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共食魚骨・断編集「魚の骨は猫でも食べない」

―1―【オメラスの地下牢】


廃墟は嫌いだ、時間が止まってるから……
廃墟は嫌いだ、世界に取り残されてるから……
廃墟は嫌いだ、馬鹿と悪党ばかりが集まるから……

だけど今、そんな嫌いな廃墟の屋上で、呑気にダンボール敷いて寝転んで星空なんか見上げている。
コンクリート1枚隔てた下からは地獄の亡者みたいな、奈落の住人のような、悲鳴にも慟哭にもはたまた絶望にも似た叫びが聞こえてくるけど、下で行われてることに興味はないし、助けようとも罰そうとも思わない。私たちの仕事はここでじーっと座ったり寝転んだりして時間を潰して、24時間ここに居続けることなのだ。
そう、私たちだ。すなわち私だけではない。
私の仕事はここに居続けること。
もうひとり、どうしても仕事をご一緒したいと申し出た凶暴な【鮫】の仕事が、廃墟の外へと出たどうしようもない奴を始末すること。

鮫っていうのは、鮫と呼ばれているけど、いわゆる海で泳いで人でも魚でも手当たり次第に噛みつく、あの鮫ではない。
人間相手の殺し屋の最高峰、この世界ではそいつらが【鮫】って呼ばれてる。
もしかしたら私も鮫だと思われているのかもしれないけど、私は鮫みたいに凶暴でもなければ獰猛でもない。どちらかというとストロベリーフラペチーノを啜るような、ゆるふわ女子大生みたいな生き物なのだ。実態は女子大生でもなければ、なんだったら小学校すらまともに通ったこともないけど。なんだったらどころか、大いに難ありだ。

(……よく考えたら、あいつらよりも学歴下なんだよな)

一瞬、頭の中に屋上まで上がる途中で見えた馬鹿そうな連中の姿が浮かぶ。
下半身と拳以外は人間っぽく見せるためのおまけ、そんな連中でも義務教育くらいは終えているし、案外いいとこの大学なんかも出てたりするのだ。大学に行けるくらい恵まれた家庭に生まれたくせに悪の道に走るなんて、どうしようもない生き物だなって思うけど、そんなのは珍しくもなんともない。よくある話だ。
そして、そんな救いようのないアホが謎の死を遂げたり、謎の失踪を遂げたり、謎の変死体となって発見されるのもまた、よくある話だ。
「まあ、別にどうでもいいんだけど」
上着の袖を捲って腕時計に視線を落とす。
この廃墟に入ってから、かれこれ23時間と50分強。下の連中は飽きもせずに盛りのついた猿みたいに、拉致した得物相手に腰を振り続けたり、拳を振り回したりしてるわけだけど、そのエネルギーをもっと有意義なものに使えとは言わない。奴らにそんなチャンスは訪れないのだ、もう二度と。

「……5……4……3……2……1……ゼロ」

世界から音が消える。
実際には世界全部ではなく私を中心とした半径30メートルの世界、そこにあった音がすべて消えるのだ。足音、吐息、悲鳴、心臓の音、ありとあらゆる生命の音が消えるのだ。
つまり死ぬということだ。

自分を中心に半径30メートル以内で24時間離れず過ごしたものを自然死させる、それが私の抱えている正体不明の伝染病だ。

この病気は普通に生活するには不便で仕方ないけど、仕事となると結構便利で、ぼーっと過ごすだけで何もしなくても標的が死んでくれるのだ。手を下す必要もなく、武器を使う必要もなく、殺意を抱く必要すらなく、おまけに証拠もなにも無いのだから、そんなものが残るはずもない。
この足のつかない殺しの伝染病のおかげで、いや、殺しの伝染病のせいで私は鮫をも上回る殺し屋と噂されているらしい。
【死神ヨハネ】、これが私の名前だ。本当の名前は魚の骨と書いてギョホネっていうんだけど、呼びづらくてしょうがないのと不思議と全然覚えてもらえないという理由で、私もギョホネと呼ばれて良い気はしないから、ヨハネという名前で通している。
ちなみにギョホネなんて名前が受理されるはずもないので、戸籍上の名前は魚と書いてイオ。ちなみに苗字は共食と書いてトモハミ、名前のせいで目立たないけど苗字もそこそこに酷い。
そんな物騒な苗字に魚とか魚の骨とかつけようとするセンス、私の親は魚好きで仕方なかったのか、それとも頭が相当におかしかったのか、或いは歪んだタイプの自己主張だったのか、随分と前に殺しの伝染病が原因で死んでるから今となっては知る由もない。考えようによってはメガピラニアとかにしなかっただけ、まだ良心とか常識とかあったのかもしれない。共食メガピラニアなんてZ級映画でしか目にしない名前だ。
変な名前だなって落ち込むターンは十年以上前に通過してる。むしろ今は、ヨハネって通り名がキリスト教の聖人みたいなイタリアン髭モジャ男を想像されたり、狂信的なガリガリ頬こけ薬物中毒アメリカンと決めつけられたりして、まさか小柄な地味系女だとは誰も思わないみたいだから都合がいい。

「さて、一応確認しとくかな」

すっかり静まり返った廃墟をのっそりと降りていき、廊下に転がってる全裸の男とか股と尻から結構な出血をしてる全裸の女とか、ご丁寧に山奥の廃墟で見張りなんてしてた下っ端とか、妙な臭いのする部屋で倒れてる薬中とか、おそらく元々住み着いてたホームレスとか、そういったさっきまで息をしていた生き物たちの死体を横目で眺めていく。
それにしても24時間きっかりで死んでくれる、この個人差も体格差も年齢差も一切関係なく命を奪う、理不尽極まりない伝染病は今日も抜群の殺傷力だ。病源であり続ける限りは、死神ヨハネとしての稼ぎは安泰だろう。なんせ世の中は基本的には大監視時代、監視カメラにSNSに人の目にドローン、今は世界的に流行している疫病のせいで人の目は少なくなってるものの、それを除いても監視の目は多い。だけど、触れずとも勝手に死んでしまう分には監視カメラがどれだけあろうと、仮に衆人環視な状況であっても、そんなの一切お構いなしだ。
おそらく今後も死神ヨハネへの依頼は無くなることはない。仲介人を勤めるデブの情報屋がうっかりデブ過ぎて死んだりとか、市場価格の大幅な値崩れとか、そういうことがない限りは。

「ジンベエ君、帰るよー」

廃墟のすぐ近くの森の中に身を潜めている鮫に声を掛ける。
その鮫は背が高くて、むしろ縦に長くて、ぼっさぼさに絡まった櫛が折れそうな鳥の巣みたいな髪や無精髭と併せて、気怠そうな相貌に妙に馴染んでいる。
彼は私の限りなく少ない交友関係の中でも古い部類で、かれこれ4年程の付き合いになる。といっても友人でもなく、知人というには毎回忘れられて、初対面のように新鮮な挨拶を交わす間柄だけど。
そう、私は昔から究極的に影が薄く、目の前で話しかけてるのに中々気づいてもらえないくらい存在感がない上に、数秒も経てば忘れられてしまうくらい記憶に残りにくいらしい。これはもしかしたら私のせいではないのでは、と思うのだけど、今のところ100人いれば100人がきっちりかっちり私を忘れてしまうので、どうやら私のせいみたい。
そのせいで何度か声を掛けた末に出てきたジンベエ君が、お前誰だっけ、みたいな顔してるけど、もう慣れっこなのでそんなことは気にしない。

「街に戻って居酒屋でも行こう」
「ああ? かれこれ30時間も起きてんだぞ、とっとと帰って寝てえ」
「仕事した後は経済ぶん回すことにしてるの」

めんどくさそうに欠伸をしているジンベエ君の横で、私は右腕を肩からぐるぐると回してみせる。
ちなみにジンベエ君と呼んでいるけど、年齢は私より一回りは上のれっきとしたおっさんで、そうそう気軽に呼べるような相手ではない。なんせ凶暴な鮫だ。他の人なら口の利き方を間違えた瞬間に、ばくっと噛みつかれかねない。噛みつくっていうのは比喩で、具体的には目玉を抉るとか喉を潰すとか心臓を刃物で突くとかそういう行為で、どこまで本当かわからないけど、以前調子に乗った同業者の両手に刃物を突き立てて、虫の標本みたいに壁に固定して、背中に彫られた生意気な仁王の刺青を肉ごと剥ぎ取ったのだとか。はっきり言って人間のやる所業ではない、ミンチにして魚の餌にでもする方が、まだ幾らか道徳的だ。
だけど、私にはそういう悪意は通用しない。理由は知らないけど、そういうことになってる。
どういうわけか昔から危害を受け付けない体質なのだ。例えば鈍器を投げつけようとしても変な方向に飛んでいくとか、包丁で刺そうとしても刃が柄から外れるとか、首を絞めようとしても腕の筋が断裂してしまうとか、拳銃を使っても弾が出なくなるとか。当然、自殺も自傷も出来ないことも確認済み。勝手に人は死なせるくせに、自分はどうやっても死ぬことが出来ないのは、悪い冗談を超えて悪夢に近い。
まあ、だからといってタメ口はどうかと思うかもしれないけど、私みたいな学のない小娘に怒るエネルギーがあるなら、もっと有意義なことに使うべきだ。草むしりとかゴミ拾いとか。

「しかし、ほんとになんにもしなくても殺せるんだな」
「前も一字一句違わず同じこと言ってたけどね」
「……あー、そういえばそうだった。だったら次は、こう言ったんだろうよ。『俺は業界最高峰の技術をお目にかかれる、しかも俺より一回り以上年下のガキがそんな技術を持ってるなら、一体どんなえげつない技を見せてくれるんだろうって期待してたのに、ただ森の中でずーっと突っ立てたわけだ。なんていうか、人生のなんか大事なものを棒に振った気分だ!』とかなんとかってなあ」
「おおー、シチュエーション以外、一語一句一緒だよ。ジンベエ君、変わんないねー、っていうか進歩しないねー」
「うるせえ。なんだよ、その便利な能力。くれ! 寄越せ! 俺が有効活用してやる!」

その要求も何度か通過済みだ。欲しがる気持ちはよくわかる、この伝染病があるだけで、別に格闘技をやってるわけでも武器の訓練を受けたわけでも、身体能力が高いわけでもない、頭もそれほど賢くない私みたいなのが、鮫を上回ってしまうのだから。
だけど、はいどうぞって渡せるようなものでもないのだ。あげれるもんならあげたいところだけど、この病気はいつまでも私から離れてくれない。
それこそ一生、影のように付き纏い続けるんじゃないかって思ってる。

「イクラ丼でも奢ってあげるよ」
「ガキに奢られるほど落ちぶれてねえよ」
「じゃあ、代わりにゴチになってあげよう」
「断る」

まったく、素直に奢られるか奢るかすればいいものを。
私は溜息に似た息を吐き出して、それから3時間ほど延々と歩き続けて繁華街に戻り、疫病による緊急事態宣言とやらのせいで何処も開いてないことに気づいて、惨めに公園ビールでひとり乾杯したのだった。
ジンベエ君は薄情者なので帰った。夜の公園に若い女を一人残すなんて、まったくもって非常識な鮫だ。常識のある真っ当な人間は殺し屋なんてしない、と言われればそれまでだけど。


