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ヨタカとヴェラベッカ

これは19世紀初頭に書かれたドロテア・クラッターバックの手記「魔女と怪鳥」の中から小題「悪魔崇拝者」を翻訳したものです。


「ねえ、おばあちゃん。神様はいるんだよね?」
「ええ、もちろんよ。神様も天使様も、いつでも私たちを見守ってくださってるわ」
「だったら、魔王もいるの? 今日の歌劇の授業で習ったの。魔王は嵐の夜に馬に乗って現れて、坊やを攫っていくって」
孫娘が膝の上に乗りかかりながら、私の顔を見上げてくる。暖炉で温まった部屋、広々とした庭、穏やかな息子に出来た嫁、かわいい孫娘、働き者の使用人、毛の長いスパニエルが2匹。あの頃には考えられもしなかった幸福な景色。
私は孫娘の頭を撫でながら、ちょっとだけ嘘をついた。もちろん好きでついたわけじゃないの、でもつかなければいけなかったのよ。
「魔王はいないわ、もちろん悪魔もよ。大昔に神様が勝利して、ひとり残らず地上からいなくなったの。クラッターバック家の家名に誓って、嘘偽りないことを誓うわ。だから安心して眠りなさい」
「はーい」
孫娘を部屋に戻らせて、テーブルの上のヴェラベッカを齧る。
今では遠く離れた、海の向こうの小さな村のお菓子は、懐かしい子供の頃と同じ味がして、私に否が応でもあの頃のことを思い出させる。


そう、これはずっと昔の話。聖夜に食べたヴェラベッカの話でもあるし、口に出すのもおぞましい魔王の話でもあるわ。




私がまだ幼い頃、敬虔な神の信徒だった両親が魔女狩りに遭って吊るされて死んだ。両親は心から神を信じていたし、私も同じように信じていた。毎朝神に祈りを捧げて、食事の前は必ず感謝の言葉を口にした。父は平凡な靴職人で、母は近所のご婦人方と談笑しながら刺繍をするような人だった。
けれど、斜向かいの家のマリーさんから謂れのない密告を受けて、悪魔の儀式を行ったことにされて死んだ。

あの時代にはよくあったこと。魔女の嫌疑をかけられたものは酷い拷問を受けて、指の爪がぜんぶ無くなる頃には誰でもいいから知り合いの名前を挙げて、適当な嘘をでっちあげて、首に縄を巻いて安らかに天に召される。生きたまま焼かれることを思えば、誰だってそっちを選ぶ。
あの時代には本当によくあったこと。

と、今なら言えるけど、あの日の、まだ幼い私には頭が割れるような恐怖と絶望だった。
なにもかも失った私は走って逃げた。とにかくどこでもいいから走ったさね。誰でもいいから助けて、心の中でそう叫びながらね。
だけど、言葉にこそ出来なかったけれど、あの時の私は神なんてこの世にはいないと理解してしまったし、もしいるのならなんで私たちを助けてくれなかったのって呪ったわ。

神は残酷よ。
神は人間を助けてはくれない。人間が勝手に祈って助けてもらえる気になってるだけで、神は人間を助けたりしない。
だってそうでしょう、もし誰か、名前も顔も知らない誰かが自分の与り知らぬところで祈っていたとして、その人を助けたいって思わないでしょう。
気持ち悪い、おそらくそんな風に思うでしょう。
神もそう。なぜか祈りを捧げてくる地上の気持ち悪い生き物。そんな程度にしか思っていなかったの。

私はひたすら山の中を逃げ回って、何日も何日も歩き続けて、偶然ある人に拾われた。
その人は旅人も滅多に立ち寄らない小さな村の、さらにその奥地にある山の中に建てられた修道院で働いていて、みんなからはマザーと呼ばれていたわ。
痩せこけて年老いた女で、足は鶏みたいに細くて、時折ふもとの町まで降りてきて、私のような孤児となった子どもを拾って育てる。そんなことをしていたの。

孤児は私も含めて50人ほどいて、まだ赤ん坊くらい小さい子から、背の高いお姉さんまで。16歳になったら少しばかりのお金を握って、優秀な子はそのまま修道女となり、或いは誰かの花嫁になるか、町で人手の足りない仕事を与えられて暮らす。そう教えられたの。
実際はどうだったか、今となってはわからないけどね。
私は16歳になる前に修道院を出ることになったし、何年ぶりかに訪れた修道院はすっかり朽ち果てていたから。

