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Lara Naki GUTMANNとPiper GILLES/Paul POIRIER、それぞれの“ヒッチコック”プログラム

※この文章ではヒッチコック作品に関するネタバレには配慮しておりません。ある程度予備知識があるものという前提で書いております。各作品を未見の方はご注意ください。


1)はじめに


 2022‐2023シーズンの初め、私はたまたまロンバルディア杯を配信を観ていて、とあるスケーターの演技に目が釘付けになった。その名はララ・ナキ・ガットマン。イタリアの女子選手だ。
 彼女のことは2019–2020ジュニグランプリシリーズのショートプログラムで坂本龍一作曲の「The Sheltering Sky」を使用していた選手として記憶していたのだが、ロンバルディア杯で目にしたのはそれを上回るインパクトの非常にユニークなプログラムだった。ヒッチコック映画『サイコ』のBGM(バーナード・ハーマン作曲)を使用したフリースケーティングだったのである。

Lara Naki Gutmann (ITA) Lombardia Trophy 2022 FS

※ジャッジディティールはこちら(pdf)
https://www.fisg.it/upload/result/5874/csita2022/FSKWSINGLES-----------FNL-000100--_JudgesDetailsperSkater.pdf

使用曲は

映画『めまい』より
「Prelude and Rooftop」(バーナード・ハーマン作曲)

映画『ヒッチコック』より
「End Credit #1」(ダニー・エルフマン作曲)

映画『サイコ』より
「Suite - From"Psycho"」(バーナード・ハーマン作曲)

となっている。

 最初に『めまい』の冒頭(キャストのクレジットが出るあたり)のBGMと『ヒッチコック』のエンドクレジット用のBGMをそれぞれ後半部分を大幅にカットした上で繋げ、そこへさらに『サイコ』のあの有名なBGM(サントラ音源ではなくおそらくアレンジ版?)を前後のフレーズを入れ替えた上で繋げるという形の編集である。サントラ音源をそのまま使っていないのはテンポの関係だろうか。
 実際のプログラムでは前半部分に風の音のような、後半部分に鳥(烏?)の鳴き声のような効果音が入っているが、元の音源にはどちらも入っていないので、おそらくこのプログラムで使うために新たに付け加えられたものなのだろう。

 振付にはガブリエレ・ミンキオ、プリスカ・ピカーノ、リッカルド・モレッリと3名の名が記されている(ガブリエレ・ミンキオはガットマンのコーチでもある)

 彼女はこのプログラムを翌2023‐2024シーズンまで継続し、2シーズンに渡って我々を楽しませてくれたわけだが、改めてどこが斬新だったのか、過去にヒッチコック映画の音楽を使用していたアイスダンスカップルの演技とも比較しつつ語ってみたいと考えた。しばしお付き合いを願いたい。

2)パイパー・ギレス&ポール・ポワリエの“ヒッチコック”


 ガットマンの“ヒッチコック”の話をする前に、まずはアイスダンスカップル、パイパー・ギレス&ポール・ポワリエ組による、過去の“ヒッチコック”プログラムの話から始める必要があるだろう。
 彼らは2024年四大陸選手権で優勝し、世界選手権でも2位という素晴らしい成績を残したカップルだが、ファンがよく「“ヒッチコック”から10年」という言い方をすることがある。それだけ印象強かったということなのだろう。どんなプログラムかは実際に動画を観て欲しい。

2014 WC - Piper GILLES / Paul POIRIER (FD)

※ジャッジディティールはこちら(pdf)
http://www.isuresults.com/results/wc2014/wc2014_IceDance_FD_Scores.pdf