―2―【ゾアントロピーの儀式】


太陽と災害だけは誰しも平等、と言ったのが誰だか忘れたけど、確かに平等なのは間違いない。
それが証拠にくっそ暑い。どっちかというと痩せてる体型の私は、そりゃあデブよりは暑さに強いけれど、近年の日本の夏はもう日本の夏ではないと揶揄されるくらいに暑い。
まだ7月になったばかりだというのに、熱中症で搬送される人の数は留まることを知らず、おまけに質の悪い疫病の流行と重なって救急車が間に合わないのだとか。まさに酷い状況の暑さ、酷暑という名前も伊達ではない。
そんな酷暑の中、私は右も左もわからない、ひとかけらくらいの縁と所縁ならなくもない町を歩いている。
ここは四国の南の端っこ、物心つく前に亡くなった私の父が生まれた場所だ。

「あぢー……」

こんな暑さ、仲介役のデブの情報屋なんか今頃デブ過ぎて死んでしまっているかもしれない。奴はそう思わせる程度にはしっかりとしたデブだ、造形は人間よりもブロック肉に近い。今年の暑さに耐えられるとは到底思えない。
少し心配になったのでメールを送ってみようかな。私はスマホの画面をリズミカルにタップする。

◀◀◀『百々山君、暑いけど生きてるー?』

「……返事がない、ただの贅肉のようだ」

天に召されたデブはさておき、今年の暑さは異常だ。
太陽はもはやちょっとしたガスバーナーだし、照りつける陽射しはどこかの国では刑罰だ。
罰されるようなことした覚えは……なくもないなあ、昨日も山奥の倉庫に放り込んだ病気持ちの厄介者を死なせる仕事したばかりだし。世の中には人間を上手く抑えつけるために法律があるけど、時々そういうものでは抑えつけれない上に、責任能力の欠如とか心神喪失とかで罪を免れる厄介者がいる。法が代わりに裁いてくれないなら、被害者は自力救済に走るしかないのは自然の摂理で、でもそんな厄介者のために人生棒に振りたくない、だけど復讐せずにはいられない人間は、殺し屋とか殺し屋の頂点【鮫】とか、それすらも上回る【死神ヨハネ】に依頼したりするのだ。
そして死神ヨハネは、自分を中心に半径30メートル以内で24時間離れず過ごしたものを自然死させる正体不明の伝染病を使って、倉庫の中に放り込んだ厄介者を自然死させたわけだけど、この暑さだったら熱中症で死んだ可能性もあるなって今更ながら思ったりしている。
そんなくだらないことを頭の中でぐるぐると巡らせながら、汗えぐいなとか、潮風でベタベタだなとか、田舎はコンビニがマジでないなとか、自販機のお茶じゃ追いつかないんだよとか、日焼け防止で長袖のインナー着てるけど余計に暑い気がするとか、旅を楽しくないものに落とし込む理由が幾つも湧いてくる。
くそぅ、こんなことなら経済ぶん回しの儀を旅行じゃなくて新作ゲームとかにするんだった。
ちなみに私は仕事後に豪快に金を使って経済をぶん回すことにしている。いわゆる浄財だ。お金の洗浄って呼ぶとマネロン的な意味に聞こえてしまうので、断固として浄財と呼ぶ。暗い怨念の籠ったお金を消費に還元して、厄払いしてしまおうという、ちょっとした臆病者の心理がそうさせるのだ。
その浄財に今回は、折角夏だし海に行ってみよう、そうだ父親が海沿いの方に生まれたらしいからどんな場所か見てみよう、と旅行を選んだわけだけど、別にストリートビューで見れただろって思ってる自分がいる。もちろん暑さのせいで。

「着いた……!」

私の父は海の王を迎えるという大層仰々しい名前のついた無人駅のある集落で生まれて、中学生くらいまではその土地で過ごし、高校に上がると同時に県庁所在地に上り、大学進学と共に上京したそうだ。
したそうだっていうのは、父の著作の中に他の作家との対談コーナーがあって、そこでざっくりとだけどそんな感じの経歴が語られていたからだ。ちなみに父の両親はその頃にはすでに離婚していて、故郷の家はそれとなく取り壊して土地も売ったので残っていないらしい。どうでもいいけど、もう少し愉快な対談にしようとか、そういう気遣いは出来なかったのだろうか、私の父は。
私の父、共食文樹は小説家だった。ウイキペディアによると30歳を前に累計1億部を売ったいわゆる文学界の至宝で、30代前半で筆を折ってどこかの山奥に豪邸を立てて引き籠り、数年後に急死した。父の住んでいた無駄に部屋数の多い建物は、最後に私を引き取った叔父も含めて親類縁者が全員亡くなったため、所有者が長らく不在だったけれど、数年前にどこかの外資系企業が買い取ったかで一部の建物がモーテルとして再利用されている。知ってる知ってる、泊ったことある。
生涯独身だったので戸籍上の妻はいないけど、私がこの世に存在してるので、まあそういうことだ。子どもを作る相手はいたわけだ。母も父と同日、ついでにハウスキーパーたちも同日の嵐の日に亡くなったのだけど、さすがの私もこれが正体不明の伝染病が原因だって気づいてる。そこに対しての負い目はまったくない。むしろ数年の間、伝染病から逃れてるという事実が薄っすら私への興味の無さを表してて若干引いてる。
そんな夭折の天災、共食文樹がどんな子ども時代を過ごしたのか、まったく興味はないけど見てやろうと思ってやってきたのだ。

(海の王ってなんだろう……鯨かな?)

海の王を迎える場所で生まれた男から生まれた娘が、なんの因果か魚と書いてイオって読ませる変な名前で、業界から水槽とも称される殺し屋連中の中で鮫をも上回る死神やってるんだから、なにか奇妙な縁みたいなものも感じる。
でも、海の王は別に鯨でもないようで、浜辺の石碑にはなんたら親王上陸地とか刻んであって、どうやらこれが王であるらしい。まったく魚と無関係だと、さっきの中二病くさい妄想が一気に恥ずかしくなる。
見るな見るな、乙女のこんな恥ずかしい瞬間を見るな。そう心の中で叫びながら、帽子を目深に被り直してちらっと周囲に視線を投げるも、
「まあ、誰もいないんだけどね」
こんな暑さの中、用もなく外をうろうろするような頭の悪い人間は私くらいのもので、その後も特に誰かとすれ違うこともない田舎道をぷらぷらと歩き回って、猫1匹すれ違うこともなく、ただただありふれた緑と茶色で埋め尽くされるような田舎の風景を眺めて、倒れそうになりながら自販機のコーラに飛びついて、あとは別段美味しくも不味くもないラーメンを食べたり、津波避難タワーとかいう鉄の骨みたいな塔に上ってみたり、道の駅ででっかい鯨の骨を見たりして、顔がパンの幼児向けキャラクターを模した特急に乗ってキンキンに冷えたビールと日本酒を飲みながら県庁所在地まで戻った。
ほんとは現地の民宿に泊まりたかったけど、疫病のせいで何処も休みだったから諦めるほかない。
でもオーケー、許す。ビール美味しかったし、日本酒も美味しかったし。


「歓鯨……!」

駅に着いたら、鯨の尾びれを模したモニュメントに歓迎、否、歓鯨された。実際に歓鯨って書いてあるんだから仕方ない。
そして歓鯨されてしまったからには、鯨の名前のついたお酒を飲まないわけにはいかない。
駅舎にある土産物コーナーで結構いい値段の酒を瓶で買って、こういう時のためにあらかじめ買っておいた酒瓶ホルダーをぶら提げて、夕暮れでほんのりと橙色に染まる町を歩く。
考えてみると悪くない旅になった。馬鹿みたいに暑いし、遠い割に得るものはないし、どう考えてもエアコン利いた部屋でゴロゴロしてた方がいいと思うけど、いや、考えれば考えるほど何やってんだ感が増すけれども、長い人生たまにはこういう日があってもいいわけで。
折角なので川べりで酒盛りしようと決めて、コンビニでばくだんおにぎりなるカロリーの暴力と揚げ物やおつまみを適当に買い込んで歩いていると、いつの間にか風俗街に迷い込んでいた。
旅館という名の宿泊施設ではない旅館、派手派手しい風俗店がやたらと密集した地区が、繁華街から道路1本隔てた距離にあるのは一般人にはちょっとした罠だと思うけど、職業に貴賎なし。ここで働いてる人たちの99%が、私なんかよりはずっと真っ当な手段でお金を稼いでる。黒か白かでいえばドブネズミくらいには黒ずんでるとはいえ、殺し屋と比べたらおしぼりくらい白い。
でも、女の私には一切用も縁もない場所なので、酒瓶ホルダーとビニール袋を握りしめてそそくさと歩いて通り抜ける。

それにしても酷い場所だな、もちろん良い意味で。
廃墟。廃墟っぽいビル。旅館。ソープ。廃墟? よくわからない店。廃墟。ソープ。旅館。おうおう、ディープだな。
なんて考えながら歩いていたら、私の生来の影の薄さが災いして、ジャージ姿のお姉さんにぶつかってしまう。私は究極的に影が薄い、気をつけないと人にぶつかられることなんて日常茶飯事だ。自転車より大きいものには、不思議と当たられたことは1度もないけど。
「あー、ごめんなさい」
ぶつかられた時は謝るのが最善手。なにぶつかってんだと怒るのは素人のやり口で、骨が折れたと騒ぐのは輩のやり口だ。揉め事なんて起こらないに越したことはない。少なくとも私はそういう主義だ。命は大事に、主に見知らぬ人たちの。
ジャージのお姉さんにわざとらしくない程度の薄っすらとした笑顔を向ける。
すると何をどう判断されたのか、少し待っててと呼び止められて、一瞬店の中に入っていったかと思うと、缶ビールのロング缶を片手に戻ってきて、私の抱えるビニール袋に捻じ込んできたのだ。
「人生良いことあるから!」
いや、私はどっちかっていうと今日は上機嫌で、なんだったら今から川見酒を堪能するので気分的には最良の状態なんだけど。

聞けば、なんとなく今にも死んでしまいそうな雰囲気と、世の中のすべての不幸を手当たり次第に搔き集めたような負のオーラに包まれているように見えたのだとか。

全力で否定したいところだけど、私は死神なんて呼ばれてるから、もしかしたらそういう恨み辛みや無念や怨念が全身にこびりついているのかもしれない。
男だったら、じゃあ今から洗ってもらおうかって泡風呂にでも入るところで、私はあいにく女だしそっちの趣味もないので、ビールと大吟醸で身を清めることにしよう。
お姉さんに向けて首を傾げる程度に頭を下げて、そのまま川べりへと向かい、群青色になりつつある町の中で静かに酒を飲んだのだった。