そう、朽ち果てていたの。
少し古いけど綺麗に掃除の行き届いた壁も廊下もボロボロにひび割れて、みんなで育てた畑も家畜小屋も地面を掘り起こしたように荒らされて。それだけじゃない、修道院の周りの森は、毒にでも侵されたかのように枯れ果てて、そこには虫一匹すら残っていなかったわ。

私はすぐに気づいた。ああ、魔王がなにもかも持って行ったんだって。


魔王の話をする前に、修道院の説明をしておかないといけない。
私を拾った修道院は、町の教会とは少し違った考えをしていた。町の教会は、両親や他のみんながそうであったように神を信じて、毎朝祈りを捧げて、日々感謝して生きることを説いた。
あの修道院はそうではなかった。
神や天使は人間の罪を許してくれるけど、この世界には許されざる悪が多すぎる。私だって神が許しても、両親を殺した魔女狩りの連中を許すことなんて出来ない。修道院に集められた子たちは、そんな子が多かった。神の慈悲では救われない子ばかりだった。
神の代わりに人間を罰してくれる者が必要だった。

悪魔崇拝。
なにもしてくれない神に代わって悪魔が人間に罰を与える独自で異端の教義。度の過ぎた罪を犯した者は神に許されてはいけない、という至極真っ当な感情の下で生まれた新しい信仰。
私たちはみんな、いずれ悪魔が人間に罰を与えてくれるし、悪魔を統括する魔王が降臨するって心から信じていた。
そうでもしないと生きていけなかった。それくらい私たちの負った心の傷は大きかった。

私たちは6歳になると悪魔と結びつくために体に、聖痕の反対だから魔痕とでも呼べばいいかしら、魔痕を刻んだ。6歳より上で拾われた子たちは、3ヶ月後の満月の夜に刻んだわ。
私は10歳で拾われて右肩の後ろのあたりに刻んで、左肩の後ろに9歳で与えられる魔痕を刻んだ。

「これであなたも、いつか悪魔と契約できるはずよ。より一層の精進を以って神様に感謝して、魔王様に罰を願うのよ。痛かったでしょう。でも泣かなかったからえらいわ、ドロテア、あなたにはきっと素質があるわ」
マザーは痛みに耐えた私の頭を撫でて、優しく褒めて、普段は食卓に並ばないような甘いお菓子をこっそりと食べさせてくれた。
私はようやくみんなに並べたような気がしたし、修道院のみんなと家族になれたと思った。

それから私は悪魔を呼び出すための修行をするようになって、色んな本を読んでは儀式を試して、ネズミに鳥に豚に、色んな生き物を生贄に捧げた。
そうして13歳の誕生日、私は姿こそ10歳の子どもくらいに小さいけれど角の生えた小鬼と契約を結んだ。
小鬼は大したことは出来なかったけど、しがみついた相手の足を止めることが出来て、脆弱で小さな悪戯のような力が、13歳の私にはちょっとした自慢だった。
「すごいわ、ドロテア。悪魔は気まぐれで気難しいから、なかなか契約まで持っていける子はいないのよ。これからも精進して、魔王様を呼び出せるように努力しましょうね」
そう言いながらマザーは自身の使い魔である目が3つある獅子を呼び出して、こっそりと実は自分も魔王を呼び出せたことはないって耳打ちしてくれた。

私は13歳にして将来有望な、マザーや大人の修道士たちから期待される存在となり、特別に個室を用意してもらって、このまま修行を積んでいずれは魔王を呼び出すのだと信じていた。
そう、本当にそう信じていたの。

あの子が来るまでは……。


あの子がいつから居て、どこから来たのかはよく思い出せない。
年は私より1つか2つ下で、珍しい深くて暗い緑色の髪をしていたけど、いつも誰かの陰に隠れていて、不思議と目立たない子だった。いつの間にかみんなの中にいて、みんなと同じように畑で野菜を育てて、みんなと同じように家畜の世話をして、夕方には並んで聖歌を唱っていた。
気がつけば同室になっていて、その時は部屋が狭くなるなあって思ったのと、でも夜の話し相手が出来て楽しくなるなあって思ったことは覚えているわ。

「ネメシス、私のほうがお姉さんなんだから、あなたは下のベッドね。それに私は悪魔とも契約してるんだから、私の言うことに逆らわないこと。いいわね?」
「いいけど、悪魔なら私も契約してるよ」
「嘘よ! マザーが言ってたもの。悪魔は気まぐれで気難しいから、なかなか契約まで持っていけないって」
「……じゃあ、見る?」
ネメシスはめんどくさそうに、このめんどくさそうにっていうのは実際にめんどくさかったのか、それともそんなことなかったのかわからないけど、ネメシスはなに考えてるかさっぱりわからない子だったから、とにかくめんどくさそうに窓の外を見て、一言ぼそりと呟いたの。