 これは2013-2014シーズンの彼らのフリーダンスである(動画は2014年の世界選手権)
 観てまず思ったのが「競技プロでこういうの、やってもいいんだ」であった。純粋に、怖い。
 まず、男性(ポール・ポワリエ)が衣装からしてどうみてもノーマン・ベイツ(を演じるアンソニー・パーキンス)にしか見えない。ということは、映画『サイコ』のストーリーを本気でなぞる気なのだろうか。とすると湧いてくる疑問が「女性(パイパー・ギレス)はどのキャラクターを演じているんだ?」である。
 たしかにパイパー・ギレスはヒッチコック映画によく登場する金髪女性のイメージにピッタリの容姿をしている。が、しかし映画『サイコ』のヒロイン、ジャネット・リー演ずるマリオン・クレインは途中でアレ(※婉曲表現)してしまうわけで……。第一、ギレスの衣装自体があまりマリオンっぽくは見えない。
 じゃあ、誰なのか? というのは、プログラムの最後の方まで観てみれば、少なくとも映画のストーリーを知っている人間には何となく分かるはずだ。もう一度先に挙げた動画を最後までご覧いただきたい。

 おわかりいただけただろうか?(←一回言ってみたかっただけ)
 要するにギレスは「ノーマンの中にある母親の人格」を演じていたのだ。このプログラムは、ノーマンが自分の中で作り出した母親の人格に、自らを乗っ取られる過程を表現していたのだと考えられるのである。なるほど、その手があったか!(※注:あくまで私の解釈です)

ちなみに使用曲は
映画『ヒッチコック』サウンドトラックより(作曲:ダニー・エルフマン)
「End Credit #1」
「Explosion」
「The Premiere」

映画『サイコ』より(作曲:バーナード・ハーマン)
「The Rainstorm」
(※wikipediaでは入れられていないが、途中「The Knife」

も入っているような?)

となっている。
 あくまで『サイコ』をクライマックスに持ってくる前提だが、そこに至るまでに伝記映画の『ヒッチコック』(米本国では2012年11月公開)サントラの曲をいくつか使用しているような形だ。ガットマンと大きく違うのは『めまい』からの使用曲がない点だろう。

 しかし、ここでまた新たな疑問が浮かぶ。そもそも「何故わざわざ『サイコ』を選んだのか? ヒッチコック作品でも『北北西に進路を取れ』など、もっとほかにメジャーな作品があったのでは?」と。
そこで、色々探してみたところ、プログラムのできる過程については、こんなインタビューがあった。

Piper Gilles and Paul Poirier: „We’re not satisfied unless we have pieced together something fresh and novel

 このインタビューによれば、彼らは最初にダークな曲調のものをやりたいという考えがあり、そのタイミングで偶然に振付師のキャロル・レーンが曲(おそらく映画『ヒッチコック』の音楽)を見つけてきてくれたという経緯らしい。そこからのインスピレーションを得て、プログラムの中のストーリーの流れやテーマも自然に決まっていったようだ。
 また、キャロル・レーンは当初“ディレクターズカット”というアイデアの元にこの曲を持ち込んできていたようなので、想定されているストーリーも『サイコ』本編それ自体というよりは『ヒッチコック』寄りのものと捉えたほうがいいのかもしれない。観客は言わばこの恐ろしい「映画」の完成を試写会等で見届けるような役割だろうか(振付師、コーチ陣はきっと観客の反応を観て満足するヒッチコックの気分を味わえたことだろう)
 つまり「皆によく知られているヒッチコック作品の音楽を使ったプログラムをやりたい」という動機から生まれたわけではないと考えられるのである。

 ついでに言えば、上記のインタビューには出てこないが、実はパイパー・ギレスはザカリー・ダナヒューと組んでいた2009-2010シーズンにも、ヒッチコック映画の有名曲を集めたプログラムを演じたことがある。

2009 JGP Budapest Gilles / Donohue FD

※ジャッジディティールはこちら(pdf)
http://www.isuresults.com/results/jgphun2009/jgphun09_JuniorIceDance_FD_Scores.pdf

使用曲はヒッチコック映画から(すべてバーナード・ハーマン作曲)