―3―【アセノスフィアからの降雨】


私が今の仕事をするようになったのは16歳の頃だ。
生前、私の保護者を買って出た叔父が、労働が許される年になったら情報屋の百々山君を訪ねるように遺していた。叔父はおおよそ争いごとに向いていると思えない体型をしていたけれど、れっきとした殺し屋の頂点【鮫】のひとりで、頭のおかしいマッドサイエンティストだった。
私の正体不明の伝染病を、実験動物という体裁の犯罪者を何十人も用いて解析し、私自身を中心に半径30メートル以内で24時間離れず過ごしたものを自然死させる等、幾つかの法則のようなものを導き出した。
そういう流れもあって、私の持つ伝染病が殺しの役に立つと判断した叔父は、天涯孤独の身となった私にあらかじめ食い扶持を用意しておいた。これが保護者としての義務感なのか、養父としての愛情なのか、単に自分の研究成果を自慢したかったのか、叔父亡き今となってはわからない。
ただ、出生届すら出していなかった父に代わって戸籍を作り、少なくとも労働年齢に達するまでは飢えて死ぬことのないように生活費を口座に遺し、学校にすら行ってない私に義務教育レベルの勉強をさせるように大量の教科書や問題集を買い溜めていた。そういった部分は今でも感謝してるし、どれだけ礼を言っても足りないくらいに恩を感じてる。
それはそれとして、救いがたい嫌な奴ではあったけど。


「あなたが情報屋の百々山君だな。叔父のダルマの紹介で仕事を貰いに来た」
「ダルマさんの紹介? 君みたいなお嬢ちゃんが?」

当時の百々山君はファッションモデルくらいスリムな体型のいわゆるイケオジ系中年で、まさか数年の内に少なくとも70キロ以上も太るとは誰しも予想してなかったと思うけど、あまり関係ない話だ。会う度に増量していく百々山君を見て、絶対にこうはなるまいと私の乙女心がざわついたりもしたけど、それもまったく関係ない話なので省略する。
「ダルマさんかー。困ったな、死んだとはいえ鮫とはあんまり関わり……あれ? お嬢ちゃん、何処にいったのかな?」
「……ずっと目の前にいるけど」
「うわぁ! びっくりした! おかしいな、いなくなったと思ったのに」
私は昔から究極的に影が薄い。目の前に立ってるのに見失われることなんて日常茶飯事だし、別にそれを失礼だと思わない程度には慣れてる。叔父だってテーブルの向かいでごはん食べてる私を見失って、モルモットが逃げたって慌てて探しに出たことが何度もあった。それくらい私は気づかれにくいし、見失いやすいし、当然忘れられやすい。この後、事務所の外に出た途端に、百々山君も私の存在を記憶から消し去ってしまうだろう。
「とにかくだ、ダルマさんの紹介といってもだね、君、なにが出来るの? 情報屋かい? それとも運び屋かい? 葬儀屋や不動産屋が出来るとは思えないけど、あれかな? 娼婦にでもなりたいのかい?」
百々山君の反応はごくごく普通の、当たり前のものだ。いきなり10代の若い女が訪ねてきて、仕事をくれと言われても、そんな小娘に何ができるんだって話だ。なにか自分の実力を示してからモノを言ってみせろって話だ。
そう思うことは百も承知だし、私も予想済みだ。
だから手土産は用意してある。
私は旅行にでも使うようなサイズのスーツケースを百々山君の前に運び、ベルトのロックを外してファスナーを引っ張った。

「……なにそれ?」

私がまず取り出したのはウィスキーの瓶だ。このお酒は百々山君のマンションの冷蔵庫から拝借したもので、勘のいい情報屋ならこれで気づいてくれると思ったのだけど、いまいちピンと来てないようなので次の戦利品を取り出してみせる。
「靴下? なんか見覚えがあるような?」
「この靴下は百々山君、今朝君の部屋から拝借したものだ。ちなみにさっきのウィスキーも君のものだ」
さらにスーツケ-スから百々山君のキッチンから拝借したコーヒーメーカーとマグカップを取り出して、目の前のカウンターの上に乗せる。
「え? 君、何してんの!?」
「ちなみにパソコンデスクの上に置いてあったマトリョーシカ、あの中にはアンパンを詰めておいた」
「何してくれちゃってんの!?」
いい感じに驚いてくれたので、ウィスキーがあったところにはミニつぶあんパン5個入りを差しておいたことや、靴下の代わりにアンパンを吊るしたこと、コーヒーメーカーとマグカップの位置にアンパンを盛っておいたこと、さらには事務所のパソコンに勝手にフォルダをひとつ作ってパスワードを掛けておいたことを伝えた。
「ちなみにパスワードはAnpanだよ」
「意味不明なアンパン推しもだけど、いつから!? いつから僕の部屋に出入りしてんの!?」
百々山君の驚きについ自慢気な顔をしたくなるけど、すぐに調子に乗る人間が信用を得るのは難しい。なるべく冷静で淡々とした口調を崩さないように注意が必要となる。
「百々山君のことを3日間尾けさせてもらった。ここで客がいない間に鼻毛を2回引き抜いたのも3回おならをしたのも当然見ているし、部屋でエッチなDVDを鑑賞してるのも見た。これは私からの忠告だけど、目玉焼きには塩を振り過ぎない方がいいし、マヨネーズよりは醤油をおすすめする。あと女子の魅力はおっぱいの大きさではない、断じて」
いつの間にか百々山君の恥部に触れたらしく、なんか動物の鳴き声みたいな音を発しながら頭を抱えて蹲ってるけれど、肝心なのはアンパンにすり替えたとか恥ずかしい場面を見たとか、そういうところではない。
「いいかい、百々山君。君は3日間、私に尾行されて部屋にも入り込まれてるのにまったく気づかなかった。つまりだよ、私が殺そうと思えば、いつでも殺せたわけだ」
プルプルと生まれたての鹿みたいに震えていた百々山君の体が、ピタリと静止する。どうやら気づいたらしい、裏社会の情報屋といわれているけど、私から見たら隙だらけで、3日間ずっと心臓をわし掴みにされていたことを。

「その通りだ。こんなお嬢ちゃんに掌の上で転がされるたぁ、若ぇのに耄碌しすぎじゃねぇか、トドヤマァ」

開けっ放しの事務所の扉に、どっかりと巨大な体躯を持たれかけた中年男が、低く野太い、切れ味の悪い鉈のような声を発した。巨体といってもただ大きいだけじゃなく、半袖のシャツから突き出した腕や首元から無駄な贅肉を削ぎ落した上に、鎧のような筋肉をまとっていることがわかる。そして体格と比較しても違和感を感じる大きさの拳と靴。人を殴るために製造された外国製の殺人マシーンです、と紹介されたら納得しそうな見た目をしている。
「お嬢ちゃん、ダルマの姪っ子なんだろう? 話ぁ聞いてる、そろそろ来るんじゃねぇかと思ってたところだ」
後から知った話だけど、この男は鮫たちの元締めみたいな立場で名前はメガロ。鮫の王とされる裏社会の重鎮で、百々山君のような情報や仲介の業者は頭が上がらない。というより頭を上げ過ぎると死にかねない。
私はこの時点で名前も知らないのだから、当然誰だこいつくらいにしか思ってないわけだけど、向こうは叔父からある程度の情報は聞いていたらしく、その手には小振りで不釣り合いな拳銃を額スレスレに押し付けてくる。
「トドヤマァ、こいつはいうならばチートだ。気配を消せるってぇのは今さっき知ったが、こいつの強みはそこじゃねぇ。24時間あれば誰であろうとぶっ殺せるチートじみた能力と、誰にも倒せないバグみてぇな生存能力だ」
ガチンとハンマーの叩く音が響く。引き金を引けばハンマーが起き上がり弾丸が発射される、それが物の道理だ。だけど眼前の拳銃は栓を閉めすぎた酔っ払いみたいに、音だけ立派で何も吐き出さない。
次だ、と次は牛の角でも落とせそうな大振りなナイフを振り下ろしてくるが、今度は柄と刃が真っ二つに離れ離れになって、柄は虚しく空を切って、刃は勢い余って明後日の方向に突き刺さる。
「ダルマの言ったとおりだな……だったら、これならどうなる?」
ナイフだったものを捨てて、拳を握って私に向けて突き出してくる。銃も刃物も駄目なら、素手で倒してしまえばいい。そういう思考は理解できる。
でも、そういうものじゃないのだ。
幼い頃にさんざん叔父に検証実験をされたけど、私は危害というものを加えられない体質らしい。銃やナイフは先程の通り、ロープで首を絞めれば千切れる、毒を飲ませようとしてもグラスに入ってくれない、火を点けようにも油は私を避けるように変な方向へと飛んでいく、叔父が出した結論ではきっと核爆弾や自然災害でも無理だろうという話だ。
だから、当然危害を加えようとする指や腕は、私に届く前に関節が外れ、筋が断裂し、痙攣を起こし、或いはその全てに襲われる。バチンとかゴキリとかベキィとか耳障りな音を立てて、屈強で逞しい両腕がだらりと地面に向けてうな垂れる。
これも後から知った話だけど、メガロの腕はこの時元通りに戻らないくらい痛めてしまって、1週間ほど後に現役を退いたのだとか。いや、私のせいではない。殴ろうとする方が悪い。

「トドヤマァ、試しに仕事をさせてみろ。殺しの方もダルマの言ったとおりなら、こいつはとんでもなく金になる」
「ありがとう、でっかいおっさん。というわけで百々山君、別に今すぐ仕事をくれとは言わないけど、これからよろしくね」
あまり触りたくないけど、百々山君の手を取って、親しみの証拠として上下に何度か振る。叔父の遺した教科書にも書いてあった、人間同士が仲良くするには握手だと。うすら寒い偽善だなって読んだ時は思ったけど、それが世の中のマナー的なものなら従わないこともない。私は世間とか世界に反発したいわけでもないので。
「よ、よろしく……」
どうやらマナー違反ではなかったみたい。私は更に親しくなるためのマナーとして、笑顔を向ける。今思えばぎこちない笑顔だったと思うけど、この時は私なりに頑張ってたのだ。

「あ、そうだ。自己紹介してなかった。共食魚骨っていうから」
「ギョホネ……?」
「うん、魚の骨と書いてギョホネ。あ、でも戸籍上は魚と書いてイオか。まあ、どっちでもいいや」

そして挨拶を済ませた私はカウンターの上に連絡先を書き残して、口笛なんかを吹いたりしながら帰ったのだけど、この直後に百々山君はやっぱり私の存在の大部分を記憶から消し去ってしまって、マンションに帰って大量のアンパンを見て薄っすらと思い出し、慌てて事務所に戻って防犯カメラをチェックしたりしたという。
そこに映ってる黒い靄みたいな物体とか、不思議と再生されない録画データとか、そういう怪異に恐怖を覚えて、それでも情報屋としての知識欲が勝ったのか町中の監視カメラをハッキングして、同様の異常を捕捉して私の移動履歴を割り出し、数日後に再び私の前に姿を見せてきた。正直ストーカーの才能に溢れ過ぎてて怖いので、その時の話はあまり語りたくない。
ただ一つだけ語っておくとしたら、その時に私の名前や姿を忘れても、存在自体は忘れないように【死神ヨハネ】という異名を都市伝説のように流布させて、噂の信憑性を持たせるためにガラの悪い目立ちたがりの薬屋の暗殺を依頼してきたのだ。