「おいで」

すると窓辺に、フクロウみたいな、でも目がぎょろっとしてて、左右別の方向を見てるみたいで、口も大きく開いた気味の悪い鳥が飛んできたの。一目で悪魔だって思ったわ。それくらい不気味で怖くて、夢に出てきそうな顔してたから。
「ごめん、お前じゃなくて」
ネメシスは鳥の悪魔になにか言ってたけど、その時の私は言い訳だと勘違いしたの。悪魔にしては小さいし、私の小鬼の方がずっと役に立ちそうだったから。
それに窓の外も見たけど、真っ暗でなんにもいなかった。だからネメシスの契約してる悪魔はこの変な鳥で、私より格下だと思っても仕方ないでしょう。

「ほら、私の悪魔のほうが強そうでしょ。そういうわけで、あなたが下のベッドで決まりだから」
「ねえ、外見て」
「外にはなんにもいないでしょ、真っ暗じゃない」
私はそう言って上のベッドにのぼって、そのままネメシスを放っておいて眠ったわ。
次の日に腰が抜けるくらいびっくりするなんて考えもせずに。

翌朝、窓の外に両手を広げたよりもずっと大きい足跡みたいな浅い穴がいくつもあったの。それがネメシスの契約した悪魔で、あの鳥は森で見つけたただのペットだって知ったのは何日も後のことよ。
館よりもはるかに大きく巨大な、蜘蛛みたいな長い足がいっぱいあって、胴体に30以上の目がある気持ち悪い化け物。
それがネメシスの契約した悪魔で、夜中に旅人や家畜を襲って食べるって教えてもらった。

「ねえ、あんた。どうやってこんなのと契約したの?」
「え? なんか普通に」
ネメシスは朝から神に祈りを捧げて、おなかが空いてるのかパンをもぐもぐと口いっぱいに頬張っていて、スープで流しこんでぼそっと答えた。
なんか普通に。普通ってなによ、普通はこんなでっかくて強そうな悪魔と契約なんて出来ないのよ。
私は理不尽だって思ったわ。子供じみてるでしょう。でも実際子供だったから、自分の努力して手に入れた悪魔よりもずっと強そうな化け物を持っているネメシスを狡いって思ったの。

「欲しければドロテアにあげるけど」
だからネメシスの提案を許せなかったの。私は拳を握って殴りかかって、ネメシスの顔を叩いたわ。その時よ、私は両足の膝から下を持っていかれたの。

言ってなかったわね、私の足、膝から下がないから木で支えてるの。若い頃はまだ歩けたけど、こんな年になったら杖無しでは一歩も歩けないから、ほとんどの時間を椅子に腰かけて過ごしているわ。
おかげで孫娘からはお婆さんは椅子の上で暮らしていると思われているし、ネメシスのことを忘れたくても忘れられなくなったわ。だって足を食い千切られたのよ。
がぶって、お皿の上のパンでも食べるみたいに。

ネメシスが契約している悪魔はそいつだけじゃなかったの。影に棲みついてる悪魔に空からじっと見張ってる悪魔、部屋の隅で姿を隠している悪魔、ネメシスのスカートの中に隠れているなんでも食べる悪魔。他にもいくつかの悪魔と契約してるって教えてくれたわ。
その中には私の足の代わりをしてくれる悪魔もいた。ネメシスが仲直りの証にって私に貸してくれたの。
「よかったね、歩けるようになって」
ネメシスはそう言って微笑んだわ。あの顔、今でも夢に出てくるのよ。
知ってる? 足が無くなるって、両親が吊るされるよりもずっと辛いの。もっとずっと怖いの。
怖くて悔しくて痛くて辛くて、きっと死ぬまで夢に見るの。毎朝子供みたいな悲鳴をあげながら起きるのよ。


「ドロテア、イザベル、ミリアム、モリー、そろそろ魔王の降臨を試してみましょうね」
不幸な事故があっても私は修行をし続けた。畑仕事を免除されたから、むしろ修行の時間が増えて、1年も経った頃には修道院の孤児の中でも五本の指に数えられる悪魔使いになったわ。
相応の努力をしたわ。修道院中の本を読み漁って、高度な魔術儀式も試して、背中の魔痕も次々に増やして、淫行が悪魔との対話を高めると聞いて修道士に身を捧げたりもした。
マザーからも次の段階に進むよう促されて、私は決して高いわけではないけど低くもない、中二階みたいな場所で競うことに夢中になった。

