サンタさん、おもちゃじゃなくてお菓子をくれたって。
我が家はどちらかというと、経済的に余裕があるし、その自覚もある。
だからこそ、子どもにはそう意識させないように、注意しながら育ててきた。子どもの中に、金銭で優劣を図る価値観を醸成したくないからだ。
楽しいクリスマスを終えて、保育園からの帰り道、自転車の後部座席に乗りながら、娘は言った。
「ママ、みーちゃんのおうちはね、サンタさんはおもちゃじゃなくて、おかしをくれたんだって。」
わたしはすぐに反応できなかった。
みーちゃんのおうちは、飲食店を経営している。地元に愛される定食屋の二代目で、お父さんもお母さんも、飾らない、良い人だ。兄弟も多い。わたしは、みーちゃんの尊厳を守りたかった。
「そうなんだ、サンタさん、みーちゃんのためによく考えておかしをくれたんだと思うよ」
そう言ってから、自分を恥じた。
娘から話を聞いた時、わたしは一瞬、なにを考えたのだろう。その奥底に、金銭で優劣を図る自分がいなかったか。
「みーちゃんの尊厳を守りたい」って、わたしは何様だ。サンタからの贈り物は、サンタが1番に子どものことを考えて選んでるに決まってる。それが、子どもの欲しいものをそのまま与えることと同義ではないはずだ。
家庭の数だけ、ストーリーがある。その答え合わせをするつもりはないし、権利すらない。なのにわたしは、何を考えた? まっさきに、「かわいそう」「触れてはいけない」が浮かんだ。本当に、そうなのか? かわいそうなのか、それが?「かわいそう」って、なんだ。なぜ他人にそんなことを思われなきゃいけない。
わたしは何様なんだ。なんて評価的なんだ。
他人を表面的にしか捉えられない自分に失望していたところ、そんな逡巡はつゆしらず、娘は言った。
「うん、きっとみーちゃん、とってもいいおかしをもらったと思うよ。いいなぁ、どんなおかしなのかなぁ?」
娘の世界に「経済」という尺度がないのがありがたかった。
我が家はどちらかというと、経済的に余裕があるし、その自覚もある。
だけど、それがすべてではないことも知っている。金銭で図れない価値があって、その具現もまた、金銭ではない。
わたしの家はわたしの家なりのやり方で子どもを教育する、それだけ。
他人の家がどうとか、関係ない。評価しない。そうなんだね、とうなづくのみ。
ただ、子どもたちが大きくなった時、常にそばに置いて欲しい問いがある。
なぜ、自分たちがそう教育をされたのか。そういう教育を受けた者として、なにをしていくのか。
わたしはそこに出資しているのだ。我が子だけでなく、すべての子どもたちへ。そう考えることで、実際は金銭でしか物事を図れない自分を慰めているのかもしれない。
でも、なにもしないよりいい。自覚しているからこそ、思い切り偽善を装える。
それが結果的に世界を変えるなら、これほど本望なことはない。
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