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日記5月31日(月)。 #日記  文化と在宅勤務。

在宅勤務が多くなった。

そうするとどうなるのか。

日々の活動で、悪名高いのは通勤だ。まったく生産性がない、そして妙に体力や精神力を消費する時間である、と言われる(一般論で)。

最近東京に3年弱住んだ。蒲田あたりに住んだが、会社にゆくのにだいぶ混む電車に乗った。その前に住んだときは田園都市線で、だいぶ通勤は厳しかった。蒲田から品川までのJRは、蒲田始発の列車が存在する。早く起きて、並んで、それに乗れば、座れるのだ。

まあ、帰りはダメでしたね。

今名古屋に住んでいるが、通勤時の列車はそれほど混まない。今はコロナだが、その前からそれほど混まない。田舎への通勤であるからだろう。

そうなるとどうなるか。

朝の時間が、けっこうインプット・アウトプットにいいのだ。細切れで、時間が限られる。学校と同じでこれがいい。適度な集中が得られるようだ。

思えば中高時代も電車にばかり乗っていた。往復合計4時間/日。一日12時間起きているとすれば、ほぼ1/3である。そこでは毎日、小説を読む。マンガを読む。宿題を写す。であった(たまに単語や漢字を暗記)。

車窓からの景色は、美しかった。日の出。日の入り。海岸。海。

つまり、電車に乗ることが、好きになった。

コロナ前の出張時は、だからわくわくした。電車に乗るのが、楽しみなのだ。私は“鉄っちゃん”では全くないのだが、”列車での移動好き”ではあるだろう。飛行機も、好きだ。

まあ、いろいろ書きましたが、要は”通勤が好き”ということ。これはいわゆる東京の痛勤地獄のことではありません。座って通勤、なら当たり前ですね、すみません。

そして、家に居ると、天気が悪いと散歩しない。いや、してもいいのだが、できていない。通勤は、雨は降っても、雪がふっても(だいたい)行かねばならない。

勿論家で通勤時のようなインプット・アウトプットできればいいのだが。なかなか実現できないようだ。。

文化について。

一流の街なら、美術館があり博物館があり、また大学がある。それらは金を稼ぐために存在するのではない。むしろ税金を使い、無駄なことをしている。その無駄こそが、その街の財産ではないか。そういった無駄こそが、街の誇りではないか。「私の街には、こんな無駄があります」と自慢ができる。それが、健全な社会だ、と僕は考える。
森博嗣 つんつんブラザーズ P.163 講談社文庫

森さんのエッセイでこの箇所を見つけて、妙に気に入ってコピーしてノートに貼っている。何度かこの日記にも登場させたかもしれない。

なぜに気に入ったのか。いまはそうではないが、将来こんな街に住みたいものだ、と思うからである。

医療や福祉はまったなし。そこに金を使い、余ったら文化に使うのがあたりまえ。

そうなのだ、と思う。そちらと比べて、文化を行いましょう、とは思っていても言えないだろう。

まずはそちらを。そして文化は、そちらが良い感じになってから、やっとこさまあ、こっそりとやってもいい、という感じになるのだろう。

なので、”夢”なのだ。いわば”坂の上の雲”。

だが、維持は困難であるとはいえ、この地には大学も、博物館も、美術館もある。そこに働く人々もいる。条件はもう、よくはないかもしれないが。

ただ、金の問題は、背に腹は代えられない。医療や安全のために金を回すことには、誰も反対できないだろう。今の日本はそうなっている。こうなるまえに、もっと早く将来像を精確に描き、備えておくべきだった。

上記の引用に続いて、森さんはこうおっしゃっている。だが結びではこうおっしゃる。

しかし、人は必ずこの「文化」を復興するだろう。神がいなくなった現代において、それは神殿のような社会の人々のシンボルであるからだ。

私には、神はいない。多くの、日本人の皆さんもそうだろう。

だが、神という名であからさまに示される”人格神”ではないところのもの、例えば”正義”、例えば”真善美”のようなもの、をどこかで信じ、どこかで希ってはいないだろうか。

私は希っている。

その”希うもの”が、森さんがおっしゃる”文化”の神殿から、こっそりと、ひそやかに、こちらを覗いているような、気がしている。

(チェリッシュ!)

お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。