「ねえ、みんなはもし魔王を呼び出せたら、どんな魔王と契約したい?」
「私は力の魔王よ。全身の骨を折ってもらって、最後に首の骨をゆっくりと折ってやるの」
「私は飢餓の魔王ね。長い時間かけてなぶり殺しにしてやるわよ。ドロテアは?」
「私は大火事を起こす魔王がいいわ。お父さんとお母さんを殺したやつらを、町ごと焼き殺してもらうの」
私たちは誰が書いたかもわからない辞典を開きながら、毎晩のように魔王に託した夢と復讐を語り合って、自分の人生を壊した連中の惨たらしい死を願った。
悪魔がいるんですもの。魔王とだって契約できるって信じてたわ。
その時間は魂が繋がってるような結びつきを感じられたし、向上心みたいなものが満たされたの。私たちは同じような目的意識を持った同士であり、同じ屋根の下で暮らす家族であり、悪魔的な意味でも4人が互いに深い関係にある姉妹でもあったわ。
励まし合って慰め合って、そうやって高め合ったのよ。

「そういうわけで、魔王との契約を試せるようになったの」
「ふーん、すごいね」
ネメシスは相変わらずなに考えてるかわからなかったけど、なんとなく悪意がないことは理解できるようになったわ。悪意がないと言うより、悪意を抱くほど私たちに関心がない、っていうのが正解だと思う。私は未だに、この年になって老婆になっても、未だにあの子のことはわからない。なにを考えていたのか、なにを思っていたのか、私たちのことを少しくらいは好きだったのか、今になっても少しもわからない。
思い返してみれば、あの子のことをなんにも知らなかった。
たまたまなのか意図があったのか私と同室で、いつもぼーっとしてて、なに考えてるかわからなくて、少し近寄りがたくて、時折心が冷たくなってしまうくらい恐ろしくて、そしてやっぱり理解できない普通じゃない女の子。

「ねえ、あんたはもし魔王と契約するなら、どんな魔王がいい?」
「うーん」
ネメシスは珍しく考え込んで、そのまま両手を組んで考え続けて、その日は夕食にも顔を出さずにベッドに寝転がって考え続けて、次の日も神への祈りを忘れるくらい考え続けたの。
そんなに考えても何も出ないわよ、って言いたかったけど、止めても聴くような子じゃなかったし興味もあったの。
この化け物みたいな女が、考えて考えてその結果、どんな答えを出すのかって。

「うーん」
ネメシスは考え続けながらグラスに水を注ぎながら、ふと水差しに視線を落とし、目線を何度も上下させて、なにか閃いたのかそのまま部屋を出ていって、本を大量に抱えて戻ってきて、食事も眠るのも忘れたように夜まで本を読み漁って、時折あちこち見回しながらまた考え込んでいたの。
「あんたねえ、そろそろ寝なさいよ」
「いや、もうちょっとで、なんか。先に寝てていいよ」
「言われなくても寝るわよ」
その日は私はさっさと眠ることにして、ネメシスは上のベッドで、なにやらごそごそ動いていたわ。きっと紙になにか書いていたのよ。

「……で……箱に……から持って……」
「……出来なく……想像……だったら……」

深い眠りの中で、なにかが喋っているのを聴いたような気がしたけど、あれはおそらく魔王の声だったんだわ。
魔王って意外とかわいい声してたのよ。どう言えばいいかしら、声変わりした直後の男の子みたいな声なの。恐ろしくて人間に罰を与えるのに、無邪気でちょっと濁ったけど半分透き通った声をしているの。


その翌日からよ、修道院全体がおかしくなってきたのは。
建物が崩れたとか、みんなの人が変わったとか、そういうことじゃなくて、上手く説明できないけどとにかくおかしくなったの。常に悪戯をされてるみたいだったの。
例えばテーブルに並んだお皿から料理が消えたり、食べ終わったはずの鍋の中に全く別の料理が入っていたり、来たばかりの子どもが割った花瓶と同じものが急に何個も現れたり、物置のドアの鍵だけ妙に古く錆びていたり、夜中に全く同じ顔の子と出会ったり、何日も前に死んだはずの番犬が元気に走り回ってたり、見たことも無いような妙な機械が転がっていたり。