『知りすぎていた男』より
「Prelude」

『めまい』より
「Scene D'Amour」
「The Nightmare And Dawn」

『北北西に進路を取れ』より
「Overture(Main Title)」

 この時すでに『北北西~』の曲は使われていたのだ。さらに『めまい』の曲(こちらの「Scene D'Amour」の方がガットマンの使用曲よりも一般には知られているのではないかと思われる)までも。
 全体的にはオーソドックスな映画音楽を使ったプログラムという印象である。ゆえに、彼女自身もチームも、以前と同じことをやる必要はないと感じていた可能性がある。先のインタビューの表題通り「新鮮で斬新なものを組み合わせないと満足しない」ということなのかもしれない。

 尚、2023-2024シーズンのパイパー・ギレス&ポール・ポワリエ組は映画『嵐が丘』のサウンドトラック(作曲:坂本龍一)を使用したフリーダンスを披露し、観客に新たな驚きを与えた。今後もこちらが思いもよらないような表現で魅せてくれるに違いない。

3)映画『ヒッチコック』とはどんな作品か


 さて、そろそろガットマンの“ヒッチコック”の話に移りたいところなのだが、その前にもうひとつ、両者のプログラムにおいて音楽が使用されている伝記映画『ヒッチコック』についての話をするのをお許しいただきたい。

『ヒッチコック』(Hitchcock)は、2012年のアメリカ合衆国の伝記映画。サーシャ・ガヴァシが監督を務め、スティーヴン・レベロ(英語版)のノンフィクション本『アルフレッド・ヒッチコック&ザ・メイキング・オブ・サイコ(英語版)』を原作とし、アルフレッド・ヒッチコック監督による1960年の映画 『サイコ』の製作の舞台裏を描く作品である。出演はアンソニー・ホプキンスとヘレン・ミレンなど。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヒッチコック_(映画)

 この作品は伝記映画と言っても、ヒッチコックの人生全体を描いたものではない。一言で言えば“映画『サイコ』ができるまで(その舞台裏)”を描いたものである。そして、アンソニー・ホプキンスをキャスティングしているところからも察せられるように、ヒッチコックを完璧な偉人――善なる存在としては描いてはいない。むしろかなり癖のある人物として描いている。とは言え、あまりにも嫌な人物として描きすぎてしまえば観客が共感できないと踏んでか、かなりギリギリのところで“癖はあるが憎めない”くらいに留めてあるように感じられる(※正直『鳥』撮影時における、ティッピ・ヘドレンへのふるまい含め、私自身はヒッチコックの人となりに関しては非常に複雑な思いを抱いているのだが……これはまた機会があれば改めて別のところで書きたいと思う)
 本作はDisny+であれば見放題に含まれているので、加入されてる未見の方であればぜひ一度視聴してみていただきたい。

4)ララ・ナキ・ガットマンの“ヒッチコック”

 さて、それではガットマンのヒッチコックプログラムで、彼女が演じているものとは何だろう。
 選曲の時点でギレス&ポワリエ組のプログラムを参考にはしたかもしれないが、先述の通り、ヒッチコック作品の中でも『サイコ』は女性がヒロインを演じるのにあまり適していないと思われる内容である。そして、女子シングルではアイスダンスと違い、男性にノーマン・ベイツ役を演じてもらうことはできない。また、ガットマンの見た目だけで言えば、ヒッチコック作品の典型的なヒロイン像とはあまり似ていない。どちらかといえばイタリアのヒッチコックと称せられることも多い、ダリオ・アルジェントの作品に出て来そうな外見だ(イタリア人なのだから当たり前といえば当たり前だが)
しかし、

GOEing into Detail with Lara Naki Gutmann

 このインタビューの中で彼女は、自身が演じているものについて「殺人者」と表現している。ということは、演じているのは女性版ノーマン・ベイツということになるのだろうか(それこそ、むしろ先述のアルジェント監督作品に登場しそうなキャラクター像ではある)それを踏まえ、改めて彼女が優勝したソニア・ヘニー杯での演技を観てみよう。

