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祝ったことのなかった敬老の日、亡き祖父母に文章を捧げます。

今日は敬老の日。
実はわたし、敬老の日に「おじいちゃん、おばあちゃん、ありがとう!」とか「長生きしてね!」みたいなのをやったことがありません。

わたしの父方の祖父母は、わたしが2歳のときに亡くなりました。
だから、両親から聞く祖父母の話しか、わたしには記憶がありません。
「テレビで見るどのアイドルよりかわいい」と言って溺愛してくれていた、というのは幾度となく聞かされ、そのたびに気恥ずかしくも嬉しく思ったものです。

母方の祖父母は、わたしが生まれたとき、祖父48歳・祖母45歳という若さ。
と書くと改めて驚く・・・今のわたしに4〜5歳の孫がいるってことじゃん!
えええええ・・・・・。
と、まぁ、そんな若いおじいちゃんとおばあちゃんだったもので、わたしは彼らを「おとうさん、おかあさん」と呼んで育ちました。
わたしにとって〝祖父母〟というと看取りまで長らく交流のあったおとうさんとおかあさんのことを指しますが。
お年寄り扱いされることを嫌がった彼らに、敬老の日に何かをしたことがなかったのですよ。

今、もし祖父母が生きていたら。
祖父98歳、祖母95歳。
敬老の日に長生きをお祝いしても、もう笑ってOKしてくれる年齢ですね。
生きていて欲しかったなぁ・・・
だけど、亡くなった年齢が彼らの「寿命」だったんだな、とも思うのです。
きっと、いい塩梅の年齢で亡くなったのだろう、と。

今日はちょっと母方祖父母が彼岸の彼方へ旅立ったときのことを回顧してみたいと思います。

【祖母のこと】

2013年10月13日、9時36分。
祖母が満86歳にて永眠しました。

前夜、

 「痛いー、苦しいー、酸素マスクを外してください、息が止まってもかまいませんから!」

と、ろれつの回らない口で必死に訴える祖母に、

 「ごめんね、ごめんね、これ外したら息が止まるんよ、のけてあげれんのよ」

と泣きながらわたしが言った・・・そのときはまだ確かに生きていたのに。

最後は、少しずつ少しずつ心拍や酸素濃度が低下していき、静かに眠るように心臓の鼓動が止まりました。

その日の朝、呼吸が止まりかけている祖母に

 「おかあさん、おかあさん!
  朝よ、起きてよ!」

そう呼びかけましたが、もう反応はありませんでした。

☆、。・:*:・゜`★☆、。・:*:・゜`★☆、。・:*:・゜`★

 「悪性リンパ腫です。
  ご高齢なのと、身体が弱りきってしまっているため、治療はできません」

と、かかりつけ医からの紹介状を受けて診察してもらった総合病院の医師より告げられたのが、10月1日。

そのとき診察室に入っていたのは、祖父、母、わたしの3人です。

祖父と母はよく似たタイプで、すぐには機転がききません。
医師より告げられたことを、ただ呆然と聞くのみ。

これは、わたしが尋ねるしかない。

 「治療ができないという状態で、どのぐらい持つんですか?」

医師は、きっぱりと

 「1ヵ月、持つか持たないか、です」

と答えました。


祖父は沈黙。
母は「ええっ?!」と言ったきり絶句。
わたしは、涙をこらえるのに必死でした。

泣きみそのわたしが、よくぞ泣かなかったと思います。


その場にいた3人は、言葉こそ交わさずとも。
「本人には言うまい」
と、同じことを思っていました。

だからこそ、

泣いてはいけない。
泣くわけにはいかない。

そのとき、祖母は車いすに座って、診察室の外で
義妹(弟のお嫁さん)と待っていました。

 「わたしが呼ばれなんだ、っていうことは。
  相当悪いんじゃなぁ・・・」

と、祖母は義妹に話しかけたんだとか。

その祖母の心中を思うと、今思い返しても胸が締め付けられる思いです。

そして、67年連れ添った妻の病を知らされた89歳の祖父の気持ちを思うと、
本当に本当にいたたまれなかった。


わたしは、祖母のために、出来る限りのことをしようと決めました。
わたしの人生のうち、祖母に捧げる1ヶ月なんて、ほんの短い期間です。
でも、そこにはきっと大きな意味がある。
祖母にとっても、わたしにとっても。