「どうなってるの、これ……」
ある日、目を覚ました私の前に奇妙な光景が広がっていたの。
窓があるはずの場所に鏡で映したようにそっくりな、私たちの部屋が続いていて、おそるおそる扉を開いたら、誰もいない以外はなにひとつ変わらない修道院があったのよ。
まるでどこか別の場所から運んできたみたいに。
「ドロテア……ネメシスはどこ?」
いつの間にかマザーが後ろに立っていて、ベッドの上からいなくなっていたネメシスがどこにいるか尋ねたわ。
わかるわけないじゃない、あの子のことなにもわかってないのに。

「ネメシス! あなた何をしたの!?」
マザーがなんでそんなに慌ててるのかすぐにはわからなかったけど、部屋から出て一瞬で理解した。
部屋の外にあるはずの廊下がなくて、修道院全体がバラバラに千切られて空中に浮いていたの。頭がおかしくなったと思ったわ。悪魔と契約した影響で、幻覚でも見てるんじゃないかって。
だって有り得ないでしょう。修道院だけじゃなく、空の端から端まで、修道士から孤児から、ふもとの村人から、ありとあらゆる人間が、絞首台から伸びた縄を首に掛けられて吊られているだなんて。

「ドロテア、前にどんな魔王と契約したいって聞いたよね」
宙に浮いた修道院の真下で、右腕でフォークとナイフを抱えたでっぷりと太った熊の肩の上に座ったネメシスが、肩にいつだったか窓辺に止まっていた変な鳥を乗せて、パンをもぐもぐ食べながら微笑んでたの。
「色々考えて、色々検証してみて、ようやく今朝思った通りの答えが出たんだ」
「……熊と絞首台ってこと?」
「違うよ、朽ち縄様と大食い様は試しに借りてきただけ」
絞首台と熊は朽ち縄様と大食い様という名前らしいわ。ふざけた名前でしょう、まるで子供がつけたみたいな名前。普通は、例えばハデスとかサタンとかそんな魔王っぽい名前だと思うじゃない。

そんなことより問題は、あの子が借りたって言ったことよ。

「借りたって、誰から……?」
「私から」
ネメシスが鳥に千切ったパンを与えながら答えた。不気味な鳥だけど、パンを食べると意外と愛嬌があったから驚いた。
鳥の話は今はいいの。ネメシスは自分から借りたって答えたのだけど、私にはさっぱり理解できなかったわ。説明を受けた今の私でもよくわからないもの。
「ちょっと待って、説明するから」
ネメシスは頭の上でパンと両手を合わせて、空からボトリボトリと雨粒みたいにみんなの死体と瓦礫が落ちてきて、今度は胸の前でパンと手を合わせると、死んだはずのみんなが空から現れて、悲鳴を上げながら地面に叩きつけられて、また死んだの。
いよいよ頭がおかしくなると思ったわ。マザーは腰を抜かして狂ったように笑い出して、そのまま地面を虫みたいにのたうち回って、かと思ったら大声で泣き出した。

狂ったマザーは、その直後に熊に食べられたんだけど。

「ヴバァァァァァァ!」
「よかったね、大食い様。それで、ドロテア、うるさいのもいなくなったから説明してもいい?」
ネメシスは微笑んだの、私の足の代わりを用意した時みたいな、なんの悪意もない顔で。


あの時ネメシスが言った言葉は、一言一句しっかり覚えてるわ。
私はあの子に比べたら全然平凡で普通だったけど、それでも結構優秀だったのね。マザーが褒めてくれたのもお世辞じゃなかったのよ。
「まあ、座ろうよ。簡単に説明するのも難しいから、ちょっと長くなるし。ドロテアは足が悪いでしょ」
そう言うと私の尻の下に椅子が現れて、目の前にはテーブルとお皿の上に乗ったヴェラベッカが現れたわ。混乱しててすっかり抜けてたけど、あの日は聖夜だったのよ。神の代弁者って言われて磔になって死んだ人の誕生日だったの。世界で一番有名な誕生日ね。
その日は家族みんなでヴェラベッカを食べるのが、修道院でも私の故郷でも風習だったし、一年で一番楽しみな日だったわ。
この時ばかりは味なんて全然わからなかったけども。

「まず紹介するね。こちらはミミクリ様、私の魔王です」
ネメシスが右腕を横腹に寄せるように折り畳んで、掌を肩のあたりで上に向けると、ベッドくらいある木箱みたいなものを被った人間っぽい巨大な生き物がのったりと歩いてきて、木箱を開いて巨大な舌を出しながら上下に振ったの。
「ミミクリ様は宝箱の魔王で、宝箱になんでも持ってこれるの。遠く離れた場所にある物でも、人でも、食べ物でも。私が欲しいと思って、実際にそこにあるものはなんでも」
ネメシスが右腕を掲げると、ミミクリ様と呼ばれた木箱の化け物が地面に寝そべるようにうつ伏せになって、犬みたいに頭というか木箱を撫でられて、わんって鳴いたのよ。
魔王ってわんって鳴くのよ、ちょっと腹が立ったわ。

