見出し画像

11月11日(木) #日記 エゴとジブリとゲド戦記。


コロナ後、というものを漠然と不安に思っている。

これは「エゴ」である。エゴとは個人には、とにかくプラス思考でもマイナス思考でもいいので、「私」という個体、生物を生かすためのモチベーション(これも不安による逆モチベーションも含み)を起こすために無意識に発動している、人間という生物の標準装備・基本設定のようなものだ、と思っている。

エゴは、不安もWELCOMEだ。不安であっても、(不安いっぱいで)生体としては生き続ける方向にはなる、という設定になっているのだろう。あまりに不安が大きいと、精神面で不健康になることがあるのだが。

これは例えば、お気の毒にも否定的な評判も耳にするジブリ版の「ゲド戦記」で、負の自分と出会う、というテーマが印象深かったのだが、あの「負の自分」負ではあるがあくまで自分であるもの、というものと同じものだろう。

ジブリのゲドについては、私は映画を見る前からのゲドの読み手であったので、もちろんがっかりした。だが、あれを「ゲド戦記」というネームバリューとジブリ映画、という幻惑で観客数をかさ上げしよう、という思惑を忘れて、建設を学んだ一サラリーマンが、ある意味無理やり「家業」を継がされつつ、必死でできる範囲で作り上げたものだ、と思えば、「ご苦労さん」という感想も生まれてくるというものだ。オリジナル作品と思えば、悪くはない。むしろジブリスタジオの画力があれば、もう少し敵役との闘いには画力を見せつけて吾郎氏を助けてほしい、と思ったものだ。途中で降板したというが、「赤毛のアン」を見ていても感じたが、やはり宮崎駿氏のレイアウト設定には独特の臭みと間がある。魔力空間と魔力時間を生み出す力がある。これがなんともたまらないのだ。「ミヤザキハヤオ」に絡みつかれる感じ。その部分だけでも、お父さんが助けてくれていれば。

はじめに駿氏自身がルグインに映画化を図ったときには、ルグインは拒否をした。多分その時は宮崎アニメを見たことがなかったのだろう。その後駿氏がもうゲドをやる自身の中のタイミングを失したのち、ジブリという名前が同じで実はその子が監督をする、という提案が意味することを、ルグインはよくわからなかったのだろう。一度断ったあとで宮崎アニメに魅了された、のがある意味不幸でもあった。

私は宮崎駿さんの次男、敬介さんの木口木版画が大好きだ。素晴らしい、画力だと思う。画面構成力は(偉そうですが)お父さんにも負けないだろう、と思っている。

エゴの話であった。

これは、作者のアーシュラ・K=ルグインが追及したテーマであろう。名前、というものが重要なものである、ということ。真の名前は秘して生きる、ということなど、非常に深い印象を受けた。深い、精神世界を感じた。

そして多分、エゴを正面から見据えれば、何も考えないでエゴに牛耳られる人生から、「永遠の今」に生きて過去も未来も「今」にしかない、という生き方へと進化できる。たぶんルグインはそんなテーマであの物語を紡いだのではないか、と思っている。古代から延々と述べられるテーマ。「永遠」や「一」のこと。これこそが「世界の秘密」であり、「真の魔術」である、ということ。

もう一人の自分、をテーマにすることで、吾郎氏のゲドはその真理をすこしかすっている。そこが、惜しい。可能であれば、続編を、宮崎駿、吾郎、敬介という皆さんの総力で、作っていただきたい、ということも思っている。

(難しいでしょうが。。。ゲドはもっと、ジブリで深堀してほしいですね)







お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。