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日記2月9日。 #日記

昨日の読売新聞読書欄で、文化人類学者の小川さやかさんが紹介していた新書、山岸俊男「安心社会から信頼社会へ」を図書館で予約した。

安心社会とはいわゆる今の日本であり、日本が目指す世界であろう。それは“他者”あるいは”社会制度””政治”から他動的に仕組みが与えられてその中で安心して過ごすことを志向する社会のことである、と思った(本はまだ読んでいませんが)。

それに対して”信頼社会”というのは、過ごす社会のデザインを”面倒な自分事”を通して築こうとすることであると思う。昨日の日記で、同調圧力で内部の人間を管理しよう、とする、そしてある程度はそれができる、できて来た日本という世界と、多種多様で全く違う人々と文化のごっちゃまぜであるアメリカでのいやいやの寛容、”自分を認めさせるためにやむなく他社を認める”寛容、という2つの世界の比較について書いた。

ここでいう”安心社会”と”信頼社会”の対比は、”不寛容社会=日本”と”寛容社会(いやいやだけど)=米国”の対比と、同質のものであろう。

この本は、限られた人間関係の中で安全・安心を追求するより、信頼によって不特定多数の人との関係を切りひらく能力を高める方が、これからは重要になるということを、社会心理学の実験を通して説いています。
コロナの時代を読む6 2021年2月7日 読売新聞読書欄(P.9) 小川さやか

自分を振り返ってみると、日々の生活で存在する人間関係はものすごく限定的である。基本的には会社。これは会社を離れた瞬間になくなるものであろう。継続的でもない。それと家族。セーフティネットとしてはほとんどこれしかない。いわゆる不特定多数との関係、というものは存在しないのだ。

住んでいる地域の関係、というものはほとんどない。住人とも行政とも、ほぼ没交渉である。これがいわゆるサラリーマンの、ごく普通の状況であろう。

農業集団、一部の武家社会。こうしたものから近代化の過程で会社というものが出来て、はじめはあたかも疑似家族のように機能したのだと思う。昭和初期から中期あたりまでだろうか。イメージは車寅次郎の叔父の家の裏のタコ社長の工場だ。

その後の会社は、このコロナの前までは、働くものがその時間を基本すべてささげる対象、としてあったのだろう。もちろん個人差はあるだろう。だが自分の気持ちを振り返るに、”勤務時間は会社に捧げねばならない。でなければ賃金は得られない”であった。

コロナで、勤務する、が瓦解しつつある。瓦解しきらないかもしれない。だがその結果”会社に行かない勤務”が文字通り一瞬で出現した。

在宅勤務、とはコロナ前であれば基本”絵に描いた餅””見せ金””将来そうありたい勤務体制”でしかなかったろう。だが、コロナで一瞬で生まれたのだ。

いい、や悪い、ではない。コロナによって、今後の歴史では、”人間の働き方が一気にバーチャルに振れた年”として記憶されるのであろう。

今後多分、実際の移動はなくなるだろう。全て脳内、すべてバーチャル。200年くらいはかかるかもしれないが、多分人間はほとんど動かず、ソフトで健康管理し、ソフトで運動し、ソフトで旅行し、ソフトで結婚するのだろう。

500年すれば”昔、人間は実際に空間を移動していた”と驚きと共に記されるかもしれない。個人の記憶はバーチャルに移され、それにより”個人の死”さえあやふやになるのかもしれない。記憶は消えたくとも消えないのだ。

人類の絶対数が減りだすのはどのあたりだろうか。1000年くらいかかるのか。2000年くらいさきには、人類は融合した記憶の集合体として、一体になっているのではないだろうか。

だいぶ発想が飛躍した。ディストピア予言めいてしまった。だが、多分時期はともかくその方向へ世界は進むのだろう。

そういう世界へと、大きく舵を切らざるを得なかった年として、2020年は長く人類史で記憶される年と、なるのかもしれない。

(SFめきましたが、なんだかときめくミライ、という感じでもないですね。。)

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。