「でね、前に水をグラスに注いでて思ったの。グラスが私として、水差しが魔王だとしたら、この水差しに当たるものが色んな種類あったら便利でしょ。便利でしょっていうか、多分だけど1種類だと人間って滅ぼしきれないの。みんなは力の魔王とか飢餓の魔王とか炎の魔王とか色々言ってたけど、力があっても手の届かないところはどうしようもないし、飢餓が起きても溜め込んだ食糧はどうにも出来ない、炎に至っては川を挟んだらおしまいだし。それに魔王がいるなら神様たちもいるに違いないから、神様もどうにかしないといけない」
ネメシスが雑な身振り手振りであれこれ説明してくれたけど、言葉は耳に届いてるけど私の中にまで届いてくれない、そんな感じだったわ。
だって色んな種類の魔王があったら、とか意味わからないでしょう。今でもわからないわよ。なに言ってるのって、鼻で笑うわよ。

「で、ミミクリ様と正式に契約する前に色々試したの。なんでも持ってこれるっていうのは、例えば過去とか未来からも持ってこれるのかなって。パンを食べた後に食べる前の時間にあったパンを持ってこれるのかとか、物置のドアノブを何十年も先から持ってこれるのかとか。それが出来たら、次は生き物は持ってこれるのかとか、死んじゃった犬とかこの先生まれてくる赤ちゃんとか」
いくつかは覚えがあったわ。修道院で起きた不思議な出来事に思い当たるものがあったの。

「で、それは出来たんだけど、ここからが本番。例えばそうだね、人生で1回だけ登山に行くとして、東の山と西の山があって、どっちかの頂上に旗でもなんでもいいから刺すとするよね。未来の私がもし東の山に行ったら、西の山の頂上には旗がない。だけどもしも、西の山に行った方の未来、こっちからも旗が持ってこれたら旗は2本になる。あっちに行ってみよう、こっちにしよう、あの時こうしていれば、この時こうだったら、世界は未来も過去も今この瞬間も、無限に枝分かれしていて、そのひとつひとつが世界として存在してたら、パンもナイフもお金も武器も、なんだって好きなだけ持ち込み放題だ」
ネメシスの手から何十個ものパンに何十本ものナイフ、何百枚もの銅貨、幾つもの剣や斧が溢れるように落ちてきて、それを私は茫然と眺めてたわ。
このあたりで、もう完全に理解するのを諦めていたのね。

「もちろん魔王も例外ではなかった。ミミクリ様を選ばなかった別の世界の私から魔王を借りれるとわかって、ミミクリ様を選んだけど朝食を食べなかった世界の私が、また別の世界の私から暴力様を借りて、あ、暴力様っていうのは剛腕の魔王で単純に強いんだけど。見せた方が早いよね」
ネメシスの手から巨大な4本の腕を持った髭の豊かな大男が現れて、
「こちらが暴力様です。魔王の中でも純粋な膂力では一番なので、色んな世界の私がお世話になってるの」
手をひらりと振り回して、暴力様と呼ばれた大男を消してしまったの。
「色んな世界でそれぞれ違う魔王と契約したり、色んな世界から魔王を借りたりしながら、666の魔王をすべて借りて神様をどうにかしたのね。もちろん何回も失敗したし、上手くいかない世界のほうが遥かに多かったんだけど、でもどこかで必ず上手くいく道があったから。全知全能の神様も大したことないね」
そう言って笑いながら、地面から湧き出るような腐臭と血の臭いを漂わせて、両手足を千切られて、鼻と耳を削がれて、瞼を縫い付けられて、ほとんどの歯が折られた芋虫のような巨体の中年男が現れたわ。
今まで見てきた中で一番みじめで惨たらしい姿だって思った。どんな罪を犯したらこんな酷い目に遭うんだろうってくらい、痛々しい姿をしてたんだもの。

「ドロテア、これがみんなの親や兄弟を見殺しにしたくせに、えらそうに許しだけは与えてくれる全知全能の神様だよ」

初めて見た神様の姿は酷くみじめで惨たらしく、かといってこいつを信じた人たちがどれだけ人生を狂わされた考えたら、少しも同情できなかった。
魔女狩りで吊るされた人たちも、魔女狩りで吊るした連中も、みんなこいつを信じて、神への信仰として祈り、感謝し、疑わしい者を殺していったのだから。