10月2日に祖母が入院してから、10月31日まで。
わたしが病院に行けなかったのは1日だけ。
あとは、ほとんど毎日お昼休みと仕事帰りに、祖母の病室を訪ねました。
お昼ごはんと夜ごはんのタイミングに訪れ、ひとりのご飯にならないように寄り添ったつもりです。
他愛もない話しをし、腫れた脚をさすり、腰の湿布を貼り替えるのが、祖母とわたしの日課でした。

1ヵ月、ほぼほぼ毎日祖母の顔を見たのなんて、41年近く生きてきて初めてのことでした。
それは、本当に本当に幸せな毎日だった。
嬉しそうな祖母の顔を見ると、わたしはただただ孫娘なだけの自分になります。

祖母も幸せだと思っていてくれたかなぁ。

でも、ごめんね、おかあさん。
本当のことを言ってあげられなかった。
おかあさんは、治る!と信じてツラい点滴を頑張っていたのに。
治ってからの希望をたくさん口にして、わたしは「うんうん!」と聞いていたのに。
もう、命に期限がついてしまっているとは、どうしても言えなかった。

おかあさんの話しを聞いて、相づちを打って、でも帰りは泣きながら自転車をこいで帰る・・・そんな毎日でした。


おかあさんの闘病生活が始まってから、わたしが長女に話しました。
「ママはね、後悔したくないんよ。
 大ばぁばのためにアレをしてあげればよかった、コレをしてあげればよかった…
 後でそんな風に思いたくないんよ。
 だから今は大ばぁばのことを一番に考えて動きたい。
 そのために、協力してくれん?」

長女は「わかった」とだけ言い、その日から夕食を一手に引き受けてくれるようになりました。
彼女は夕食に肉野菜炒めや肉じゃがをこしらえ、わたしの帰宅を待っていてくれるように。
長女には本当に感謝しています。

おかげで、わたしは少なからずおかあさんのために時間と気持ちを注ぐことができたんだもの。

おかあさんが亡くなる2日前、何となく直感で「子どもたちを、おかあさんに会わせておいた方がいい」と思い、夫と娘たちを急遽病院に呼びました。
とろとろと眠っていた祖母は、次女が「大ばぁば!」と呼びかけて手を差し出すと、パッ!と目を輝かせて両手を出し、次女の手を握ったんです。
その嬉しそうな姿に、後ろを向いてそっと涙を拭いました。


・・・綺麗で、華やかで、朗らかで、鼻っ柱の強いおかあさん。
大好きだったよ! 自慢の祖母だったよ!

おかあさんが、最後までおとうさんを気遣っていたこと、気の強いおかあさんらしく病魔と闘っていたこと、一生忘れません。

【祖父のこと】

2019年8月7日 22時06分。
祖父が息を引き取りました。
享年96歳(満95歳)、大往生、あっぱれな人生だったと思います。

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祖父は祖母が亡くなった翌々年、病に倒れました。
それを機にそれまで暮らしていた家を処分し、わたしの実家近くで暮らすことに。
母は朝昼晩と祖父へごはんを届け、わたしは退勤後に祖父の夕食に付き合い、就寝の準備を手伝う・・・そんな毎日を過ごしていました。

数年は穏やかに過ごしていましたが、歳を重ねるごとに徐々に徐々に体が弱っていた祖父。
2019年に入ってからは、入退院を繰り返すように。

7月23日の夜、往診にきてくださったかかりつけ医の判断で祖父は救急搬送となり、市内の大きな病院へと入院となりました。


「95歳まで生きてこられたっていうことは、カラダ的にはエリートですから!
先生(←祖父のこと)、必ず戻って来られると信じています!」

かかりつけ医の先生のお言葉に、わたしは涙が出そうになりながら、病院へ向かったのを記憶しています。


入院先の大きな病院では、こちらが言わずとも、個室への入院となりました。
あー、こりゃ危ないんだな……と思いながら、すべてを終えて帰宅したのは深夜3時半をまわってから。
この夜は結局、わたしは一睡もできませんでした。

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徹夜明けで会社へ行った入院翌日は、祖父を見舞う体力的な余裕がさすがになく。
1日だけ、お見舞いへ行けませんでした。
が、それ以降は全日お見舞いへ。
わたしにできる、精一杯のことをさせてもらったつもりです。

