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気力ビンボーについて

昔から、「お金ない」「うちは貧乏だから」とつぶやく母を見るのが嫌だった。それは彼女が自らにかけていた呪いだった。
母は、「もったいない」が口癖で、ラップを洗って干して再利用したりしていた。わたしはなんとなくそんな母が気持ち悪くて、耐えられない気持ちになった。そして時々、こっそりラップを捨てていた。

いまなら分かるのだけれど、実際のお金のあるなしとはまた別に、母は、生きてること自体が、生存そのものが、不安で不安で仕方がなかったのだ。それを、目に見える、分かりやすい「お金の心配」に投影していただけなのだ。その証拠に、ぎりぎりではあるけれど、これまでだって借金せずに暮らしてこれたし、今だって生活保護を受けることなく暮らせている。まあニートのお前が言うなって話だけど。笑


母は、「お金がない」と自分を追い詰めることで、なにか太いワイヤーのようなもので、自分をぎゅっときつく縛っている。自分が快適に、楽しく生活することを許していないのだ。それは何かの罰みたいに見える。
気づいて、荷を下ろせばいいのにといまのわたしは思うのだが、成人し、一人暮らしする頃には、わたしも自然と母と同じ生き方をするようになっていた。
行動しようとすれば、何をするにも、(…あっ、お金ない)と脳内で呟いている。
しかし実際にお金がないというよりは、それが本当にほしいのか、それが本当にやりたいのか、「実行するわたし」が行方不明で、「……これがほしかった、ような(でも、別になくてもいいのかな…?」みたいに、いつもどこかポカーンとしていた。

それは、自己の不在だった。
たぶん、根底には、生きることへの諦めがあった。
普段は嫌々バイトをして、休日はいつもなかなか起きだせず、ずっと布団の中にいて、やっと起きてこれたかと思えば、もうすでに日が暮れている。それにさらにやる気をなくして、部屋のすみっこに座り、ベランダに足を投げ出して、夕暮れ空に舞っているカラスをぼーっと眺めたりしていた。
20歳、世間のハタチの子たちは弾けるような活力を持っているのに、わたしは、まるで戦場から帰ってきた兵士みたいに、疲れきっているのだった。

本当は、体が動きさえすれば、気力さえあれば、実際にお金がないことなんて、大した問題ではない、とわたしは思う。それは単なる制限だ。自分の持っているお金の範囲内で、選ぶことすら楽しみながら、買えるものを買えばいいのだ。お金をかけないとキレイになれないと思っていたけれど、ヘアサロンだってマッサージだって、探せば、身の丈にあったところがいくらでも見つかる。


わたしは、あの、ラップを再利用する母の、足元にあった不安が怖かった。
自分の生活から、逃げようとしていた。
でも、あれは母の不安であって、わたしの不安ではない。わたしには、もう、わたしがいる。わたしの体は安全なのだ。きっとこれから、もっと豊かに生きていくことができる。わくわくして、楽しんで、好きなことに活力使って、生きていくことができる。
お金のあるなしに関係なく、自分の体と、もっと楽しんで日々を生きよう。
わたしは最近、そう思ったのでした。

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