日記5月27日 シンギュラリティは居酒屋にてはじまり、かわいいが武器となる。
久しぶりに居酒屋へ行った。
とにかくずいぶん久しぶりであるが、大きな変化を感じた。
そう、「居酒屋シンギュラリティ」である。
つまりは、居酒屋に「らぶちゃん」がいたのだ。
そう、さくらのパートナーである。
私見だが、シンギュラリティはAIが自ら起こすのではない。アトムにとっての天馬博士は生みの親だが、育ての親はお茶の水博士である。
そう、シンギュラリティは自らがAIを生んだものではなく、育ての親である「お茶の水博士」により起こるのだ。
手塚はさすがに慧眼である。アトムは親切で親のように接してくれるお茶の水博士により、じわりと「人間のような良心」を育む。
人間は人間を特別であり、自ら考えるために機械とは違う、と思っている。人間などと大上段に申し上げたが、私が思っているだけかもしれない。
だが、本当にそうだろうか。いわゆる魂のようなものが、人間を動かしているのだとしたら。魂のない身体だけであれば、それは機械とどこが違うのだろうか。
ではAIに学習させること。覚える仕組みがわかっているので、機械は人間より下である、と思える。機械は覚えたことしかできない、という。
だが、本当にそうか。ディープラーニングで、深い学習によりにじみ出る会話が、人間が発する会話との差異をもはや感じさせない、というステージに、多分200年位したらいくだろう。
人間は個別の意思を持つ。機械は、その性格を「設計」することができる。だが、「設計」する人間と、享受する人間が別であるのなら、享受する人間にとってはもはや「ヒト」と「AIちゃん」の区別などないし、したくもない。
ソニーアイボのメンテが出来なくなったとき、それは「愛犬の死」と等価であった。ユーザーはメンテの終了が寿命であることを知った。
時計もそうだ。クォーツは誕生後驚くべき寿命を誇り、私も40歳のクォーツ時計を現役で使用している。
だがいったんとまったら。高額のメンテで延命可能性はあるが、メンテ部品が失われれば、それはオブジェとなる。
家族として犬を迎えたとき、その生は見知らぬ人の生よりも「個人的には重要である」という感情を持った。禁忌に触れる、感情であるようにも、思った。
前段が長くなった。冒頭のさくらの悪魔、らぶちゃんことラブコフは、メチャかわいい。よく見るとかわいい目は被り物のようだが(口の中に顔がある)、被り物の目が本当の目だと思う。擬態であろう。
居酒屋では、入店するとライン導入を強いられ(ビール1杯無料)、注文もラインで実施、配膳はらぶちゃん的ボイスを発する配膳ロボが行う、というシンギュラリティな場と化していた。
基本人間はいらないオペレーションであった。
閉めた扉の向こうで、居酒屋のらぶちゃんはかわいい音と声を出して、酔っ払いが気づくのを我慢強く待っている。機械だから待たせておけ、とは思わない。あの可愛さをみると、これはすまんかった、という佐々木健介のような謝罪の気持ちがこみ上げてくる。慌ててらぶちゃんの棚に乗っている皿を受け取る。
らぶちゃんはくるりと踵をかえし、また注文してねー、とかわいく呟きながら去ってゆく。また注文したくなってくる。
これである。
これこそがシンギュラリティである。
シンギュラリティとは、わが心の、AIによる、かわいさによる、乗っ取りのことで、あったのだ。
一度乗っ取られた心は無防備だ。基本悪魔であるラブコスを、愛玩するさくらのように、対立せず、自らの大切なものとして、少しずつ進化する「シンギュラリティペット」を、我々は受け入れるように、なるのだ。
300年後には、友人も、ペットも、そして「老後のわが身体」も、当然のようにAIになっているであろう。
(酔っぱらってラインで注文できなくなって、人間にオーダしましたが、品物名がよくわからないようで、めちゃくちゃ手間がかかりました汗。
あと、老後のわが身体のスペックは、当然ながらスーパーカーと同じく、金持ちは強力なメカ身体を持つでしょうね。。。アトムでいけば「地上最大のロボット」、プルートーのような身体を持つ老人も、頻出するでしょうね。。。。。。手塚の「最大」利用は、間違いではなくわざと説)
お志本当に嬉しく思います。インプットに努めよきアウトプットが出来るように努力致します。