見出し画像

自分の正解は自分の中にある

生き方、育て方、いろんな本や情報があるけれど、最終的に残る一つの真実は
「正解はない」
ということ。

つまり、正解は自分で決められるのだ。

他人が信じている「正解」を変えることはできない。
それがどんな身近な人でも。身内でも。我が子でも。

我が子の「正解」は自分が変えられると錯覚していた。
小さい頃はある程度、私が思う「正解」に誘導できたから。
習い事はこれをしてほしい、ゲームは1時間半にして欲しい、などなど。
子どもの希望を聞く前に、自分の希望を伝えて、了承させる。
自分の正解が子どもにとっても正解だと信じて。
子どもの幸せのためにそれこそが正解だと信じて。

でも、息子にとっての正解は違ったのだ。
物心ついて息子はそれに気づき、私の正解を拒否した。
当然だ。ちゃんと成長してる。

息子を変えることはもうできない。
操ろうとか誘導しようとかすることはもういい加減やめなくては。

息子は息子の人生を、息子にとっての正解を歩み始めたのだから腹を括って見守らなくては。

学校に行った方がいい、といまだに思う。
行って欲しいと心から思う。やっぱりそれは捨てられなかった。
でも、それは私の希望だ。それは「私が思う」ことだから自由だ。
中学生は中学校に行くべき、と言うのは私の正解。
今時は行かないのもアリというのは、風潮や理屈、情報上では、わかる。でも、それは私の正解ではない。世の中の流れなだけ。

私は学校に行って欲しいと思う。
息子は学校に行きたくないと言う。

どうにもできないから、身悶えする。
到底受け入れられないけど、変えられない。苦しい。とても苦しい。

寝ても覚めても、心のどこかに「中学校に通えてない息子」と言うしこりを感じて生活している。自分にはどうにもできない、病と同じだ。かといって、それは息子のせいでもない。息子は自分の正解を生きているだけなのだから。それを私の思うようにしたいという思いを断ち切れない私自身が作ったしこり。

しこりがあるとそのことばかり考えてしまう。ただ、ふと感じる時がある。しこりはあるが、不幸ではない。だって、生きてここにいる。
私とは違う正解をもつ、自我を持った生き物として同じ屋根の下にいる。

何年か経って振り返って「あの頃は悩んでたなー」って思える日が早く来ないかなと思う。でもその時笑って振り返るためには、今「自分」ができることをしっかりしなくてはと思う。息子を変えようとすることではなく、見放すことでもなく、見守りながら。

不登校=子育て失敗、と思われていると感じる。
「息子が学校行ってないんだよね」と言った時の微妙な反応から。このお母さんちょっと何かあるのかな、みたいな想像を巡らせてるんだろう時間がふっと流れる。そう感じるのは、自分が今までそう思っていたから。不登校のお母さんと話す時にはちょっとした緊張感があった。今はそう思われる側だ。

でも、それも「自分がそうだったから」という理屈に基づいている。
「自分がそうだったから、人もきっとそうだ」と。

何を思うかは人それぞれで、他人が想像できるようなことではない。
「きっとこう思うはず」なんて考えるのは傲慢だ。時間の無駄でもある。

どうにもできないことを、どうこうしようとすることや
言われてもいないこと、起こってもいないことを想像して傷つこと。
他の子と比べて、できてないことばかり数えること。
時間の無駄。やめよう、やめよう。

人生の時間は限られているのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?