オレンジの満月~人生会議ポスター騒動から一年経って~

朝んぽで、オレンジ色に光る満月を見ました。
11月30日は「いいみとり」の語呂合わせから『人生会議』を普及啓発する日となっています。

昨日は緩和医療啓発の「オレンジバルーン」にちなみ、日本緩和医療学会が、オレンジ色のものをみつけたら、#緩和ケア #人生会議  とつけて投稿することを呼び掛けていました。ちょうど、オレンジ色の満月だったんだなと思いながら、私は、自分の体験した看取り、そして、一年前の【ポスター騒動】と称された日々を思い出しました。

昨日、医療者からのさまざまな投稿を読みました。「いい最期」とは「死」を指すのではなく、「いい看取り」。話し合っておくことで、本人にとっても、周囲の人にとっても、よい日々に繋がるのではないかというもの。「いい」と感じる主語は誰なのかというもの。
どの投稿にも考えさせられたし、私は、概ね共感を感じながら読みました。
このような日をきっかけに考えることって大事だなと改めて思いました。

夫や義父との日々は、「いい看取り」だったのだと思います。
『あれ以上はなかった』と思うからです。

一方、実家の両親の場合は違います。
はからずも、ふたりとも突然に訪れた死であったため、話していたこととは違う判断をしなくてはならず、旅立ちの確認後、私のそばにいたのは警察でした。
いい看取りという言葉にはあてはまらない経験であったと思います。
私は、自分の経験が全てだとは思っていませんが、経験を通じて思うことは、『その時』医療者に側にいてほしかったということなのです。判断を自分が背負ったという事実は、今も大きく私の心を占めています。

私が経験した全ての看取りに共通していることは、最期の瞬間を確認し、医師に連絡をしたことです。ドラマや映画を通じて描いていたものとは違っていて、下顎呼吸を自分たちが確認するのだということを知りました。希望の会の中でも、同様の経験の声を聞きますので
私だけが特別な経験をしたわけではないのだろうと理解しています。

昨年、人生会議のポスターに意見書を出したことで、私は思いがけず渦中の人となってしまいました。
当時、厚生労働省がん対策推進協議会委員であったことと、看取る経験をする会員が少なくない希望の会の理事長として、あのポスターの表現だけでは人生会議の一遍しか伝わらない、○○していなかったからこうなったという表現は人生会議を誤解することに繋がらないかという危惧を意見書として提出しました。
しかし、その行為は、世間からは『厚生労働省のポスターを止めた人』『圧力をかけた』と受け止められることもありました。

今思い返しても、あの時に言わなければよかったとは思いません。正直、渦中の人と称されることで心身に受けた打撃はありました。
現在、私は人生会議の啓発事業に関する検討会に委員として参加させていただいております。そこでの議論は深いものに向かっていると感じています。

人生会議は大事なことだと思います。


話し合っていることが、最期を考える状況になった時に、より良い判断のために必ず力になります。昨年のポスターも、人生会議を知る上ではひとつの方法であると否定しているわけでもありません。『騒動』として終わらせてはいけない責任も感じています。

死が避けられない状況も、『生きている』日々です。

『生きる』を支えるものが医療であると思っています。

緩和医療は『生きる』を支える大事な医療です。

看取りは生きる日々の中のことです。人生会議は、『最期』を考え決定するのではなく、
いつか誰にでも死が訪れることから目を背けず、『生きる』を考える中で、最期も含めて話し合うことなのではないかなと考えています。

それぞれの人に、人生観があり、背景があります。
そして、身近な人、自分の最期を前に、冷静に判断することは難しいことです。
取り乱すこともあるでしょう。
医療がそれを支えてほしい。


何よりも願っているのは、全ての人が、自分の想いを伝え、話し合える医療者と出会ってほしいということです。


オレンジ色の満月に願いをこめて思います。

満月


全国胃がんキャラバン、多くの人にがん情報を届けるグリーンルーペアクションに挑戦しています。藁をもすがるからこそ、根拠のある情報が必要なのだと思い、頑張っています。