6月11日 神話と言葉と「科学の限界」。

この世がこの世として、個体に意識されるために必要なものはなんだろうか。

聖書はいう。

光あれ!

はじめに言葉ありき。


様々な神話が、海と大地から生命が生まれ再生する仕組みを言う。

再生する仕組みを持つものが「生命」である。


私がいまだわからないのは、宇宙、が発生したものだとして、「どこに発生したのか」だ。この答が全くわからないのだ。

発生するために「空間」が必要だ、と仮定すれば、宇宙の前に空間があることになる。

つまりは存在としての宇宙がすべての始まりだとするのなら、宇宙は「精神」のなかから、あるいは「形を持たない考えのようなところ」に、いきなり存在として発生するしかないことになる。

形を持たない考えのようなところ、がすなわち「存在としての無」といえるのだろうか。

無から有が発生する。宇宙の「外」は無である。すべての存在が宇宙であるのだとすると、こう考えるしかなくなる。

だが、「精神のようなところ=無」にいきなり「初めての存在としての宇宙」が発生する、というところに、なんとなく飛躍を感じる。懐疑を感じる。「そんなことがありうるのか???」

もしそんなことがあるのであれば、この目の前の空間に、なにかいきなり出現する、ということが出来ることになる。ワープではなく、「初めての発生」だ。

つまり、存在としての宇宙を認めるのであれば、その始まりは「無からの&無の中のぽっと出」しかありえないだろう。

そしてこの「ほんまかいな」は、多分「存在」たちはその一生で決して答えを得ることはないだろう、という気がする。

まあ、疑問のままで、決してわかることがありえないもの、であろう。

そしてここに「科学の限界」を感じる。


私が池田晶子さんの著書を読んでいて、「さすがに素晴らしい」と思うのは、私が義務教育の中で得てきた、「世の中はすべて科学でわかる。」という感覚がおかしい、ということを、「科学教」ということばで教えてくださったことだ。

なんというか、存在は科学で解明することが正義だ、という感じを与えられてきた。そこには「迷信」や「非科学的」「疑似科学」は、基本的に存在できない。今はわからなくとも、科学で将来すべてわかる、という感覚だ。

だが、どうやらそうではない、と思っている。つまり科学は万能の手段ではないのだ。万能のアプローチではないのだ。

日本で進化論を信じていない人はほぼ0であろう。とにかく教科書に、あの猿が直立歩行の人間に変わってゆく図があり、それを見て「なるほどね」と普通思うからだ。

なので、アメリカで進化論が教えられていない地区があり、進化論を教えることを嫌がる人々が相当数いる、ということを聞いて、驚くと共に、「ああ、これが宗教というものか」と思ったものである。

はじめは「なんて遅れたひとびとなのか!中世か!!」と考えたのだが、そのうちに「進化論はある意味科学、というものの象徴であるのだ。すべてを科学で測ることを是としたくない(そうかもしれないが押し付けられたくない)人たちがいるのだなあ」、と感じるようになった。

多分、全てが科学でわかる、と思うことは正しくない、と今は感じている。宇宙の始まりが感覚的に多分科学ではわからないだろう、というようなところが現状一番の理由である。

(皆さんはどうなのでしょうか。。)











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