変化を強いられるべきは子どもじゃなくて大人の方だろう
今日、流れてきたEテレの「あおきいろ」の歌を聴いてビックリした。
内容はうろ覚えなのだけど、
(小学生の男の子の視点)
なぜあの子はいつもだらしないのだろう
宿題はしてこないし
授業中は寝ているし
(指摘された女の子の視点)
今日も宿題ができなかった
家に帰ったら料理に洗濯
弟のお世話もしなくちゃいけない
授業を受けたいのに、眠気が……
(俯瞰して)
見えるだけがすべてじゃない
気づいてあげよう、声をかけてあげよう
見て見ぬふりせず、会話してみよう、何か事情があるかもよ
わたしはこの歌を聴いて、烈火のごとく怒った。すさまじい怒りの感情だった。
わたしは子どもの頃のことをよく覚えているのだけど(それは、「子どもは必ず大人になれるけど、大人は子どもにはなれない」という言葉を子どもの頃に聞いたことがあったから)、それでも「あの子変だな」なんて気づけないし、自分のことで精いっぱいで他人の事情まで斟酌する余裕はなかった。
わたしは大学時代に大切な友人が中退してしまった。一年生の時だ。その年次でさえ、相談されても何もできなかった。かろうじて「奨学金を借りられない?」と、なんの役にも立たない提案をするくらいだった。
それなのに、小学生に、なにを期待しているのだろう。
そういうのは、大人が気づいてやれよ。大人なんだから。どうしてケアが必要な子どもを、子どもに面倒見させようとするの? 監督責任は大人の方にあるでしょう。
気をつけなきゃいけないのは、わたしたち大人は、真綿で子どもの首を絞めることができるということ。優位な立場を使って、何も知らない子どもに「これからはこうだからね」と大人にとって有利な価値観を植え付ける。なにこれ、ハラスメント?
わたしはこの歌を一度聞いただけでカッとなってしまったけど、もちろん制作側にはいろんな意図があってこの歌を作ったのだろうと拝察する。
今はできてないけど、これを機に啓蒙していこうという考えが根底にあるのも理解できる。もちろん子どもだけではなく、大人もアップデートしていこうとする中での、子どもへの訴えかけであるのも理解できる。
それでも、わたしはなんだかこの考え方が不気味だった。
これ、道徳なのか? 多様性の理解の範疇なのか?
男女の違いや国籍、肌の色の違いの話ならわかる。自分はよくても、相手が嫌がることが存在するという話もわかる。
でもこれ、ヤングケアラーの事案だよね? 明らかに上記と毛色が違う。それが、「お互いを理解しよう」という個人の努力の話で語られてしまっていいの? それを、子どもに課していいの?
モヤモヤは続く。
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