「それでね、これは神様がいなくなった世界の魔王から教えてもらったんだけど、人間ってどうしようもなくて、神様がいなくなっても勝手にそれっぽい神様を想像して崇拝するし、詐欺師が神の代弁者を称して宗教を作るし、悪人を片っ端から殺していっても悪い奴はいつの間にか出てくるし、全滅させる以外なにやっても変わらないってことがわかったの」
ネメシスが呆れた顔で首を傾げて、全知全能の神様の頭の上に腰かけて、

「だからさあ、みんなで魔王とか諦めて、このままのんびり暮らそうよ」

そんな身勝手なことを告げて、いつものように微笑んだの。悪意もなにもなく、ただただ本心か思い付きでそのままに。

私? もちろん怒ったわよ。
私たちはそれまで、復讐するためにここまで頑張ってきたんだから。痛みに耐えて魔痕を刻んだのも、吐き気と気持ち悪さに耐えて生贄の儀式を行ったのも、色欲に溺れた修道士に身を捧げたのも、すべてあいつらに復讐するためだったもの。
だからネメシスの提案を許せなかったの。私は拳を握って殴りかかって、ネメシスの顔を叩いたわ。前にも同じように叩いたけど、あの時とは意味合いが違う。これは誇りと意地を乗せた1発だったの。

左腕の肘から先は持っていかれたけどね。
あの子はそういう奴なのよ。きっと頭の中の線が1本も2本も足りないんだわ。


ネメシスと出会ってからというもの、目が覚める時は必ず悪夢を見たわ。
真っ暗な闇の中であの不気味な鳥がグワッグワッて大声で鳴いて、背後から伸びてくる無数の腕が私の大事なものを全部奪っていくの。お父さんもお母さんもマザーもイザベルもミリアムもモリーもシビルもグロアもカメリアもドリーンも、ひとり残らず連れていって、私はひとりぼっちになって泣き喚いて目を覚ます。
でもまだ夢は醒めてなくて、覗き込むように緑色の髪の毛を垂らして、やつが微笑んでいるの。

「わあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
「うるさい」
叫び声を上げながら目を覚ます私を、ネメシスがぴしゃりと額を叩いて起こした。
窓の外では首に縄を掛けられた修道士たちと、神の信徒たる教会の司祭たちが同じく首に縄を掛けられて吊るされていた。
「落ち着いて聞いて、ドロテア。魔女狩りの連中がここまで来たの。もちろんみんなを捕まえて殺すためなんだけど」
「なんで? 悪魔を崇拝してたから?」
「そう。ミミクリ様に教えてもらったんだけど、この修道院は魔女を育てて売り払う施設なのね。魔女狩りにたまに本物の魔女が混ざってたら、なんていうか説得力が増すでしょ。そのために育てられて、教会から援助を受けて成り立って、16歳になったら町に放り出して、魔女狩りの連中に追いかけさせる。悪魔と契約させるのは、より魔女らしくさせるためにね」
ネメシスはいつものように淡々と秘密を告げて、私の契約していた小鬼を引き剥がして、私に向かって静かに微笑んだの。
いつもより少しだけ優しさを感じたわ。でもきっと気のせい、或いはただの気まぐれね。

おまけみたいな気まぐれで一緒に山を下りて、山のふもとの町で大食い様が暴れて、食べ物も家畜も人間もなにもかも食い散らかして回って、その混乱のどさくさに紛れて逃げた。
私は疑われることもなく、手足に大怪我を負った負傷者として運ばれて、怪我が治ったら木製の義足と鉄製のフックを用意してもらって、久しぶりにゆっくりと眠ったわ。
夢の中では異教徒の肌の色も服もなにもかも違う大商人が口から金貨を吐き出し続けていて、それを両手で掬い上げるんだけど、手から毀れる金貨が1枚、また1枚と私の上に転がって、やがて重さに耐えきれなくて寝返りを打ったところで目を覚ましたの。

その後は大金持ちになって、足が悪くても暮らせる庭付きの館を立てて、雇った使用人と恋に落ちて、息子が生まれて、勿体ないくらい出来た嫁がやってきて、孫娘が生まれて、ようやく復讐に囚われてた人生に光が刺した気がしたわ。



