「下手」から脱出する――『センスの哲学』

『センスの哲学』を読みました。制作者/鑑賞者の二分法を脱構築してくれる、とても楽しい本でした。

千葉氏の本は、ほかに『現代思想入門』『勉強の哲学』『ライティングの哲学』を読みましたが、いずれも生活に根差していて、読後すぐに実践したくなるような、そのような気持ちにさせられます。

下手であることが気になってしまう

私は、数カ月前にある新聞で、書評を掲載していただきました。

しかし、当然に、プロの書く書評と比べると、それは酷いものにしかなりませんでした。

結局、やっつけ仕事のように1日で書きあげ、一度も読み返さずに編集部に送信し、そのまま紙面に載ってしまいました(ダメ出しされることを期待してましたが、、)。

実際の紙面も送っていただきましたが、未だ向きあえていません。

文章本もたくさん読みましたが、結局、それらと同じようには書けず。

自分の文章の稚拙さが、コンプレックスになってしまって、それ以来文章をほとんど書かない生活になっています。

センスの哲学は、こうした悩みからは解放してくれる本でした。

モデルの再現から降りる

モデルの再現から降りることが、センスの目覚めである

『センスの哲学』の第一章では、センスが良くなる第一歩として、モデルの再現から降りることが説かれます。

あるモデルを設定して、それに対する「足りなさ」しかない状態は、単に下手である、下手でしかないということになります。

つまり私の書評は、単に下手でしかなかった。

絵を書くことを考えてみます。上手い絵とは、たいてい写真的に再現できるということになります。

キリンの絵を描いて、と言ったとき、どれだけキリンを再現できるかが問題になる。

でも、一方で、写真のように描くことだけが上手いとも考えられていない。ピカソとかゴッホとか、当然彼らも写実的な絵を描いた時期はあるにしても、写真的な上手さからはズレている。

このズレを、千葉雅也氏(著者)は、「ヘタウマ」と呼びます。

上手い/下手の区別を乗り越えて、ヘタウマへ向かうこと。これが、センスの第一歩であるとします。(そして成功した制作者もみなヘタウマであると)

私は、これまで様々な書評を読み、私も書評を書いてみたいと、そう思って新聞に投稿しました。

それはあるモデルを設定し、それの再現に努めた結果、「足りなさ」でしかなくなってしまいました。そしてそのまま数カ月経ってしまいました。

『センスの哲学』では、そこからの脱出路として、「ヘタウマ」というワードを導入して、再現から降りることを示してくれています。

では、どのように再現から降りればよいのでしょうか。

文化資本とAI

センスの良し悪しというのは、文化資本に左右されるといわれることがままあります。

文化資本が多い人というのは、今までたくさんの蓄積・インプットがある。それが差になっている。

大量のモデルをインストールしているからこそ、特定のモデルにはこだわらなくなる。したがって、再現志向から降りやすくなる。

また、再現志向から降りるためには、忘却・省略・誇張が必要になる。
大量のモデルのインプットがあっても、その内から特定のモデルを取り出してしまえば、即ち再現志向になって、「下手」でしかない状態になる。

大量の文化資本のインプットを活かすためには、具体的なモデルを取り出さないように、インプットを抽象化する必要がある。つまり、蓄積したデータをそのまま再現しないで、ある部分は忘れ、ある部分は誇張して、その特徴を強調するような操作が必要になる。

そして、これが生成AIの「出力」プロセスと同じであるということ。

これが『センスの哲学』第一章の大まかな内容になります。第二章以降では、この抽象化とは意味を抜き取ることであるとして、意味以前のリズム自体を楽しむ方向へ向かうことになります。

開き直りの肯定

未熟であることに居直っている、開き直っている結論に感じられると思います。実際、これは開き直りで、人生どこかで開き直るしかないというようなことが書かれていたと思います。そうしないと人生が終わってしまう。

そうした開き直りの肯定が、この本の(そして千葉氏の)良いところだと私は思います。

さいごに補足ではありますが、再現性の追求の重要性、リスペクトも本書では十分に語られます。ダブルで考えるということだと思います。

補遺

このnoteを書くとき、あまり『センスの哲学』を参照しないように努めました。そうすることで、私が『センスの哲学』の内容を思い出し、再構成してnoteに書くという過程で、この本の内容がどのように並べてあるのか、自覚的になれると考えたからです。

忘却・省略・誇張の結果としての『センスの哲学』を出力してみたかった。それが今回のnoteを書いたきっかけです。

ただし実際には、本書を読み返すことなしには、再生成することができませんでした。まだ、学習が済んでいないということだと思います。

読むためには書く必要がある。

そうした認識のもと、読めているか確認するために書いた、私の読書実践といえます。

自分で再構成することによってはじめて、本書の並びに自覚的になれたのかなと感じました。良い体験になりました。

公開する理由

あえてnoteで書いたのは、Notionのように自分一人しか見られないことが前提になっている空間では、雑多なものにしかならず、文章としての再現性が保てないからです。

そして、noteで書いてみた以上一応公開は致します。拙文を全世界に発信することにはいささかの躊躇もあります。おそらく、このnoteは実際に読んだ人でないとかなり理解しにくい文章になっていると思われます。

ただ、実験と思って公開してみます。

お読みいただきありがとうございました。








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