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日記4月30日(金)。 #日記  OKYと愛ある議論。

OKY、という言葉がある。

文句を言うなら前がってみろ、という意味である。

企業の中国の駐在員が、本国から文句を言われたときに感じたり、言ったりする言葉である、と理解している。

中国、といったが、特に中国に限ったものではなく、また駐在員である必要もない。ただ中国での駐在が特に困難で、現場での苦労が本国で理解されない場合が多すぎることから、こういう設定になっているのだろう。

だがこの言葉に接する時に、非常に難しい問題を思う。”自分のことを棚に上げて批判することは果たしていいのか”という問いだ。

ここ日本では、と一般論で述べる以前に、自分自身が議論する能力に欠けている。つまり議論する時に、議論は議論であり、相手の人格は関係がない、となかなか感じられないのだ。

多分学生時代に、議論する訓練がほぼなかったことが原因であろう。周りの人々も、基本的に同じである、とも認識している。

つまり、議論する際は、自分と反対の意見を持つ相手を、もれなく”憎い”と感じてしまうのである。

そして、そう感じてしまうのであれば、基本的には議論は不可能だ。

ディベート部などで、議論を専門的に訓練する場合、意識して自分の意見と反対の立場として発言する練習をする。こうした訓練をすることで初めて、議論を議論として安心して実施できる。

個人的には、日常生活で議論することは困難だ。ほぼ”議論”=”因縁つけ”と感じているし、ふつうの日本人はそう思っているだろう、と認識している。

”隣の芝は青い”的発言であるが、欧米では議論することを是とし、自分の意見を自分の名前を出して言うことが正しい、と認識されている気がする。

気がするだけだが。

つまりお互いがたとえどのような意見をもち、激論をしても、議論がおわればお互いにそのことで恨むことはない、という安心があること、

そういう教育をし、そういう社会であること、

そうして初めて、議論が安心してできるのである。

OKY というやりとりの奥には、本国の人間への恨みがもれなく籠っている。自分のことを棚に上げて、無理ばかり言う、ということだ。

お互いの信頼がある場合のみ、安全な議論は可能である。

別に議論が安全である必要はないのだが、信頼がない相手との議論は、精神や身体の危険が、あるだろう。論戦、という言葉もあるのである。

例えば冒頭のOKYについては、

”あなた個人にはなんの文句もないし、貴方の能力にケチをつける気もない。また中国という国での駐在が、いかに大変で日本とちがう困ったことが頻発するかも、こちらなりに理解しているし、わからないところは遠慮なく教えてもらいたい。まず私がいまからお伝えすることが、以上の条件のもとであることを、ご理解されてますか?”

と聞かねばならぬだろう。

それをめんどくさいと思わずに、毎回伝えねばならないだろう。

たぶんその前振りを欠いているから、OKYになってしまうのだ、と思っている。

そしてこの農業を中心とする国であった日本という国の社会で暮らす、ということが、周囲と協調して集団で労働すること、をベースとしていたため、議論をベースとした生活ではなく、配慮と忖度を中心とした生活であったことを、思いだすべきだろう。それがいい悪い、ではない。そういう歴史なのだ。

そこから、では将来はどのように、この日本を、この世界を良くしていこうか、と考えることができるのだと思っている。

たぶん、議論すべき問題がある時は、できればお互い恨まずに、問題を議論できた方が、いいような気はしている。議論が論破を目的とせず、真理の探り合い、自らが真理と信じることの提示、そしてお互いにそのことの確認をしあう。

本当の議論、とは実はそのようなものかもしれない。小林秀雄の”批評”のような。

(池田晶子さんは、真理は必ず真理として伝わる、と確信されていた、と思っています。大変な時間がかかる場合もあるのでしょうが。。)


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