Lara Naki Gutmann – 2024 Sonja Henie Trophy FS

※ジャッジディティールはこちら(pdf)
https://kunstlopresultater.no/2023-2024/SHT/SHT/FSKWSINGLES-----------FNL-000100--_JudgesDetailsperSkater.pdf

 ソニア・ヘニー杯の彼女の演技では、最初の3連続におけるファーストジャンプが2Lzになっていたり、後半の2A-2T で2A が回転不足を取られたりはしているものの、転倒などの大きな破綻はなく、プログラム全体において各エレメンツが淀みなく遂行されているように見える。そのためか、プログラムが描き出す“ストーリー”にも目立った破綻がないように感じられる。

 私がこの大会における彼女の演技を観ながら想像したのは、たとえばこんなストーリーだ。

『彼女はある衝動を持って殺人を犯す。何度も凶器を使うか、あるいは連続で何人もの人間を殺すかした後、注意深く隠ぺい工作をし、凶器も捨てる。しかしその過程で彼女の犯行は発覚し、追跡を逃れる過程で何らかの事故が起こり、最終的には彼女自身が死体になってしまう(しかしその邪悪な魂はそこに残されたのである)』

 もっとも、この“ストーリー”は転倒など演技の流れを中断するほどの目立ったミスがなかったからこそ成立するもので、比較的ミスが多い演技ではまた別のイメージが喚起される。

 2022年ロンバルディア杯の演技を観ると、着氷が乱れたり回転不足のジャンプ、流れを中断するような転倒などがあるほか、プログラムができてまだ間もないこともあってか、振り付けがまだなじんでいないところがあるため若干印象が変わり、ここから浮かび上がるストーリーは“涼しい顔で殺人を遂行する主人公”というよりは、何らかの葛藤を抱えている人物の物語に見える。あるいは映画『サイコ』ができるまでのヒッチコックの苦悩であるようにも。
 しかし、たとえミスが多い演技であってもそれがプログラムの世界観そのものを壊すまでにはいたっていない。単に別のストーリーが喚起されるというだけである。
 これは『めまい』のオープニング曲から『ヒッチコック』のエンディング曲へと非常に自然な形で繋ぎ、うまく『サイコ』の曲へといたるまでの溜めが作られるというような楽曲編集の上手さに加え、プログラム自体の構成の巧みさによるものではないかと思う。

 振付の面では、風の音の効果音に合わせた変形ハイドロブレーディングや、ジャンプ直後のポーズ、鳥の声のような効果音に合わせて“鳥のようなポーズ”をとるなど、各所に工夫がみられる。また最後のスピンでの難しい出方を側転にし、そこから特徴あるフィニッシュポーズにいたるまでの一連の流れがとにかく素晴らしい。あくまでガットマンが持つ長所であるところの体幹の強さを活かしつつ、ジャンプ以外の部分での見どころを感じられるよううまく設計されているのだ。コーチが振付に関わっているのは、彼女の持つ良さを最大限に活かすため、普段から彼女の特徴や状態をよく知っている人物が関わる必要があったからかもしれない。
 結果としてこのように素晴らしいプログラムが生まれたこと、そして狙った表現を実施できる彼女の能力を高く評価したい。

5)おわりに


 ララ・ナキ・ガットマンとパイパー・ギレス&ポール・ポワリエ組、それぞれのヒッチコックプログラムを観ながら好き勝手に語ってみた。両者に共通するのはどちらもほかにない新しい表現を生み出そうとしているところだろう(そして、これは単なる偶然ではあると思うが、どちらもヒッチコック以外に坂本龍一の曲を使ったプログラムを作っている)
 両者の今後の活躍、そして新たに生み出されるであろう表現――新たなプログラムに期待をふくらませつつ、この辺りで筆を置かせていただく。

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