それが私の初仕事となり、証拠も形跡もない殺しの噂は爆発的に業界に拡がり、私の懐を随分と温めてくれたのだった。


―4―【レミングの巣雲】


2002年7月16日 トモハミフミキ、タテダミズキ、サワイメグミ、カワベカナコ、トノモトジュン、キダエミ
2002年7月21日 トハミヨシノリ、トモハミサチエ、トモハミアイリ
2002年7月24日 トモハミケンイチ、トモハミカズミ
2002年7月29日 ナカジユウショウ、ナカジサチ、ナカジリク、ナカジカイ
2002年8月 3日 オサハマユウコ
2002年8月 7日 トモハミカズオ
2002年8月11日 シノミヤケイスケ、シノミヤアイコ
2002年8月14日 ダルマヅカタエ

これだけ立て続けに不審な死が起これば馬鹿でもわかる。
共食文樹と形式上の恋人、雇われたシッターたちを皮切りに、従兄弟や親戚たちが次々と謎の死を遂げ、ついに実母の命まで奪われた時、実弟である達磨塚吉嗣は立ち上がった。立ち上がったというよりは、共食家の血統が彼しか残っておらず、共食文樹の一粒種である娘を引き取る役目を買って出るしかなかった、というのが正しい表現だ。
不審な死の中心にはまだ幼い娘、3歳の共食魚がおり、預かるべきか頭を抱えるほど悩んだそうだが、研究者気質な嗜好と好奇心が勝ったのか最終的には引き取ることを決めた。
もし孤児院等の保護施設に託されていたら更なる犠牲者を生み出したはずだから、その点でいえば彼は世界の子どもたちを守った英雄と言えなくもない。もちろん言い過ぎだ、世界という程ではない、でも手を挙げたすべての孤児院が立て続けに壊滅していただろう。
一方で彼は裏社会の住人だった。筋が通っていようといまいと構わず、依頼を受ければ命を奪う殺し屋、しかもその頂点【鮫】のひとりだった。小柄で太り気味、体格に恵まれていない男だったが、しかし他人を油断させるには適した姿をしていて、主な手口は銃に薬物、ガス、他に針や爪などといった暗器を幾つか。
どのくらい殺したのかは定かでないが、少なくとも47人の命を奪っている。

この47人という数字は、引き取った兄の娘の検証実験で使い潰した犯罪者や悪党の数だ。

・共食魚を中心に半径30メートル以内で24時間離れず過ごした者が死ぬ
・24時間は累積時間ではなく連続した時間である
・30メートルの範囲は横方向だけでなく縦方向にも及ぶ
・30メートルの中に体の一部分でも入っていたら死ぬ
・それは指などの切り離された部位でも有効である
・抜けた髪や剥がれた角質などの体が捨てたとみなすものは例外
・死の効果範囲は子供が移動するのに合わせて移動する
・死ぬ人数に理論上の上限はない

以上が鮫であるダルマが47人のモルモットを使い潰して導き出した正体不明の伝染病の法則であり、更に病原である共食魚に一切の危害を加えることはできない、という謎のルールも偶然的に判明した。
そういう発見もあってダルマは2拠点生活をするようになり、夜間は研究室と名付けた港近くのワンルームで眠り、日中は辺鄙な場所に建てられた中古の平屋建てで引き取った娘と一緒に食事を摂り、たまに気が向いたら散歩に出かけ、時には弁当や菓子パンではなく簡単な手料理らしきものを振る舞い、同世代の子どもに劣らない量の勉強をさせて、1日に1本は必ず映画を見るなどして過ごした。
映画を見せる理由は特にない。だらだらと噛み合うことのない会話を続けるよりは映画を見せた方が楽で、それに映画には名作であろうと駄作であろうと、どれだけ荒唐無稽であろうと作り手の真実が埋められている、というのがダルマの考えだった。
死をもたらす病原である娘を学校に行かせるわけにはいかない。修学旅行や林間学校、部活動の合宿、友達同士のお泊り会、そういったものを断る理由をいちいち作らなければならないのであれば、最初から避けてしまった方が簡単だ。この判断には普段から出来るだけ目立たず、人間関係を増やさず、誰かの記憶に残らないよう努めるべき、という殺し屋としての合理的な振る舞いが深く関係している。それと併せて、世の中は実は案外、経歴や学歴はどうにでも誤魔化せる上に確認されることもないので、無いなら無いで人生の致命傷になることはない、という現実的な側面もあった。

「映画はいいぞー。映画には人生が詰まってる、お前は他の子どもと比べて学校や塾に行かない分、対人経験が少なくなる。それを補ってくれるのが映画だ。成人するまで毎日1本、出来れば3本は見ろ。人間としての厚みを身につけろ」
ダルマは映画を見る前と後に必ずその言葉を娘に投げかけて、テーブルの上にオレンジジュースとアンパンを用意して、ふたり並んで映画を鑑賞した。
そのラインナップに子ども向けのものが含まれることはなく、どちらかというと地味で暗くて陰鬱とした展開のものが多く、幼い娘を楽しませるようなものは無かったかもしれない。

しかしダルマには映画を見せる意図や義務感があり、娘には映画を見ている時の穏やかで退屈な時間が決して嫌いではなかった。

「ねえ、叔父さん、愛ってなに?」
「知らん」
画面の中で愛を語り合う家族の風景を眺めながら娘が問い掛け、ダルマはアンパンを齧りながら即答しつつも、しばらく手に何も持たずに考え込んでから、改めて答えを発した。それは決して娘の興味や探求心を満足させる回答ではなかったが、少なくとも嘘はなく誤魔化しでもない真摯なものではあった。
「俺も兄もおおよそ人間ってものがわかっていない。はっきり言って他人を理解できない欠陥品だ。俺は罪悪感とか同情とか寂しさとか、そういうのを感じたことが1度もない。兄も他人を愛することがなにひとつわかってなかった。俺は頑張って人間のふりを上手に熟そうと人間を研究し続けた。その成果は有って無いようなもんだが……。兄は人間を理解しようと想像力を働かせて、色んな形で人間たちの話を書いた。その時に俺たちの役に立ったものは本だ。映画を見てもわからないことは大抵本に書いてある。たくさん本を読め。本を読めるように勉強しとけ。馬鹿は罪だ、馬鹿は食い物にされるから生きてるだけで死罪に値する。そうならないように勉強だけはしっかりやっとけ」
その言葉を嘘ではないと証明するかのように、ダルマは娘を預かったその時点で既に義務教育を終える年齢までの教科書や問題集や辞書を大量に用意しており、自身の死後も勉強と映画鑑賞を続けるように遺言を残していた。

ダルマはそう遠くない時間の内に死んでしまった。
殺し屋としての探求心か、研究者としての好奇心か、それとも人間の真似事をし過ぎたのか、それは今となってはわからない。しかし親としての義務感のようなものを真似て、自分の死後も少なくとも10年は住み続けられるような絶対に現れることのない失踪した人間名義の家を構え、毎日1000円ずつ食べるに困らないように金が運ばれるように段取り、月末には数万円の纏まった金を運ばせた。遺言には勉強と映画以外にも、例えば身分証として一定の年齢になったらパスポートを申請しろとか、携帯電話を契約しろとか、そのための手続きの方法だとか、出来れば自炊をしろとか、近所の人間に迷惑をかけるなとか、どれだけ寂しくても生き物を飼うなとか、どういう種類の人間には警戒しろとか、この年齢になったら下着や容姿に気を使えとか、生理が来たらこうしろだとか、そういった生きるための手引きのようなものを事細かく書き記していた。

そして……


『16歳になって、もしも自分の能力を活かしたいと思ったなら、情報屋の百々山という男を訪ねろ』
『そんなことは思わず、なるべく誰とも関わらず静かにひとりで、誰かの命を奪わないように生きたいならこの場所へ行け』

叔父の遺言の最後に、15歳を過ぎるまでは絶対に読み進めるなと注意書きして、入念に封をしてあったページに記されていた言葉は、裏社会への手招きと叔父のいた世界からの拒絶のふたつだった。
私は情報屋の百々山君を訪ねることを選んだし、その前に指定された場所へ行ってみたけど、なにも手に入らなかった。叔父は山中の朽ち果てた見知らぬ誰かの墓の中にお金を隠しておいたつもりだったけど、大雨と土砂崩れで墓は地面ごと削り取られてしまっていて、どれだけあったのか、いくら失われたのか、さっぱりわからないままだ。でも、あの叔父のことだから、本当に一生静かに暮らせる金額を遺しておいたのかもしれないし、案外そのお金は実弟として相続した共食文樹の遺産とかだったのかもしれない。
どのみち手に入らないのだから、今となってはどうでもいいことだ。

「さーて、帰って映画でも見よっかな」

私は叔父の墓に、好きだったのか単に子どもに合わせてたのか未だにわからないアンパンをお供えして、帰りに古本屋で適当なDVDを1本買って帰った。タイトルは『デスニキビVSキラー軟膏』だ。叔父がたまに選択間違えて苦虫を噛み潰したような顔で見ていたB級映画たちだけど、私はむしろそういう映画が好きになってしまい、部屋の中には鮫が暴れたりワニが暴れたり熊が暴れたりわけのわからないものが暴れたりする映画ばかり溜まっている。


叔父はきっと草葉の陰から嘆いてるだろう、俺の教育全然伝わってねえって。


―5―【アンゴルモアの墜落】


共食文樹という小説家は愛のわからない男だったという。
幼い頃から30を過ぎても一度として他人に恋心を抱いたことがなく、そもそも興味すら致命的なレベルで持たず、試しに排泄的な性行為を何度も繰り返したりしたが、精神にぽっかりと空いた空虚な穴が塞がることはなかった。
愛だの恋だの寂しさだの喜びだのを記していれば、いつしか自分にもそんな感情が湧くだろうと思っていたが、30歳を過ぎてもそんな兆しはなく、やがて全てを諦めて、縁も所縁もない田舎に買った無駄に広い敷地の中に、無駄に幾つも建物があって、おまけにそれぞれの建物がモーテルのような独立した部屋を持つ、持て余す以外の未来が見えない建物を建てた。総数で100を優に超える部屋の中には、ただ珈琲を飲むためだけの部屋や外を眺めるだけの部屋もあり、どこまでも満たされることのない男の精神をそのまま形にしたようなものだった。
「無駄遣いにも程があるだろ、馬鹿のやることだぞ」
珈琲を飲むためだけの部屋で実弟の達磨塚吉嗣に冷めた珈琲のように見下げられるものの、そうでもしなければ頭がおかしくなってしまいそうだったのだから仕方ない。
それに目の前で呆れかえっている実弟も、れっきとしたサイコパスで生まれてから今日まで他人に対する共感能力が著しく欠如しており、大量の映画やトーク番組やドキュメンタリーを見ることで、登場人物の振る舞いや受け答えを真似することを学んだが、根の部分は冷たく空虚な持たざる者である。穴を埋める手段は違えど同じ穴の狢なのだ。

「それでだ、俺は思いついたんだが」
「いや、あんたは小説書く以外ろくなことしないんだから、小説だけ書いてろ。小説書いてる限り、一生金にだけは困らないから」
「もう書かなくても困らないんだよ。それでだ、俺は他人に一切関心を持てないが、同じ血を引いてる相手なら持てるんじゃないかと考えてだな。子どもを作ろうと思うんだ」
「家族にも一切興味ないのに、なにをどうしたらそういう発想に至るんだ?」
「親兄弟と子どもだと、遺伝のメカニズムが違うだろ。先輩作家がなんかそんな話書いてたぞ、クソみてえに売れなかったし、クソつまんなかったが」
「おおよそベストセラー作家が繰り出す感想じゃないな。どこで小説書いてんだよ? 手の甲に脳みそでも埋まってんのか?」

