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経験とはなにか。

経験とはなにか。

経験、という言葉をどう定義するか。

通常は、この”私”という(個体)が、この”時間”のなかで、遭遇し、主に”心で”味わい、評価するもの、となるだろう。

しかし、ケン・ウィルバーは、その著書、”存在することのシンプルな感覚”の中でこう述べる(P.237)。

時間のなかにはない経験というのは、経験という言葉で言われる一般的な意味にはあてはまらない。経験とは、時間のなかでの始まりと終わりを持つ以上、むしろそれは、すべての経験が生起するグラウンドないしは開けである。

すこしわかりにくいが、どう読むのか。

1.時間のなかに有る経験

2.時間のなかに無い経験

の2種類があり、後者は前者(時間の中にあるすべての経験)がそこから起こり、生まれてくるような、時間経験の母胎(母体)といったものである、ということになろうか。

同じ本の142ページで、ウィルバーはヘーゲルを引いて言う。

ヘーゲルは言う。「絶対の善とは、永遠にそれ自身を世界のなかで成就しつつあるものである。それは未来の内に我々を待っているものではなく、常に、すでに完全なる現実性の内に達成されているのである。」

時間のない経験(今、ここ、永遠にして過去未来のない)と、同じ永遠のなかで成就しつづける”絶対善”。

すべてが、いま、ここにある。

一者に帰還せよ。

一者に帰還せよ。多者を抱擁せよ。
多者を喜びに満ちて、愛に満ちて、無条件に抱擁することこそ、一者の完全性の「結実」であり、「完成」である。それが欠けては、一者と言えども二元的で、分裂して、「羨望に満ちた」ものになってしまう。

  存在することのシンプルな感覚 P.138

時間の無い永遠の中に、多くのものが喜びに満ちて、在る。

ただし、その喜びに盲目的である、ぼんやりとした霧のなかに在ることがある。それを抱擁する。

普通我々がある状態、「羨望に満ちた」不安定でストレスフルな状態。

全世界は「眼に見える、感じることのできる神」

自然とは、ブッダの外形である。自然とは、キリストの身体である。受けよ。これがわたしの肉である。飲みたまえ、これがわたしの血である。
しかし解放を見つけたものにとっては、自然とは、その内により深い真実が住まう、輝くような外殻である。

存在することのシンプルな感覚 P.57

時の無い永遠の中で、一者に抱かれた多の内の一として、真実の善を含み光輝く自然にやすらぐ。

わたしとは、それである。


それが、経験である。










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