泣けなくなっている

【今はないものについて考えるときではない。
今あるもので、何ができるかを考えるときである】

2013年末に夫が余命と共にがんを告知されたことから始まり、年明けには実家を火事で、3月には生涯の仕事だと思っていた学校を去りました。

4ヶ月間で日常が大きく変わってしまった私は、最後に校舎を出た時の扉が閉まる渇いた音を聴き、もう人生が終わったのだと思いました。

でも、闘病している夫を支えるのは私。
その頃、心に繰り返したのが、このヘミングウェイの言葉です。

最近、doing と being を思います。
いろいろ失ってきたけれど、何より辛いのは、being。
そこに存在していたものを失うこと。

今でも、冷蔵庫の扉を開けた瞬間、運転している時、なんらかの香りなど、何がスイッチになるのか予想がつかない唐突さで、絶対的な喪失感に崩れてしまうことがあります。

コロナ禍、様々な制限があり、出来なくなったことはありますが、より浮き彫りになるのは『家族』

人は様々な関係性を持って生きていて、大切な仲間を失えば哀しい。
今まで、私もそんな悲嘆にくれてきましたが、家族の悲嘆は、この先もずっと続いていくことを知ってから、私は仲間との別れに泣けなくなり、気持ちを凍らせているような感覚でいます。

人には、社会的な顔と、家族にだけ見せられる顔があるのだと思っています。
弱さや不安をおくびにも出さなかった夫も、日常の中では自分の宿命を嘆き、何回か叫び、嗚咽することがありました。


自分から逃げることはできないから、突きつけられた現実の中で生き切るために、人は時に、自分の心にも鎧を纏うのだと思います。
強いんじゃなく、生きるためにです。

私は、ダメージを受けそうな時ほど、自分に何かを課したり、超ドライにギアチェンジすることで自分を保つことを覚えました。

3月末から、アクセル全開状態でした。
で、忘れていたのは、私がクラシックカーであるということ。

クラシックカーを運転するにあたって大事なのは、運転できる技術があるかないかではなく、今ある道を純粋に楽しむことなんだそうです。

以前、郷ひろみさんが、テレビで話していた言葉が強烈に心に残っています。
『歳をとってもまわることはできる。難しいのは、止まること』

止まれないなら、回転を楽しみ、自然に止まった時に、カッコよくジャケットをパパっと決めればいいんでしょうな。
キメのポーズの練習も始めなくちゃと思う月曜日の朝なのでした。

(たぶん、回り続けちゃうのが老害なんでしょうな…)
GO 🏎 hiromi


全国胃がんキャラバン、多くの人にがん情報を届けるグリーンルーペアクションに挑戦しています。藁をもすがるからこそ、根拠のある情報が必要なのだと思い、頑張っています。