実弟から手痛い言葉を投げかけられたが、その小説家は昔からこうと決めたら絶対に曲げない頑固さを持つ男であった。小説家になるから就職などしないと決めたら一切の就職活動をせず、担当編集者になにを言われても話の内容は変えず、今日は話を書くと決めたらどんな予定があっても直前で断るような、そういう男であった。
そんな頑固者である男がやめろと言われてやめるはずもなく、小説家は言うまでもなく、金目当てで付き合っているだけの女にも愛はなかったが、子どもがいれば遺産の相続権が得られるという打算もあって、排泄的な性行為を繰り返した結果、女はひとりの娘を身籠った。

そして小説家が計画を思い立った約1年後、1999年7月、小説家の娘が生まれた。

「というわけで娘が生まれた」
「どういうわけか知らないが、俺はやめろって言ったぞ。知らないからな、育てるのがめんどくさくなったとか言っても、俺は絶対に手伝わんからな」
「その辺は大丈夫だ。正直、もう視界に入れるのにも飽きてるが、金はあるから医者とベビーシッターなら雇ってある」
「そうかよ。で、愛とか関心とかそういうもんは持てたのか?」
「ないな。言葉が通じない分、雇った医者やシッター以上に興味が湧かない」
「へー、すごいな。1回死ねよ」

再び実弟から手痛い言葉を投げかけられたが、小説家には金だけはあった。
子供の世話は1日3交代制で雇ったベビーシッターと医者たちに任せて、しかも泣き声が煩わしいからと100メートルは離れた別棟の建物に閉じ込めていたのだが、彼らは小説家や産みの母親と違って真っ当な人間であったので、娘はそれなりに過保護に手厚く育てられた。
しかしその真っ当さが、親娘を余計に引き離してしまうこととなり、娘の持っている正体不明の伝染病のような能力に気づくことを遅らせた。
やがて2002年7月16日の嵐の日、小説家と娘の産みの親、風雨に足止めされて屋敷に泊まったシッターとハウスキーパーたち4人は、その日は天候もあって同じ建物の幾つかの部屋で各々の時間を過ごし、荒れ狂うような雨音を煩わしく思いながら、いつの間にか全員の心臓が止められてしまった。


その後、娘は遺産目当ての親戚をたらい回しにされながら不条理な死を撒き散らし、最終的には小説家の実弟に引き取られることとなる。


―6―【ミシュコルツベイの沈没船】


世界が不条理なのは今さら言うまでもないけど、それは不条理なりに生きてこれてるから割り切れるのだ、そういう主張をする人間もいる。
世界が気に入らないなら死んでしまえばいいのに、と思ってしまうのは少しばかり暴言が過ぎる気もするけど、かといって依頼内容次第ではそう思わなくもないのが人間という生き物だ。
私は表向きは無職の暇人だけど、実は【死神ヨハネ】として、人を殺してくれという依頼を受けて暮らしている。その大半は復讐や報復で、利益や損得といった邪魔者潰しもそんなに珍しくはない。
だけど時々、受けるのも嫌になるような面倒な仕事も舞い込んでくる。

◀◀◀『……安楽死?』
▶▶▶『そうです。依頼人は孤独死寸前の御老人、安らかな眠りをご希望です』
◀◀◀『病気かなにかなの?』
▶▶▶『持病は高血圧くらいじゃないですかね。待ち合わせ場所にも歩いてきましたし』
◀◀◀『だったら断る。私は仮にも殺し屋だよ。殺せない相手を殺すから殺し屋なのであって、自殺の手助けなんてする意味がない』
▶▶▶『でもねえ、金払いはいいんですよ』
◀◀◀『自殺なんて簡単だろう。首を吊るでも頸動脈を切るでも、飛び降りるでも、飛び込むでも、どうにだって出来る。私が手を貸す必要がない』
◀◀◀『そうですけどね、金額は大きいんですよ』
▶▶▶『百々山君、機械的な返事はやめろ』

仲介人で情報屋の百々山君が持ってきた依頼は、安楽死を希望する老人の手伝いだった。
日本ではまだ安楽死は認められていないので、命を絶つには自殺するか自然死を待つしかないのだけど、体が動かせない難病でもないのだから、その辺は自分で勝手にやって欲しい。或いは自作自演なのがバレバレでもいいから、他人に依頼して形だけでもそれっぽく仕立ててくれないかって話だ。
痛いのとか苦しいのとか嫌だから、自然死したいって気持ちはわからなくはないけど、その気持ちはわかってあげるから私の気持ちも想像してほしい。快楽殺人鬼とかじゃないので、それなりの大義名分と相応の金が必要なのだ。

◀◀◀『あんまり気が進まないから、依頼人と直接話させて』
▶▶▶『いいですけど、受けてくださいよ』

百々山君、さては今月の稼ぎが厳しいな。仲介人の取り分は契約や報酬次第だと思うけど、私との契約は報酬の額に関わらず、きっちり半々。その代わり面倒事は全部押しつけるし、場合によっては百々山君の取り分から人手を出してもらうことにしている。
依頼人と顔を合わせることなんて基本的にしないし、そんなことをする間抜けな殺し屋はこの世に存在しないけど、私は絶対に証拠が残らない手口、というよりは証拠もなにも勝手に自然死してくれる伝染病を使うから、顔を合わせたところでリスクはほとんどない。あるとすれば余計な疑いを掛けられる可能性がわずかに増えるくらいで。


「あの、一切の痛みも苦しみもなく、眠っている間に安らかに死ねると聞いたんですが……」
喫茶店の奥の席に腰かけた依頼人の老人は、痩せ衰えたネズミみたいな印象の、そんな弱弱しくて小さい老人だった。
150センチと小柄な私よりも更に小さく、吹けば飛ぶどころか押せば転がり落ちるような頼りなさで、今までどうやって生きてきたのだろうと不思議に思わせる程に、小さく縮こまって俯いてるような、そんな空気を纏った老人だ。
だからといって不必要に見下げたりも見下したりもしないけど、もし自分がこのくらい年を取ったら、その時は誰にも接することなくひっそりこっそり老いさらばえよう、と素直に思ったりした。
「で、じいさん、なんで死にてえんだ?」
私の隣に腰かけるジンベエ君が、不躾に問い掛ける。依頼人と会うのは初めてだし、私の究極的に影の薄い体質が災いして、そのまま気づかれなかったらまずいので、誰か暇そうな人を護衛兼目印として寄越して欲しいって頼んだのだ。まさか送られたきたのが、殺し屋の頂点【鮫】のひとりだとは予想外だったけど、ジンベエ君は背も無駄に高くて目印にはちょうどいいので、人選としては間違いではない。喫茶店の椅子を壊しかねないくらい太っている百々山君が来るよりは正解に近い、なんせ椅子が壊れる心配がないし、通路を塞いで邪魔になることもない。
敬老精神のない人間性は完全に選択ミスだけど。

「私もねえ、まあ年だけは無駄に取ってますから色々あったんですが……簡単にいうと怖くなったんです」
老人はかつては裏社会の住人だった。彼らの言葉を使うなら地下生活者というのが正しい。
地下に潜んで様々な裏稼業を営んでいた老人は、それはもう中々に強烈な荒くれ者として肩で風を切っていたらしい。追い込んで死に至らせた人数も決して少ないとはいえず、当然恨みの数もそれに比例するように増える。なので随分前に地下暮らしから足を洗い、しばらくの間、地方の田舎でひっそりと人目を避けて生きてきたのだけど、最近自分の死期を悟って戻ってきたのだという。
「ということは、ご病気かなにかで?」
なんだ、百々山君め。ちゃんと理由がありそうじゃないか、それを差し引いても自分でどうにかしろって思うけども。
「いえ、病気はまったく。至って健康です」
なんだ、百々山君め。正しい情報を伝えてたんじゃないか、やっぱり自分でどうにかしろって気持ちが一層強くなる。
「死にたかったら自分でどうにか出来んだろ? なんで余計な金掛けてまで依頼してきたんだ?」
ジンベエ君が私より先に素直な疑問を投げかける。そう、それ。私もそこが気になる。死期を悟って、っていうのも気にはなるけど。
「だって痛いのとか怖いのとか、嫌じゃないですか。稼業が長かったせいか、ふっと死ぬ間際の人間の顔が思い浮かぶようになって……あの顔を思い出すと絶対に痛いのとか怖いのとか嫌だと、強く思うようになったんです」
こんなに虫がよすぎる話も中々出くわさない。この場合の虫は、益虫か害虫かでいえば確実に害虫だけど。
「自殺とか怖いじゃないですか。首吊りとか切腹とか、飛び降りとか、飛び込みとか、焼身とか、どれも痛そうだし、勇気がいるし。かといって服毒も苦しそうで、ああ、恐ろしい……」
「なんか引き受けてもいいような気がしてきた」
「そうかぁ? 俺は馬鹿らしくてほっとけって気分になってるが」
こんなに身勝手で惨めで情けない悪党、世の中のためにも生きているべきではない、という気持ちが少し湧いてきた。自分が他人の価値を評価できるような上等な人間だと思わないし、隣に座るジンベエ君だって功罪でいえば圧倒的に罪、善悪でいえば紛れもなく悪、居るべきか否かでいえば消えた方がいいに違いない類の生き物だけど、まだ矜持とか堂々とした振る舞いとか、そういうものがあるので。

「では、あの、私に絶対に悟られないようにお願いします。ああ、今夜死ぬんだとか考えてしまったら、眠れなくなって苦しいので」
「うわー、めんどくさい」

情けない上に図々しい注文まで付け足してきた。ただでさえ安楽死させてくれなんて図々しいお願いしておいて、さらに気づかれないようにとか、本当にめんどくさい。
私の与り知らぬところで、隕石に当たるとか餅を喉に詰まらせるとか、背後からダンプカーに突っ込まれて壁とサンドイッチされるとか、そんな非業の死を遂げて欲しい。だって、めんどくさいから。


「ジンベエ君、これはあれだよ。予期しない絞首刑のパラドックスってやつだ」
「なんだ、それ? とりあえず首でも絞めたらいいのか?」
「例えば今週中にあの老人を死なせるとして、今日が月曜日だから、タイムリミットを週末の日曜日とするでしょ。仮に日曜日に死なせるとしたら、土曜日まで生き残った時点で日曜日がその日だって気づかれてしまう。よって日曜日は除外する。その理屈でいくと、金曜日になれば土曜日は決行日だと予測できるから土曜日が除外されて、同じ理屈で金曜日が、木曜日がって除外していって、結局どの日にも殺せなくなるわけ」
あくまでも理屈をこね回す思考遊びでしかないし、別に悟られようと悟られまいと私には関係ないんだけど、私のお人好しの部分なのか、それとも死神としての無自覚なプライドなのか、どうにか悟られずにやれないものかと悩んでしまったのだ。
しかしジンベエ君の返事は、予期せぬ簡潔明快なもので、
「そんなもん、いついつ殺すからそれまで余生を堪能しとけっつって、あのジジイすぐには死ぬそうにねえから例えば3年後とかに設定しといて、油断したところをぶち殺してやれないいじゃねえか、明日明後日くらいで」
「良心の欠片もないけど、その手で行こう」
私もこれ以上考えるのがめんどくさいので、その案を採用することにした。


