結局、頑張ることを求めている

昨日、叔母を荼毘に付す際、立ち会うのが私だけなので、一連のことがどんどん進んだのです。収骨室で文字通り、熱さを感じてビックリしました。熱さを感じた瞬間、母を火事で亡くしたことが蘇っちゃうし、夫を見送る際に、私がやるしかないのだと封じ込めた感情の蓋が開いちゃう怖さも感じました。


私が子供の時、叔母は実家にいて、一緒に暮らしていた血のつながりがある人です。

先週金曜日に発見されてから、割り切れない感情と、割り切るべきことの狭間にいます。

適切な判断は何かを都度考えるために、感情をコントロールしている状態です。


ACP(人生会議)の普及啓発にも携わってきたので、今私が直面している状況に情けなさを感じています。一方で、「備えていなかったから狼狽える」みたいな捉え方になるのは怖いなとも思います

想定をはるかに超えた経験を繰り返して思うことは、準備できることだけが起きるわけじゃないから、「狼狽えた人を支える社会」の繋がりこそ大事だなということです。


子供の時に親が教えてくれた「変えられることと変えられないことを見極める」というニーバの祈りが、いろんな場面で選択の根拠になっていました。今回、身体と心がギーギーいっているのに、頭が「個人的なことで迷惑をかけてはいけない。見極めろ」と動くというドツボにはまっています。結局、常に頑張ることを自分に求めちゃって、心が迷子のままで進んできたのかも…。


全国胃がんキャラバン、多くの人にがん情報を届けるグリーンルーペアクションに挑戦しています。藁をもすがるからこそ、根拠のある情報が必要なのだと思い、頑張っています。