見出し画像

どうもこんにちは【後編】

秋田県大仙市に移住して5年目を迎えようとしているわたしの、わたし目線での豊かな田舎暮らしについて綴っていきます。

最初の記事は、社会人3年目までのことをまとめていました。

今回は、そのあとのこと。
大仙市へ越してくるまでの色々を残しておきたいと思います。

4・働けど働けど

全農を退会してから、すぐに秋田県へ戻ってきました。
農家さんと関わったり、農薬分析したりすることが嫌になった訳ではなくて、もっと自由にクリエイティブに、自分らしさを大切にしながらいろんなことをやってみたくなったのです。実家にいるとどこまでも両親に甘えてしまうので、岩手を離れることが大前提。加えて、少し土地勘のあるところがいいかなぁと考えていたので、秋田へ戻ることは必然だったのかもしれません。行き詰まったときは大学の先生たちへ相談に行けるし、友達も何人かいる。とても心強い存在でした。また、遠い将来就農することも思い描いていたので、大学の生涯学生制度を利用して学び直そうとも考えていました。

引っ越しが済んだら、学習塾でのアルバイトを再開しました。完全にフリーターになったわたしは、一日のスケジュールを自分で決めることができます。午後から夜は塾講師のアルバイト。しかし、働けど働けど、普通の生活を送るにはあまりにもお金が足りませんでした。そこで、午前中の時間を使って、お花屋さんで働かせてもらうことにしました。そんな日々が1年ほど続いた頃、能代市で新しい塾を作らないかとお話をいただき、同じく学習塾で働いていた彼氏(今の主人)と一緒に能代へ引っ越します。

5・傘の要らない街で

能代では5年ほど、朝から深夜まで仕事をしました。本当に朝から深夜まで、です。朝6時には教室を開け、生徒たちが登校前に勉強できる環境を整えました。夜は夜で、日付が変わる頃まで自習をしている生徒たちを見守りました。なかなかにハードな毎日でしたが、子どもたちが楽しく熱心に学べるよう様々なイベントを企画したり、普段とは違った授業形態を取り入れたりと、考えながら行動することの面白さに気づき始めたときでもあります。ただ、あまりに未熟だったわたしは、忙しさや思い通りに進められない憤りにかまけて、一緒に働いている仲間を大切にできないこともありました。数えきれないくらい、たくさんの失敗もしました。
そんなときに、がんが発覚。初期の子宮体がんでした。治療をして1年半ほど経った頃に再発がわかり、そのとき新たに卵巣がんも見つかりました。病気のことは、改めて記事にしようと思います。

いつも風が強く、雨も雪も横に流れていくこの街。傘をさした途端、その傘は壊れてしまいます。働き方、自分の体調、いろんな悩みに挫けそうになりながらも、周りの方々の応援に励まされて、こんなことを思うようになります。

大好きだと思える場所で、好きなことをしよう。
自分自身の心も体も健やかでないと、誰のことも幸せにできない。

退院直後、教えることの楽しさを噛み締める

6・豊かさとは

初めてそこに足を運んだのは、大曲の花火の日でした。
大仙市神宮寺で生まれ育った主人に「毎年これを見ないと夏は終われない」と連れられたのです。これまで見たことのない大迫力の花火に魅了され、これは確かにみんな見に行くよね、と頷いたことを覚えています。このときは、まさか大仙市に移住するなんて思いもしなかった。同じ秋田県だけれど遠い場所、という感じでしたから。

主人とわたしはドライブが好きで、度々大仙市を訪れるようになります。ずうっと向こうまで広がる田んぼや、どこを見ても雄大な山々がある風景に心を奪われ始めました。お店に入っては、お話好きな店員さんがわたしたちを迎えてくれます。刈和野の大綱引きなんて、地元の人たちのあったかさを身体いっぱいに感じることができます。「豊かである」というのはこういうことなんだと、思うようになりました。
ここに移住する以外の選択肢は、もはやありませんでした。

初回の記事にもあったように、頑固&マイペース&猪突猛進&せっかち、加えて「兎に角やってみよう」タイプのわたしは、主人に大仙市への移住を提案し、半ば強引に首を縦に振らせ、移住と起業に向けての準備を始めます。後先考えず「なんとかなるでしょ」で動いてしまう自分に、時々鳥肌が立ちます。

こうして、2019年の春、私たちは大仙市へ引っ越しました。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?