのスタートでした。自分は当時、PTの先生に体を支えてもらって歩くとき、床から少し足が浮いているくらいが上手く歩けたので、SRCのまたがって座る椅子の角度を高く上げてもらいました。そして、本格的に歩くリハビリが始まりました。けれども、最初から歩き回れたのではありません。最初に訓練をしたことは、踵から床につけることでした。

私の歩き方には、つま先から床について足をバタバタさせてしまう癖がありました。その癖を直すため、ゆっくり踵から床につけることを意識することから訓練をしました。そして、だんだん踵から床につくのが出来てきたので、PTスペース前の通路を先生と一緒に往復することを何回か繰り返しました。

その後、徐々に歩ける範囲が広がり、1人で訓練室内を歩き回っていたのですが、訓練室内では物足りず、訓練室の向かい側にあった広場へ行き、走るようになりました。しかし、日常生活で使うまでは使いこなせていなかったので、訓練の時間の終わりに近づくと車椅子に乗り換えさせてもらうのでした。当時は、現在のように電動車椅子ではなく、手動車椅子で過ごしていました。車椅子に乗ると1人では動けなくなるので、SRCから車椅子に乗り換えるときは、寂しい気持ちになることが多かったことを覚えています。

誰にも打ち明けられない違和感。 1人サッカーをすることで心が楽に


センターにあった広場は、学校の体育館と同じくらい広さがあり、ボールやピアノなどが置いてありました。そして、そのボールやピアノは、誰でも自由に使える物だったので、ボールを床に落としてSRCの前輪部分の前に置き、転がして遊ぶようになりました。

最初は、ボールを自分が思うところに転がすことが難しかったです。けれども、転がして遊ぶ回数が増える度、ボールを上手く操れるようになりました。そして、SRCに乗ってボールを転がすことに慣れた頃、歩くスピードを上げて走ることにチャレンジしました。その動きから、サッカー選手をイメージするようになります。

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SRCに乗りボールを転がしていた頃、私には誰にも打ち明けられない悩みがありました。それは、自分の性に対する違和感を持っていたことです。

身体はだんだん女性っぽくなっていく一方で、心は男の子でした。女の子の友達ともよく遊んでいましたが、実は男の子の友達と遊ぶ方が気持ちが楽でした。でも、そのことを誰にも言えなかったので、女子サッカーの存在を知らなかった私は、SRCに乗ってボールを転がして遊ぶ時間が1番心地よかったのです。

自分を出していい時間がある嬉しさと、デリケートゾーンの痛みとの戦い

SRCに乗り、自分で走れる喜びを感じたり、人の目を気にせず、心からしたかったサッカーが出来るようになりました。しかし、嬉しさを感じる一方で、予期せぬ困りごとが生じました。自分の走り方が原因で怪我をしてしまったのでした。

ある日のことです。いつものように、SRCから車椅子に乗り換えさせてもらうときのことでした。デリケートゾーンにヒリヒリとした痛みを感じたのです。「おかしいな?」と思った私は、センターへ戻り、看護士さんに事情を伝え、トイレに行って診てもらいました。すると、看護士さんから「真美ちゃん、デリケートゾーン、すれて血が出ているよ」と言われたのです。その言葉は衝撃的でした。でも、SRCに乗ると自分で歩ける喜びを知ってしまった以上、自分の中に「乗らない」という選択肢はありませんでした。

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翌日、デリケートゾーンが痛くて看護士さんに診てもらったこと、痛いけれどSRCを使って歩きたいと思っていることを、PTの担当の先生に話しました。すると、PTの担当の先生は、私が歩くことに慣れたのを踏まえて、SRCに付いているまたいで座る椅子の高さをだいたい3cmくらい下げてくれました。
またいで座る椅子の高さが低くなったことで、それまで椅子を頼りに歩いていたのを、より自分の力で歩かないといけなくなりました。なので再び、SRCが動かないように重りを載せて体重を足にかけるリハビリをするようになりました。その後は、デリケートゾーンがすれてしまうことも時々ありましたが、SRCのまたいで座る椅子の高さを下げてもらう前と比較すると、すれてしまう回数は減りました。

SRCに乗って、学校の行事に参加した思い出

それから1年が経った頃のことです。当時、母校は毎年11月に文化祭を行っていました。文化祭では、ステージ発表や各学年ごとにイベントを開いていました。そのステージ発表に、この年は学校の先生に黒子で私の後ろに付いてもらい、SRCに乗って歩いて参加しました。何のストーリーで、自分が何の役だったかは忘れてしまいましたが、雪道を楽しそうに歩くのを演じたことを覚えています。SRCを使って歩いてステージ発表をしたのは、小学6年生が最初で最後だったので、自分にとって印象が強い思い出となっています。


さらに時が経った中学2年生の運動会のこと。私はSRCに乗り、音楽や体育などの授業を一緒に受けていた1つ先輩の友達と徒競走をしました。徒競走のコースは、始まりがジグザグで終わりがUターンし、真っ直ぐ戻ってくるといったコースでした。その競争で勝ったのは自分でした。もちろん、自分が勝ったことも嬉しかったのですが、それまで友達がする徒競走を「車椅子だろうが、スピードを上げて動けるのいいな!」と、うらやましく見ていました。なので、自分が1位になったことよりも、友達と同じ種目で競い合えたことがものすっーごく嬉しかったです!

その後、SRCをどう使っていたかは覚えていません。けれども、今暮らしている入居施設の居室に置いてある中学3年のときのアルバムを見ると、当時通っていた母校の教室の中にSRCがあるので、体育の授業や学校内の移動に使っていたのではないか、と思います。


今はもう使用していないSRC。それでも、大切な思い出が私の中に残っている

小学5年生のときに初めて乗り、中学3年生まで使っていたSRCですが、デリケートゾーンがすれてしまうことから、普段の移動手段で活用することにはなりませんでした。また、SRCに乗ったことが初となる小学5年生のとき、OTでは電動車椅子の操作の練習を既にしていました。その練習の成果が実り、現在は左足で操作をして電動車椅子を運転し、日常生活を送っています。

今では、電動車椅子が私の足の役目をしてくれる相棒です。それでも、SRCを使い、1人で自分の足を使って歩いていた頃の経験は、今でも私の大切な思い出として残っています。

これまでのnoteを通して私のことを知ってくださった方は、電動車椅子に乗って過ごしている私の姿を見てくださったと思いますが、私のように四肢麻痺のある人にも自分の足で歩く方法があり、かつての私も1人で歩いていた時期があったことを知ってほしいと思い、この記事を書きました。

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