「そういうわけで、3年後くらいに死なせるんで、それまではのんびり羽を伸ばす感じで過ごしてください」
「うわあああああ、3年後に死ぬんですかぁ! 嫌だぁ! 怖いぃ! 死にたくないぃ! でも安らかに死にたいぃぃ!」
なんてめんどくさい老人だ。こういうのを本当の意味での老害っていうんじゃないだろうか。
「いいですか、おじいさん。人間はいつか死ぬんです、でも今日明日死ぬわけじゃないんで、恐れないでください」
「あなたみたいな20代前半の若いお嬢さんにいわれても、説得力がないんですよ! だって無いでしょ、リアルに死を考えたこととか! 私みたいに70過ぎたらですね、何回もあるんですよ! 死がリアルに迫ってきてるんですよ! 若者にはわからないでしょうがね!」
年齢マウントまでしてきた、なんでこんな謎の説教されなきゃいけないんだろ。私、なにか間違ったことしたかな。殺し屋っていう仕事が間違いと言われたら、それはもう、ぐうの音も出ない意見だけど。
「そもそも殺す側が恐れないでくださいって、どういう気持ちで言ってるんですか! あなたが殺そうとしなければ、私は死なないんですよ! なのに、死の宣告をするなんて、どういう神経してるんですか!」
ああ、もう、めんどくさい。ジンベエ君、代わりに今すぐ撲殺してくれないかな。
おい、鮫、今こそその凶暴性の出番だぞ。なんて考えながら隣の席に視線を向けると、俯いて腹に手を置いて苦笑している。なにがツボに嵌ったのかわからないけど、こっちは笑い事じゃないんだよ。
「……じゃあ、殺さないんで、安心してください」
「うおおおおお! 生きる、生きるぞー! でも安らかに死にたいなあ……」
ほんとにやめようかな。帰ってビール飲んで考えることにしよ。


◀◀◀『もうやだ! 今回の仕事、キャンセル!』
▶▶▶『え? 仕事完了したんじゃないですか? 依頼人、もう死にましたよ』


翌日、百々山君にメールを送ったら、予期せぬ返事が帰ってきた。
詳しく話を聞いてみたところ、件の老人は恐怖に耐えかねて浴びるように酒をあおり、べろんべろんに泥酔したところを近所の公園の水路に嵌って、そのまま頭を打って眠るように入水、ほどなく溺死したらしい。
結果として依頼人の望み通りの、眠っている間に安らかな死を迎えたのかもしれないけど、私からするとどうにも納得いかない、例えるなら快晴の日に急な通り雨にあったような、煙草の吸殻も落ちてない道で犬のうんこ踏んだような、腑に落ちない不快感を残したのだった。


―7―【ピカレスクモールを照らす太陽】


卑下しているわけではないけど、私は暗がりの薄い影のような人間だと思う。
究極的に影が薄いとか異常に目立たないとか目の前にいても気づかれないとか、そういう体質的な話ではなく、例えば周りに希望を与えられるとか元気を分けてあげれるとか、そういった意味合いでの陰の側なのは間違いない。仮に正体不明の伝染病が無かったとしても、私は明るく楽しく毎日が幸せ、なんて生活は送れないし、どんな暮らしをしても他人を眺めては馬鹿じゃないのって冷笑するような生活を送るに違いない。
そんな私とは対照的に、世の中には太陽のような眩しい存在もいるのだろうけど、そういうものになりたいかと問われれば、その時は静かに首を左右に振ってみせると思う。
太陽は空に浮かんでいるものであって、あくまでも照らしてくる光源でしかない。
だけど世の中には私みたいなのが秘かに暮らしてるように、逆に太陽のような存在だって暮らしてるのだ。

いつも誰かに囲まれていて、いつも誰かと笑い、いつも楽しそうにしている。
私みたいな陰日向の片側から出られない人間だからこそ、そういう照りつけるような光に目を奪われてしまうのだ。


「いつも他人と一緒だなんて、しんどそうだな……」

私の日課のひとつに散歩がある。
本来、義務教育をまだ終えてない年齢であるものの、私は自分を中心に半径30メートル以内で24時間離れず過ごしたものを自然死させる正体不明の伝染病を持っていることもあり、学校にもフリースクール的な場所にも通っていない。実際のところ、24時間一緒に行動するなんてことは、修学旅行とか林間学校とか合宿とか、そういう時くらいしかないのだけど、私を引き取った叔父は万が一に配慮して私を学校に通わせなかったし、私は私で誰かと仲良くなんて考えもしなかったので、叔父の死後も通うことはしていない。
もしかしたらどこかの公立中学校には籍があるのかもしれないけど、今住んでいる場所は父の死後に登録された戸籍上の本籍とは遠く離れているし、住民票もまだ使う必要性がないから叔父と暮らしていた町から移していない。
要するにどこかの町から迷い込んできた野良猫が、勝手に住み着いているようなものだ。実際、空き地に囲まれた辺鄙な場所に佇む、この少し古めの単身世帯向きの小さな家の持ち主とは、1度として会ったことがない。叔父の知り合いなのか、殺し屋稼業なんて営んでいた叔父が本来殺すはずだった相手なのか、それともすでに死んでいるけど死亡届が出されていないだけなのか、考えても仕方ないので考えないようにしている。少々ボロでも住めるなら十分に都、少なくともあと1年と半年以上、私の16の誕生日までは住んでもいいって言われてる。叔父からの遺言で。
そんなわけでひとり暮らしなんてしていると、時間だけは有り余るものだから、朝から散歩することにしている。朝日を浴びるとセロトニンが分泌されるというし、食べ物の買い出しも兼ねて朝から歩いている。日によっては1時間くらいで辞めることもあるし、気分が乗ったら4時間くらい歩く時もある。
そして散歩コースによっては、否でも応でも自分と同世代の学生の列に遭遇してしまう。

その光景を羨ましいとも妬ましいとも思わないし、自分があの中に放り込まれると考えたら薄ら寒いものが背筋を走る。
「いつも他人と一緒だなんて、しんどそうだな……」
でも、普通はああいう生活を経て、多くの煩わしさや少しの喜びから色んなことを学んで、そうやって大人になっていくのだ。
少なくとも家でひとりで勉強して、映画見て、本を読んで、誰とも話さずに暮らす。そういうのが正しくないことは私にだってわかる。
だけど、ヘイ、君たち、仲間に入れろよー、なんてことは口が裂けても言わない。不審者じゃないんだから。そこの距離感間違うくらいなら、一生ひとりでいいし、むしろ不審者よりは知られざる者でありたい。
それが自分から見て眩しい存在感を放っていれば尚更、薄い影のようなものに気づかないで欲しい。海岸の岩を裏返して、こびりついたちっちゃい巻貝を探すような真似をしないで欲しい。そう思うのだ。
そんなことを考えながら時々眺めていたら、いつの間にか挨拶をされるようになって、やがて話しかけられるようになった。切っ掛けは覚えてない、たぶん目が合ったとかそんなところ。
私は影が薄くて相当気づかれにくい体質だけど、対極にあると反対に目立ってしまうのだろうか。よくわからないけど、不思議と私に気づく太陽のような眩しさを持った同年代の女子と、10回に1回くらい出くわしては話をするようになった。
ちなみに残りの9回は単純に気づかれないだけだったりする。私の影の薄さも中々どうしてしぶとくてしつこい。

「え? いおちゃんってひとり暮らしなの?」
「そうだよー」
「いいなー。今度遊びに行ってもいい?」
「いいよ。別に楽しい場所でもないと思うけど」
実の親たちは既に死んでて、親戚もひとりもいなくて、育ての親の叔父も何年も前に死んでることは秘密だ。言えば相手に余計な気を遣わせそうだし、説明するには正体不明の伝染病のことを避けて通れないので、嘘設定として仕事で忙しくて滅多に帰ってこない、ということにしている。ついでに私はどこか私立の学校に通ってたけど、色々あって不登校という設定にしている。どちらも咄嗟についた嘘だけど、普段映画と本に囲まれてる生活をしてるからか、そういう設定を考えるのは少し得意なのかもしれない。
それにしても子どもの距離の詰め方ってすごいな。少し喋ったくらいで仲良し認定されるし、何度か遊んだだけで友達に格上げされるシステムは、思春期特有の現象かもしれない。私があまり害の無さそうな見た目をしているのを差し引いても、怒涛の速さに頭の方がついていかない。その速さを学ぶのが学校なのだ、といわれれば、遅れを取ってしまうのも納得だけど。
「じゃあ、明日、この場所で」
私たちは別れ際に必ずメモを渡すようにした。私の影の薄さは記憶にまで影響を及ぼすことはわかっているし、その時に次の予定のメモがあれば、中身を忘れていてもその日その場所に行ってみようという気になれるからだ。警戒心を抱かないようにメモの隅には必ず、雑でゆるめのイラストを添えて。
ひとりで過ごすことに慣れ切った私でも、その手間暇や習慣を疎ましいとは欠片も思わなかった。
雨が降って憂鬱になる時はあっても、太陽を見上げて心の陰る者はいない。当たり前にそこにあったかのように、私の退屈で変わらない日々に時々光が射すようになった。


「……来ないな」
玄関の前でしばらく待ってみたものの、その日、約束の相手が来ることはなかった。
すでに家には何度も遊びに来ていたし、自慢じゃないけど部屋はいつも綺麗にしている。もしかしたら一緒に見た映画の趣味が合わなかった、というのは可能性として消しきれないけど、前回流した名作は紛れもない名作だったので、そっちの線は薄そうだ。
なんてことを考える辺り、私も人間だったみたいだ。人間であることは疑ってなかったけど、これまで生きてて人間らしい感情を自覚してなかったというか、あまり人間らしい反応をしてこなかったから。寂しいとか落ち込むとか、心配になるとか。
ニンゲンがなんで人間って書くか、ようやく理解した感がある。人と人の間に感情が存在するから、ニンゲンは人間なのだ。
「そんな発見は求めてないんだけど……」
映画を見ながら食べようと思って買っておいたポテチを齧る。こういう時にいつもより味気ないって思う程度には、私にも人間味があったんだなって自覚する。


「なるほどねー」

空が時には曇るように、太陽だって陰ることはある。
特に人間というのはなにもかも当たり前にあると思い込んで、その価値を忘れてしまうから、太陽を陰らせることをしてしまう馬鹿な生き物なのだ。
学生の列の中にあの女子の姿はなく、100メートルくらい離れたところをトボトボと歩いている。この様子を初めに見たらなんとも思わないだろうけど、これまでの和気藹々とした様子を知っていると、自然と違和感を覚えてしまう。
私は人見知り気味に生まれたコミュ障育ちなので、こういう違和感を打破する手段は知らないけど、それでも声を掛けようと思ったのは、偏に太陽はそれでも眩しいからだ。
「どしたん? 話聞こうか?」
前にコメディ映画で見たお調子者の口調と仕草で話しかけてみる。
これが正解だったかどうか以前に、そもそも忘れられてて一瞬、誰って顔をされたのだけど、すぐに思い出してもらって積もるほどでもないけど話をしながら歩き、コンビニでチョコレートだのプリンだの買い込み、家で馬鹿馬鹿しい映画を見ながら過ごした。
私は鮫映画が好きだ。ゾンビも好きだけど、滑稽さでいえば鮫に勝るものはない。ワニや熊もなかなかに侮れないけど、鮫映画は鮫を出すために地上でも家の中でも登場させるための無理矢理感がまず面白い。水道とかトイレとか砂漠とか雪原とか竜巻とか、いちいちバリエーションに富んでるし、鮫の種類も頭が幾つも生えたものから幽霊まで様々だ。
鮫映画を3連発の怒涛の勢いで観賞して、冷蔵庫の余りもので適当に料理を作る。これでも時間を持て余してる暇人なので、オムライスくらいなら余裕なのだ。
ケチャップで『どした?』と書いて差し出すと、なにかしらのツボを突いたのか、背中を丸めて笑い始めた。作戦は成功だ、単にオムライス食べたかっただけなのだけど。