「魔王はいないわ、もちろん悪魔もよ。大昔に神様が勝利して、ひとり残らず地上からいなくなったの。クラッターバック家の家名に誓って、嘘偽りないことを誓うわ。だから安心して眠りなさい」
「はーい」
孫娘を部屋に戻らせて、テーブルの上のヴェラベッカを齧った。
私はちょっとだけ嘘をついた。
魔王はいるし、悪魔だってきっと今もいるに違いない。神様は勝利なんてしてないどころか、両手足を失って、鼻も耳も削がれて芋虫みたいな姿で転がってた。
神様がいなくなっても教会がいくつ壊されても魔女狩りは止まらないし、新しい妄想と信仰は増え続けるし、人間は全滅させない限り悪をやめることが出来ない。

今こうやって生き延びてるのは、きっとあの子の、魔王の気まぐれで、もしかしたら他の世界のように滅ぼされてしまうのは本来ここだったのかもしれない。

「母さん、こんな夜中にお客さんが来てるんだけど」
「お客さん? 誰かしら?」
「わからないけど、若い女の子だよ。髪が緑色で伸ばしっぱなしの」
「……帰ってもらって」

なにしに来たのよ、どういうつもりなの。
息子に伝言を告げて、暖炉に薪をくべて炎をじっと眺めていると、暖炉の横からすうっと、まるで亡霊か妖怪の類みたいにネメシスが入ってきた。
息子から聞いた通り、まだ年若い、20歳かそこらくらいで成長の止まった姿をしている。
「あんた、相変わらずなんでもアリなのね」
「いや、家に入れてくれないから」
「その姿のことよ。なんなの、ババアを笑いにでも来たの? それとも嫌なことでも報せに来たの?」
「うん。それでね、ちょっと訊きたいことがあって」

ネメシスがテーブルの上のヴェラベッカを一口齧って、
「ドロテア、あなた今夜死ぬんだけど、明日この世界滅ぼしていい?」
「え? 私、死ぬの?」
え? 私、死ぬの? それでこいつ、そんな大事なことをこんなにさらっと伝えてくるの?

「うん。それでね、私たち友達じゃない。友達が生きてる間は人間滅ぼすのやめようって決めてたんだけど、今日で死んじゃうから明日からどうしようかなって」
ああ、この子、私のこと友達だと思ってたのね。普通は友達の腕1本と足2本、持っていったりしないんだけど。

悪い冗談であって欲しいけど、この子が昔のままなら冗談を言わないことは私がよく知ってる。
「冗談、とかじゃないのよね」
「もちろんだけど」
そう、本当に死んじゃうのね。悔いばっかりだけど、死ぬんじゃしょうがないわね。

「孫がね、最近お友達が出来たの。それに息子の嫁のおなかにね、弟か妹がいるの」
「あ、そうなんだ。生まれるまで待つ?」
「もっと待ちなさいよ! あんたね、人間滅ぼしたいの?」
こいつに人間らしい情緒を期待した私が馬鹿だったわ。そうよね、中身はすっかり、いや、元から悪魔か魔王と違わないもの。

「孫が死ぬまで、もし孫に子供がいたらその子供が、その子にも子供や孫がいたらその孫が生きてる間は、いいえ、私の血筋が途絶えても、この世界を壊さないで。一生のお願いだから」
「一生のお願いて、もうすぐ死んじゃうけどね?」
「あんた、ぶん殴るわよ。もうね、右腕持っていかれても平気なんだから。死を覚悟したババアに怖いものなんて無いのよ」
ネメシスがくすりと微笑んで、テーブルの上のヴェラベッカをもう一口齧った。
「いいよ、友達のお願いだからね」


それからゆっくりと目を閉じたの。
少しだけ夢を見たわ。真っ暗な夜の空から、幾つもの光の柱が降ってきて、欲深い連中や信仰心を抱えた連中が吸い込まれていくのを椅子に揺られながら眺めて、なにもかも息子たちに渡して手放しててよかった。
そんな風に思って、夢の中でも静かに目を閉じたら、あの気味の悪い鳥が大口開けて泣き喚いてて、意外とかわいいものね、なんて思いながら死んだわ。


(終わり)

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これは19世紀初頭に書かれたドロテア・クラッターバックの手記「魔女と怪鳥」の中から小題「悪魔崇拝者」を翻訳したものです。

嘘です。

私が書きました。てへっ。

神様が嫌いです。悪魔や魔王が好きかというとそんなことないですが、偽善が嫌いなので神様は嫌いです。
しいていえばおでんが好きです。寒い冬によく合うからです。
あと熱燗も好きです。寒い冬に以下略。