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レイコちゃんと呼ばれた日のこと


こんばんは。
「レイコちゃん」は、私の本名でもあだ名でもありません。
本名に掠ってもいません。

けど、「レイコちゃん」は、認知症の祖父に呼ばれた、確かに彼がその時見ていた私のことです。
(あとから母に聞いたところ、どうも私の知らない遠い親戚の誰かの名前らしい)


昨日、また祖父に会っていまして。
繰り返される同じ話(昨日はモーツァルトとブラームスの話、祖父の息子…私の伯父の子供の頃の話、が何度も何度も何度も繰り返された)や、
この前一緒にでかけた日のこと、そしてその記憶に付け足されて、まるで事実かのように語られる彼の妄想…などを、
「うんうん」「そうだね」「それはよかったねえ」「へえ〜!それで?」
などのワードを飽きるほど繰り返しながら、とにかく聞いていました。
事実じゃないことを言っていても、否定や訂正をしないで聞いてあげるのがいいって、なにかで読んだので…。

現実と妄想と過去と現在が行ったり来たりしながら延々繰り広げられる祖父のトークに、祖母は私の隣で小さくため息をついていました。
私は、私が妄想や記憶違いも一切否定をせずに「うんうん」と祖父の話を聞き続けることが、祖父のことも、その間だけは話し相手から解放される祖母のことも、救っていると、救えているのだと、勝手に思っていました。

そうして数時間過ごすうちに、突然
「ねえ、レイコちゃん」
と呼ばれて、一瞬時が止まったように、背筋がひやっとしました。

あ。これ。知ってる。
介護してる娘のことを妻の名前で呼んだり、
孫のことを娘の名前で呼んだりする、ああいうやつだよね。

頭ではわかっていても、ショックでした。

そして、少しでも救っているような気になっていた私に、
「べつに、お前に救われてなんかないよ」
と言われたような気がしました。
だって、私のこと、私として認識してすらいないんだもの。

悪意があってのことではない。脳の起こしたエラーだから仕方ない。
それにさっきまでは、ちゃんと私の名前を呼んでいたじゃない。
そう思おうとしても、自分勝手な私は悲しさが先にきてしまう。

「レイコちゃんじゃないじゃない。」
と言った祖母の悲しそうな顔。母の驚いた顔。

うまく受け止められなくて、昨日はなかなか眠れませんでした。


きっとこれから、こういうことがもっと増えていく。
毎日一緒にいるわけじゃない。けど、毎日一緒にいるわけじゃないからこそ、
「会ったらなるべく力になってあげなきゃ」なんて勇んでいた。
そんな私の薄っぺらさを見透かされたような気分です。



祖父は昨日、この前一緒に出かけた時に私が撮った写真を渡すと
「楽しみにしてたんだ、ありがとう!」
と受け取ってくれ、何度も何度もページをめくっては、小さなアルバムにまとめたその20枚ほどの写真を「嬉しいなあ」「猫ちゃんかわいい」「よく撮れてる!」「いいお店だったねえ」と眺めていました。

帰り際に、「鎌倉のこの前のお店、また一緒に行きましょうね。」と言われて
「そうだね」とやや力なく返した私に、すぐさま「いつ行く!?」とこどものように無邪気に聞いてきた祖父。

私、うまく笑えたかなあ。





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