「よくある話なんだけどね……」

「……確かによくある話だね」
聞かされた話は珍しくもない、何処にでもありふれたようなくだらない話だ。
要するにいじめだ。この女子の学校では常に誰かが苛められていて、周期的にターゲットが代わっていく仕組みになっていた。人間の本能は弱肉強食という面は否定できないし、村から国まで大きな集合体というのは誰かを苛めていることで成り立つし、間違いなく誰かの平和は、どこかの犠牲の上に成り立っている。学校は社会の縮図なので、子どもは親の真似をするに決まってるし、社会で起きている現象を真似ることでどうにか成立させているのも否定できない。
彼女はそんなくだらないことには参加していなかったけど、不運にもそれが悪趣味な奴らの癇に障ったのか、無視をされるようになったそうだ。
そんなことをして何が楽しいのかも、他人から無視されることも日常茶飯事過ぎて、私にはさっぱりわからないけど、普通はそれなりに傷つくし、それなりに落ち込むし、それなりに人間不信になるらしい。そうして中学校を卒業する頃には、みんなそれなりに人間への不信感とか他人への警戒心を身に着けて、また少し大人になるのだろう。馬鹿馬鹿し過ぎて、学校に行く必要がないなって改めて思う。
「これは死んだ親が教えてくれたけど、学校なんて行かなくてもどうにかなるよ。私なんて小学校すら通ってないもん」
「……そう言われても。あれ? 不登校って言ってなかった?」
「あれは心配されないように吐いた嘘。本当は両親はとっくに死んでるし、育ての親も死んでる。学校にはそもそも行ってない。映画を見るのが趣味なのは本当だよ」
慰めるつもりが、うっかり嘘設定を白状してしまったので、真実を告げてみせる。私の環境を知って、それでも変わらず接してくれるならいつまでも仲良くなれそうだし、距離を置かれたらそれはそれで仕方ない。生きる世界が違うと割り切ろう。
「大変なんだねー、大丈夫?」
その無垢な優しさを一生持ち続けて欲しい。少なくとも周りのクラスメイトは、そういう人として大事なものをすでに失くしてそうだから。

「しばらく居心地悪い学校なんて休んで、ここで時間潰してったらいいよ。映画見てもいいし、勉強してもいいし、本読んでてもいいし」
人間を救うのは、いつだってひと匙のスプーン程度の優しさだ。
私はにっこり笑って話しかけて、ろくでもない世界のひとかけらの優しさみたいなものであってあげよう、この時は本気でそう思ったのだ。


・ ・ ・ ・ ・ ・


「で、それでどうなったの?」

昔話をするのは好きじゃないけど、たまにはそういうことを語りたくなる。
そんな時は小洒落たバーでウィスキーでも1杯傾けながら、薄暗い店内でしっとりと語ればいい。お酒はそういう気分にさせるし、そういう時の気恥ずかしさを助けてくれる。
繁華街のバー【聖書・仏陀・義理】は、神様を愛してるんだか中指立ててるんだかわからない名前の店で、優に70回以上は飲みに来てる馴染みのお店だ。マスターのカオルちゃんは性別不明の殺し屋で、【死神ヨハネ】の話も当然知っている。私がその死神ということも最近知ったし、その時はアルバムのジャケ写真の頃のチャールズ・マンソンみたいな奴だと思ってたのに、ってすごく動揺して嘆きを繰り出していた。期待を裏切って申し訳ない、こんな小柄地味小娘だとは予想だにしなかっただろう。
私は氷の浮かぶウィスキーを一口、そっと口に含んで転がしながら、喉の奥へと飲み込み、喉が焼けるような強いアルコールを楽しみながら呟いた。
「その頃の私は本気でこれがいいって信じてたんだよ」
「これ?」
「嫌な奴がいなくなったら世界は平和になる」
カオルちゃんが呆れた顔をする。
知ってる、あの子にもそんな顔されたから。

人は悟ったように言う、嫌な奴を消していったら人類は最後はふたりだけになって、相手のことを嫌ってしまう、と。
それはある意味で真実だし、おそらく揺るがない真理だし、もしもそういう状況になったら本当にそうなるんだろうけど、それでも嫌な奴がいなくなれば一時的にでも平和が訪れる。止まない雨はないし、晴れ続ける場所はない。それと同じで永遠に続く平和なんてものはないけど、それでも1日なのか1週間なのか1ヶ月なのか1年なのか、それとも10年くらいは続いたりするものなのか、人を傷つけるような嫌な相手がこの世界から居なくなれば、期限付きでも平和は必ず訪れてくれる。ただ、それがいずれ去ってしまうだけで。
「だから消したんだよね」
最初に消したのは苛めの主犯格とされた女で、それから2週間の間にあの子に明確に危害を加えた5人、一緒に遊んでたくせに見捨てた6人を消した。
叔父からもしも将来的に伝染病を金稼ぎに活かしたいなら、尾行と隠密の訓練は欠かすなと言われていたので、見つからずに人を尾ける練習はそれなりに積んでいた。私の究極的な影の薄さは、私がより深く暗く隠れようとすると、まるで世界の解像度が違うかのように誰にも見つからなくなったし、30メートル以内で尾行し続ける点において十分に役立った。
そうしてあの子が学校を休んでいる間に、モンスタークレーマーになりそうな親も含めて30人ほど消して、おそらくもう心配いらないことを告げた時に、ひどく悲しまれて、その後でしっかりと怒られて、それから二度と会うことはなかった。

「あの時は悲しかったなあ……その時に思ったよ、私怨で人を殺すのは良くないって。でも、それはそれとして悪い奴は頼まれたら殺していこうって」
「あんたねえ、なんにも反省してないじゃない」
「してるよ。でも、嫌な奴がいなくなって平和になったのも事実なの」

そう、平和は訪れたのだ、少なくともあの子が卒業するまでの一時的な時間。
あの子は私から離れた後で、すぐに私のことなんて忘れてしまったけど、私が消した嫌な奴らは当たり前だけど元に戻らない。苛めをしてた連中が何人も謎の死を遂げて、ついでに他にも何人も同時期に死んで、残された嫌な連中がお互いがお互いに疑心暗鬼に陥った結果、なんか怖いからもう何もしないでおこうという空気になったのだ。
何も起こらなければ、あとは自然と平穏が戻ってくるのは当然の流れで、しばらくして何度か笑顔で過ごしている旧友の姿を見た私は、やはり自分のやったことは大間違いでは無かったんだなと確信したのだ。決して正解ではなかったけど、大きな間違いでもなかったのだ。だって実際に平和になったのだから。
「駄目な成功体験積んじゃったのね」
「いぇーい」
「いぇーい、じゃないの。まったく、これだから殺し屋はどいつもこいつも社会不適合者なのよ」
私はカオルちゃんに向けて立てた人差し指と中指を折り曲げて、残ったウィスキーを再び喉の奥へと流し込んだのだった。


―8―【ギュラサノバの花弁】


目を覚ますと、奇妙な捻じれ具合でうねり狂った不気味で巨大な植物が、鉢植えを支えに磔にされた聖者のように伸びていた。
その植物は見れば見るほど不気味で、幹は黒ずんだ緑色、葉は茶色がかった赤、果実らしきものは牛の睾丸のような袋状で垂れ下がり、表面の敗れた実からは大量の種と共に、どう考えても入っていたはずのない質量の土気色の人間の上半身が流れ出ているのだ。
これは夢に違いない。なぜなら私の部屋に植物なんて気の利いたものはないし、そもそも鉢植えすら置いたことがない。私を中心に半径30メートル以内で24時間離れず過ごしたものを自然死させる正体不明の伝染病は、人間だけでなく動物や植物を死なせてしまうことは叔父の検証で判明しているし、わざわざ24時間で枯れてしまう植物を買ってくるような悪趣味さは持ち合わせていない。
というわけで夢なので寝よう。おやすみなさい。

「待って、眠らないで」
植物がお道化るように枝や果実を揺らして話しかけてくるけど、私は24歳の大人なので植物が喋らないことは知ってるし、なにより実から種と共に床に撒き散らされる謎の緑色の液体が臭くてしょうがない。
こんな不快な夢を見続けるくらいなら、起きて愉快な映画でも見るか、寝直してプリンの海にダイブする夢でも見直すべきなのだ。
そういうわけで、植物からの提案は却下する。私は眠る。おやすみなさい。
「待って、私たちの話を聞いて」
「やーだー、寝るの!」
「寝るのじゃありません、わがままを言うんじゃありません」
植物のくせにめんどくさい。部屋の主は私なんだから、外から来た植物にあれこれ指示されたくないんだけど、よくよく見まわしてみると、どうやらここは私の部屋ではない。ベッドの上にあるはずのクジラの抱き枕がないし、本棚にはお気に入りの漫画や義理で置いてる父の書籍はなく、見覚えのない文字の本が並んでいるし、缶ビールを入れるだけの小さな冷蔵庫の代わりに業務用の冷凍庫が置いてある。
それに床がフローリングではなく、コンクリートのように灰色で硬く、壁から蛇口とホースが吊り下がっていて、巨大な目を見開いた強面の男の生首がふよふよという滑稽な音を立てながら浮いて回遊している。
もし起きた時に覚えてたら、精神分析の本で答え合わせしてみよう。きっと碌でもない心理状態に違いない。

「そうなんです、あなたの心理状態はヤバいのです」
勝手に心を読むんじゃない、不気味植物め。不愉快なので睨むように顔をしかめると、メリメリと音を立てて幹が裂けて、他人を小馬鹿にしたような長い髪を天辺で結び、同じく伸ばし続けた髭を三つ編みにした中年男の顔が現れて、
「あまり人を睨まない方がいい。将来的に眉間の皺が深くなり過ぎて、そこから皺に寄った皮がめり込んで、そのまま全身が皺に飲み込まれてしまう」
などと意味不明な理論を語り始めた。
もちろんそんなことは起こらないのだけど、今は夢の中なので、もしかしたらそういう奇妙なことも起きるのかもしれない。
「そうそう。試しに私がやってみせるから」
ふざけた髪型と髭の男は、眉間に力を込めて強烈に深い皺を刻み込み、そのまま皺に吸い込まれるように植物すべてが吸い込まれて姿を消した。かと思うと、吸い込まれた反対側の空間から次々と枝や花弁が生えてきて、元々あった植物がそのまま再現されていく。
ただし1点だけ違うところがあり、裂けた幹にいたのは変な髪型の髭の男ではなく、著書やネットの画像でしか見たことのない亡き父、共食文樹だったのだ。

