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授業参観に初めて親として参加。小学生が世界を理解しようとしているのを知った
授業参観。それは、母親が綺麗にお化粧をし、よそ行きの恰好に扮し、いつもとは違う雰囲気をまとってわたしの学校生活をのぞき見に来るアレである。
わたしは今回、初めて、その「母親」の立場で授業参観に臨んだ。上の子が小学生になったからだ。
2歳の下の子を連れて、入学式の際に一度訪れたきりのわが子の教室に向かった。
冒頭にもあるように、わたしは授業参観が苦手だった。
まず、低学年の頃、わたしは授業中に手を挙げない子どもだった。「どうせ挙手しても指されないし、理解できているかは先生がテストの採点をしている訳だから、先生自身が一番わかってるはず」と思っていたからだ。
授業参観でいつもと違う雰囲気の一日に疲れたわたしに、母は帰宅するなり言った。
「どうしてまみちゃんは手を挙げないの?」
むしろわたしとしては、「どうしてわざわざ手を挙げるの?」だった。授業参観は、親がわたしの愚図なところを見つけに来る日だと悟った。
思春期の影がちらつく高学年になるにつれて、それはますます嫌なものになった。
わたしは、家庭の顔と学校の顔を使い分けていた。家庭には見せない顔が学校にはあった。それが赤裸々に暴かれてしまう恥ずかしさ。
いや、今考えると、むしろ逆なのかもしれない。母親が来ることによって、学校ではしっかりものを演じているわたしの、甘ったれな部分が露呈してしまうのを恐れていたのかもしれない。
そしていま、親として授業参観にきた。わたしは嬉々としていた。だって大好きなわが子の雄姿が見られるのだ。それはもうワックワクしていた。母親とはこういう気持ちなのか、と思った。
娘は、クールに座っていた。そこには、保育園時代の娘はいなかった。「あ、ママ」と目線だけで言った。正真正銘の「小学生」である。
わたしの姿を確認すると、娘はもうわたしの方を見なかった。ポカンと口を開けて、先生の話を聞いてるんだか聞いてないんだかわからない表情をしている。ア、机のうえに肘ついてる! 頬杖ついてる! わたしはハラハラした。
お隣の子と意見交換をする時間になった。
「お父さん、お母さんたちもお子さんのお席までいらしてください」先生は気を遣ってくださる。
わたしは下の子を連れて娘の席まで来た。娘は溌剌としている方で、親ばかで恐縮だが、賢いと思う。でも、いつもの大声はどこえやら、蚊の泣くような細い声で意見を言った。
なんだかモヤモヤした。いや、モヤモヤを通り越してムシャクシャしていた。
いつもこんな態度で授業きいてるの? なんで大きな声出さないの?
ふと、黒板が目に入った。「き」という平仮名が、書き順別に色を分けて書かれてあった。1順目は白、2順目は黄色、3巡目は青、4巡目は緑。
ああ……。わたしは一瞬で30年ちかくタイムスリップする。
そうそう、一番使われるチョークは白なんだよね。重要なときは赤か黄色。青が出てくるのはまれで、緑なんてポケモンでいうとミュウみたいなもの。
小学生のわたしは、あの小さな席に座っている。コツコツと響く、先生の板書の音。指先から落ちるチョークの粉を見ながら、わたしは、緑のチョークの出番を待った。緑のチョークに恋焦がれた。あ、今日も使われなかった。次はいつ会えるんだろう? そんなことを考えて一日が過ぎた。
小学生って、そうだ。世界のすべてがわからなくて、すべてが斬新で、すべてに想いを馳せる。
なぜ板書は白ばかり使うんだろう、不公平だ、とか。体育館の明かりはなぜオレンジ色なんだろう、とか。なんで学校で生き物なんて飼うんだろう、とか。
意味不明な世界。それらを一生懸命秩序立てていると、もう一日が終わる。小学生にとって、考えるべき物事が多すぎるのだ。
大人になったわたしは、もう一度娘を見た。ぼーっとしているようにも、考え事をしているようにも見えた。
「発表してくれるひとー?」
先生のその問いかけに、娘は挙手した。一人きりだった。ピンと指先まで伸びた、感心するほど美しい姿。
その瞬間、娘のすべてが偉大に見えた。「周りが手を挙げてからにしよ」という、自信のなさがまったくない(そこまで思考が至ってないだけかもしれない)。いや、まてよ? 先ほどの意見交換、娘は教科書通りのセオリーで答えていたじゃないか。トメ・ハネ・払いが意識された平仮名練習帳に踊る文字。そもそも、彼女はつい先日まで保育園児で、そしてここは、外国だ。
授業参観は、わが子を他の子と比べるためにあるのではない。わが子のアラを探すためでも、わが子の優秀さに安堵するためでもない。
これは、わたしたちのためにあるのだ。わたしたち親が、彼女らの、小学生として世界を理解しようと懸命に努力している様子を見るために。そして、余計な小言を言わないようにするために(ここ重要)。
授業参観を終え、娘が帰宅すると、開口一番「緊張した!」と、叫んだ。いつものお調子者の顔に戻る。
「いつもは大きな声でお話しできるんだよ! でも今日は、みんなのお父さんとお母さんがきて、緊張しちゃって、声が出なくなっちゃった。」
娘も娘なりに、「授業参観」を受容し、理解しようとしていたのだ。なんてかしこいのだろう。
わたしは、色々言いたい気持ちをぐっと飲みこんで、ただ言った、「手を挙げるときの姿勢が、素晴らしかった!」。
娘は「もうその話はいいから」と言う。でもやっぱり、夜になって、「授業参観、よかった?」と訊く。かわいい、かわいい。わたしは、彼女がそうして少しずつ、彼女の世界を体系立てていく様子を傍で見守る。そして祈る。どうか、楽しく生きていけますように、と。
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