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僕が留年して絶望した話

どうも僕です。

17記事目です。

今日も山へ芝刈りへいくおじいさんのごとくせっせと書きます。芝刈りは毎日頑張っているのに、なぜ僕にとってのおばあさんはいないのでしょうか。不思議です。

さて、今回は自分で考えたテーマではなくて、今noteで募集されているテーマで記事を書こうと思います。

そのテーマとは『ゆかたさって何だろう』です。

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この投稿コンテストは6/17(水)まで募集されてて、実際に審査員の方(UUUMの鎌田さんもいらっしゃいます!)に審査も頂いて、場合によっては賞金ももらえるみたいです。僕は心がゆたかなので、しっかり賞金を狙いにいきます。※もうたぶん選ばれないと思います。

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早速本題に入りますが、まず『ゆたかさ』っていうと色んなモノに使える便利な言葉だと思っていて、豊かな自然とか、豊かな心とか、豊かな資源とか。

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色んな切り取り方はありますが、今回はわかりやすく『ゆたかさ』=『幸せ』と定義して文章書こうと思います。

僕の中では、このコロナで今まで体験したことない、まったくこれまでと異なる生活を余儀なくされる前から、この『幸せとは?』っていうところの考え方は変わっていません。

恐らく、その人にとっての『幸せ』って本当にバラバラだと思うし、当然、みんながみんな同じように「あー幸せー」って思うことはできないと思っています。それは、年齢も住んでるところも持ってるお金も全部違うし、さらには、考え方も知識も性格だってまったく違うから。それは、当たり前のことです。

多くの人にとってわかりやすい幸せは、「お金がある」「時間がある」「大好きな人と一緒に過ごす」「健康である」とか色々あると思います。

でもやっぱりコロナっていう得体の知れないものが急に日常に現れて、色んなものがすごいスピードで奪われて、先の見えない戦いが続いてる中では、お金があるから一生安泰とか、大企業に勤めてるから安心とかそういう常識が一切通じません。いつ自分が体調崩して病院のお世話になるかもわかりません。

そんないつ自分や自分の周りの大切な人に、ウィルスが牙をむくかもわからない状況では、"今自分のいる世界"、"生きている環境"を、どのように捉える(考える)のかが大切だと思います。

今たまたまこういったウィルスの影響を受けている時代にいますが、過去の戦争のあった時代とか、スマホがなかった時代とか、僕たち個人じゃどうしよもない環境や時代によって、幸せは制限されるものであってはいけないと思っています。

だから僕は、『幸せとは?』って聞かれたら、こう答えます。



『当たり前に感謝できること』



僕はこの考え方を友達から学びました。そこからずっと自分にとっての『幸せとは?』の答えは変わっていません。

今みんなが何かしらのしんどい思いをしている状況だと思いますが、コロナ禍で多くの人がもともと働いていたり、健康であった時の、その『当たり前』にすごくありがたみを感じていると思います。当たり前に健康で、オフィスで働いて、美味しいご飯が食べれて、みんなで飲みに行くみたいなことがこんなに幸せだったのかと感じていると思います。
※今も働いてくださってる皆様、本当にありがとうごさまいます。

今回、そのことを改めて感じさせられました。

僕は大学4年生のときに、今勤めている会社から内定をもらってて、卒業を待って、いよいよこれから社会人になろうというタイミングで留年をした経験があります(ここ細かく書き出すと止まらないので今回はやめておきます。)どれぐらいびっくりしたかだけわかりやすく書くと、大学から封筒が届いて、「やっと卒業式の通知きたかー。遅いわー(ヘラヘラ)」なんて言いながら、封筒開いたら、そこに"卒業不可"という赤い4文字が書かれてたってことです。

ドッキリでも何でもなくもはやホラーです。

僕はその時に人生で初めていわゆる"挫折"だとか"絶望"みたいなものを味わいました。「こんなんで絶望なんて甘い」って言われるかもしれませんが、そこまで人生の中で、大きな"挫折"を味わってこなかった自分にとっては、耐えられるものではなかっです。
今こうやってみなさんに見てもらえるようなnoteに留年したことをネタとして書けてるなんてその時の僕は1ミリも思えませんでした。「人生終わった」って思っていました。

はっきりとは覚えていませんが、その日から時間が経って、色んな友達に話聞いてもらったり励ましてもらったりしている中で、『幸せは当たり前に感謝できること』という言葉に出会った気がします。

ルフィがエースを失って絶望していた時に、ジンベイから「お前に残されているものは何だ!?」という問いかけにハッと、まだ残されている"大切な仲間がいること"に気づくというシーンがあります。そんな感じです。

その言葉をくれた友達は僕にとってのジンベイです。つまり魚人です。

その時までは、自分がいる環境が最低で、みんな敵に見えて、同い年の友達みて「くそー」って思っていました。でもその"最悪な環境"とか"境遇"を僕が勝手に"最悪と捉えてる"だけだと、ふと思いました。

周りいるもっと辛い思いしてる人のことなんてまったく見えていなかったし、週に2回単位を取り損ねた授業を受けてさえすれば、"僕を縛るものがないもない状況"だということにハッとしました。

そこから僕の中で何かが大きく変わりました。魚人の友達の言葉を胸に、自分の心のどっかにあった"やりたいこと"を片っ端からやりました。インド行ったり、中東行ったり、旅行やイベント作ったり、ゲストハウスやお寺で働かせてもらったり。

まさに、今の状況に近いかもしれません。今改めてその時の気持ちを思い出しています。

環境や周りのせいにするのは簡単ですが、『当たり前に感謝できる』と今置かれてる環境の中でもちょっとだけ前を向くことができるし、ほんの少しだけ上を向けるんじゃないかなと僕は思ってます。「 そんなん本当にしんどい時に思えるわけないだろ!」と言われるかもしれませんが、その時絶望してた僕は、逆にそう思わないと何も変わってなかったんじゃないかと思っています。

『当たり前に感謝する』っていうのは大それたことがじゃなくて、「今日も朝起きて、朝ごはんを食べられたこと」、「友達に当たり前におはようって連絡取れたこと」、「好きな音楽聞いて散歩できてること」何でもいいと思います。

僕に仮にお金があって、権力もあって、何でもできるという状況でも欲はどんどん出てくると思うし、本当の「あーー幸せ」にはならないんじゃないかなと思います。少なくとも僕は。

改めてになりますが、僕にとっての『ゆたかさ』=『幸せ』は、


『当たり前に感謝できること』


です。

「みなさんにとっての、『ゆたかさ』=『幸せ』はなんですか?」

今回はかなり長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださった方本当にありがとうございました。

今回は、募集されていたテーマで書いてみました。こうやって、与えられてるテーマについて書くのも楽しいなと思いました。ネタ尽きそうになったら、皆さんにもテーマ募集してみたいです!その時はよろしくお願いします!

それでは、また次回のnoteでお会いしましょう!ばいばい!

興井

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