……自分の口から言葉を伝えるのは難しくなっていた祖父でしたが。
こちらの話すことはすべて理解していた様子。
誤嚥性肺炎だったので、口からモノを摂取することを禁じられていたのですけど……
コーラいる?と訊いては、口腔清浄スポンジにコーラを含ませ、舐めさせていた悪い孫は・・・わたしです(笑)
だって、ねぇ!
おそらく、そんなに長くはもたない命。
好きなものぐらい、口に入れてあげたいじゃないですか。

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ところで、大きい病院って……
悪いとは言わないんですが。
少しでも延命を、という提案をしてこられるわけですよ。
「胃ろうをするしかないか、と」
「でなければ、鼻からチューブを胃まで通して、液体の栄養を」
「あるいは、首のところを少し切開し、カテーテルで高濃度の栄養を直接血管へ」

……それらは、本人に苦痛をもたらしませんか?
わたしが医師へそう尋ねると、医師は黙ってしまう。
苦痛を伴うような医療行為は、本人もわたしたちも望みません、体のツラさを取り除くことを優先してください。
そう医師へお伝えし、最低限の治療だけをしていただきました。
体が細ってしまい、もう点滴を入れられる場所はほとんどなく。
最後は首から点滴をするほどまでになっていたんです。

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肺炎の治療に目処が立ったのなら、従来診ていただいている在宅医療の病床へ転院させたい。
そう申し出たのが、8月1日。
医師はかまわないとおっしゃったのですが、手続きなどの都合で、転院は8月7日の朝に決まりました。
よかったねぇ、おとうさん!
前におった、あの病院へ替われるよ!
8月7日の転院に仕事で付き添えないわたしは、前日の夕方に祖父のところを訪ね、そう話しかけました。
もう、とろとろと眠っていることの多かった祖父に、わたしの声は届いていたのかなぁ。

そして、8月7日、無事に予定通り転院したと聞き。
退勤後、病院を訪れました。
前回入院していたのと同じ「なでしこ」と名のついたお部屋。
今回は、窓から空が見え、テレビも見やすい方向にベッドが設置されていました。
「おとうさん、よかったねぇ!!
 安心したろー?
 スタッフのみなさん、よくしてくれるけんね。
 高校野球、見る?
 コーラ飲む?」
おしゃべり孫娘が矢継ぎ早に話しかけるもんだから、祖父は困っていたのかも(笑)
でも、コーラのときに、わずかに首を横に振ったんです。
「いらんの?
 そうなん、じゃあ、冷蔵庫に入れとくね。
 おとうさん、また明日来るよ、おやすみ!」
そう話しかけ、家路に着きました。

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21時過ぎです、携帯に母からの着信があったのは。
嫌な予感がする、何かあったんや!と電話に出たら。
「もう、下顎呼吸になっとるみたい、すぐ行った方がいいって」
わかった、着替えたらすぐに迎えに行くから!と電話を切ったら、またすぐに着信。
今度は病院からです。
「先程、お母さんへお電話しておじいちゃまのところへ戻ってみたら、もう呼吸が止まりそうなんです。
 もしかしたら、来ていただくのに間に合わないかも」

間に合わなくても、とにかく行きます!と返し、急いで母と病院へ。
……間に合いませんでした。
わたしたちが到着する直前に、祖父の命は尽きてしまっていたんです。

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「ごめんね、おとうさん、間に合わんかった、見送ってあげたかった」
思わず泣き崩れたわたしに、母はしょうがなかったんよ、と言ったけれど。
悔やまれて悔やまれてなりません。
温かいスタッフのみなさんに見守られながら逝ったのだから、決してひとりきりの旅立ちだったわけではないんです。
それでも、悔やまれる。
最後まで尽くさせてほしかった。
亡くなる数時間前にわたしが訪れたとき。
何か言いたそうにわたしを見つめ、手を握ってきたんです。
きっと、そばにいてほしいって言いたかったんだ、今ならそうわかる。
なんであのまま居なかったんだろう?
今思い出しても胸がキリキリ痛みます。

それでも。
体のツラさから解放されて、おとうさん、今頃はおかあさんと口喧嘩しながらも天国で一緒に過ごしているかな。
そう考えると、わたしはちょっとだけ救われるよ。

☆…☆…☆…☆…☆…☆…☆

祖父母のmemoremoをつくることを考えていまして。
そのベースとなる文章にしようと、綴ってみました。

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