「ん? 何処だここは?」
「いや、私に聞かれても……」
なんだかすっかり目が覚めてしまったので、父の問いかけに思わず答えてしまう。夢の中ですっかり目が覚める、というのも矛盾まみれの妙な言い回しだけど、気分的にはすっかり目が覚めてしまってるのだから、そうとしか言いようがない。
「お前は誰だ? 何処かで見た覚えがあるが」
「おめーの娘だよ、馬鹿が」
問いかける父の隣で、垂れ下がった果実が裂けて亡き叔父、達磨塚吉嗣が血色の悪い病人みたいな顔を現わした。
「え? じゃあこの地味でパッとしない感じの子が私たちの娘なの?」
新たに別の果実から現れたのは、なんていうか知性を感じさせない類の派手目の女で、口ぶりからするとこれが私の母親らしい。
「おお、あんなに小さかった子がこんなに大きく」
「あの頃もかわいらしかったけど、今もそれなりにかわいいじゃないですか」
「いや、私は薄気味悪いって思ってましたよ。赤ん坊なのに何の病気にもかからないんだから」
「いいじゃない、健康で。我々はこんなになっちゃいましたけどね」
「たらい回しにして済まなかったねえ、こんなことなら最初から吉嗣に任せればよかったわ」
「え? こいつ、誰?」
「そんなことより、ここ何処なの? 私たち学校から帰って、それからどうなったんだっけ?」
「あー、パパが浮いてる! パパー!」
次々と見覚えのない大人たちや初老のおばさん、どこかで見たことあるような少女たち、更には全く知らない幼女まで現れて、植物はホラー映画にでも出てきそうな人の成る樹にすっかり成れ果ててしまった。

「……で、あんたたち何なの? なにか言いたいことでもあるの?」
「ああ、そうだった。お前に言っておくことがあったんだ」
代表して叔父がこっちに向き直り、なんだか自分が奇妙なことになっていることに気づいたのか、一旦果実から完全に外に出て植物を折り紙のように畳んで、小さな掌に乗るサイズまで凝縮させて、そのまま窓を開けて外へと放り投げた。
なんとなく個人的な恨みがこもってそうな投げ方だけど、兄弟なんてやってたわけだから、父との間に確執のひとつもあったのかもしれない。
「さて、久しぶりだな、魚」
魚というのは私の戸籍上の名前だ。魚と書いてイオと読む。叔父は本名のギョホネで呼ぶことはしない、なぜなら活舌があまり良くないから。
「元気そうでなによりだが、お前が元気ということは死んだ人間もそれなりにいるということで、その点に関しては複雑なところがある」
「そのめんどくさい言い回し、そういえば叔父さんはそういう喋り方するなあって思いだした」
「そういうお前も、どちらかというと面倒な言い回しをしてるが……俺の教育が行き届いていると喜ぶべきか。こんなに教育の才能があると知ってれば、殺し屋じゃなくて学習塾でもやっておけばよかったかもな」
「絶対やめた方がいいよ。叔父さん、興味本位で子ども相手に実験とかしそうだから」
叔父はマッドサイエンティストだ。育てられた私が言うのもアレだけど、絶対に子どもたちに近づけてはいけない人種の筆頭だと思う。
「それもそうだな。ところで魚、俺たちがこうして夢の中に出てきてやったのは、」
あ、夢の中なのに夢の中だって白状するんだ。その辺の誠実さも叔父っぽいな。私の記憶の叔父を夢で再現してるんだから、そういう細部が叔父っぽいのも当然なんだけど。

「お前が死なせた人数が2000人に達したので、それを知らせに来てやった。本来は1000人のタイミングで来るべきだったが、ほら、カルト宗教団体の信者で1200人も稼ぐから。ちなみに明言するまでもないが、個人で殺めた数ではダントツの1位だ、おめでとう。いや、めでたくはないな。人なんて死なないに越したことはない。とにかくだ、次は5000人の時に来る予定だが、もうこんな仕事は辞めて、俺たちに手間取らせないように。じゃあな」

叔父はそう言い残して、自らの体を折り畳んで部屋の中のなにもない空間に消えた。
最後には気味の悪い部屋と、空中に浮かぶギョロ目の生首しか残っていないので、仕方なく生首に目線を向けると、
「……俺か? 俺はよくわからねえが、気づいたら行列に並ばされていてだな。てっきり俺たちみたいな悪党は地獄に落ちるかと思ったんだが、地獄も満員みたいで順番待ちなんだとよ」
まったく私の望んでない答えを吐き出して、パンっと風船のように破裂した。


そうして夢から覚めた私は、なんか変な夢を見たなあって考えながらも、夢のないようなんてさっぱり覚えていないので、冷蔵庫を開けて缶ビールを気付け薬代わりのビールを握りしめた。


―9―【グレイヴヤードの祝祭】


仕事というものは、あったらあったで面倒で厄介だけど、無くなるとそれはそれで困る。
殺し屋、特に私のような反則スレスレな奴には世の中の景気はあまり関係ないと思ってたけど、急に仕事が無くなった時はさすがに笑ってしまう。面白くて笑うのではない、笑うくらいしか反応しようがないから笑うのだ。
「……ははっ」
空っぽになった百々山君の事務所を見渡して、渇いた笑い声を上げる。
デブの情報屋の百々山君は、殺し屋に依頼を渡す仲介業も営んでいたのだけれど、先月から一切連絡が取れなくなって、仕方なく様子を見にきたらこれだ。事務所はもぬけの殻、というには乱雑に散らかっていて、彼が使っていたパソコンはご丁寧に側面から何箇所もドリルで貫かれ、元々さして置いてなかった現金は床に散らばった小銭を残して一切合切が消えていた。
強盗にでも入られたのか、それとも同業者に目障りと思われたのか、何者かの恨みを買ったのか、そんなものは私に走る由もないし、おそらく百々山君本人にしかわからない。
ただ幾つか言えるのは、薄情にもこれといって衝撃も受けてなければ落胆も同情もしてないこと。元々いつ死んでもかしくなさそうな不健康なデブだったので仕方ないよなあとしか思っていないこと。あとは私と連絡を取れるのは百々山君だけだったので、もう仕事を依頼されることはないという現実が降ってきたくらい。
不幸中の幸いは、デブ過ぎる情報屋がいつ死んでもおかしくないと思ってたので、報酬には最低限しか手をつけずに残してあり、贅沢でもしない限り食うに困らない程度の金があることだ。私の不幸ではないけど。

究極的に影の薄い私の体質からいって、まともな仕事にありつくことは不可能だ。接客業なんてその最たる例で、他にも事務仕事、工場、警備、まあ全部無理だし、機械との致命的な相性の悪さという秘匿性からユーチューバーとかコールセンターなんかの仕事も当然出来ない。
最も適した仕事は泥棒だけど、泥棒はさすがに仕事と言い張るには少々図々しすぎるきらいがある。そんな反社会的な仕事をするくらいなら、細々と無職で居続けた方がいい。
父が人格はともかく売上的に偉大な作家だったので、文章のひとつでも書いてみせたらいいのかもしれないけど、私はどうにも文才がない。前に短編小説を書いてみようと思い立ったことがあるけど、1行も書けずに缶ビールのロング缶が空になったことがある。それも6本も。
あとは、それこそ可能性がないけど金持ちとの結婚という選択肢もあるけど、私は自分の不適格性を他人の能力や資産に乗っかって補おうとする浅ましい根性が気に喰わないと思っているので、そんな恥知らずな真似はしたくない。そんな道を模索するくらいなら、堂々と胸を張って無職であるべきだ。
張るほど大したものはないけれど、ここはひとつ、大いに胸を張ってやろうじゃないか。
そういうわけで、殺し屋の頂点【鮫】をも上回る【死神ヨハネ】はこれにて廃業、今日からここにいるのは共食魚という、ひとりの地味で目立たないひっそりと生きる25歳の無職の女なのだ。

ちなみに界隈は急速に店仕舞いの傾向にあるらしく、情報屋の百々山君だけでなく、老舗の武器屋や偽造屋、運び屋、葬儀屋、その他様々な地下生活者たちが引退したり高飛びしたり、行方不明になったりしているそうで、どのみちさして景気も良くなかった殺し屋たちはそういう潮目もあって一気に姿を消した。個々の能力が飛びぬけている鮫といえど、所詮は海の中でしか生きられない。潮目が悪くなれば陸に上がって暮らすしかないのだ。
でもまあ、鮫は殺しの能力に長けている分、生き残る能力にも長けているので、きっと生き意地汚くどうにかしているだろう。中東辺りで傭兵になったり、南米あたりでマフィアになったり、アフリカあたりで海賊になったり、あるいは日本でヤクザになったり、そういう姿は容易に想像できる。特に多少なりとも交流のある鮫の面々は、といってもジンベエ君とイタチちゃん他数名くらいだけど、きっとクレイジーなジャパニーズモンスターとして悪名を轟かせるに違いない。
何処にも行けないのは私だけだ。


『死神ヨハネって知ってる? どんな相手でも殺してくれるんだって』
『願いごとを送ったら天使を派遣してくれるらしいよ』
『返事もらった人もいるんだって』
『あいつ死んだじゃん、ヨハネが消してくれたって聞いたよ』


百々山君が姿を消したのと同じくして、SNS上では死神ヨハネの噂が急速に拡がり、いつしか実態と程遠い都市伝説が独り歩きし始めた。噂の中でのヨハネはどんな相手でも殺してくれる殺し屋で、死神の手足となって死へと導くケトスと呼ばれる天使たちを引き連れているという。
願いを叶えてもらったって証言の99%は、近年のSNSにはびこる陰謀論者やインプレッション稼ぎの業者の類が捏造した嘘なんだけど、ごく稀に1%ほど信憑性のある話も流れてくる。ニュースで流れてくる情報と推測される死因や原因が、証言と異常なまでに一致するのだ。
しかもここ数日で死神ヨハネの噂は一気に現実味を帯びてきた。フェイク動画も含めた数秒から数分のスナッフフィルムが泡のように湧いては消えて、その中にヨハネであろうと思われる人物が映っているのだとか。
「いや、私は映像には映らないんだけど……」
私が映像に映らないのは今さら説明するまでもなく、撮ろうとしても一切の映像機器を拒絶するかのように黒い靄のような姿で映ったり、カメラを向けた途端に故障したり、録画したはずのデータが再生できなかったりするわけなので、当然そのヨハネは私のことではないのだけど、噂の方のヨハネは元々イメージされていたキリスト教の聖人みたいなイタリアン髭モジャ男っぽさがあるので、むしろこいつの方が本物なんじゃないかと思わせる説得力がある。
確かに黒髪で小柄で地味なそこら辺に歩いてそうな風貌の女と、長髪でしっかりとした髭の生えた目つきのヤバい外国人だと、どっちがヨハネだクイズをした時に逆張り主義者以外は全員ヤバい外国人を選ぶ。私だってそうする、我ながらヨハネっぽくなさがすごいから。
おまけに天使たちとされる連中が、丁寧に剃った坊主頭で髭どころか眉毛すらなく、しかも全身に拘束衣のような服を着ているせいで、さらに暴力的に説得力を高めるのだ。庇を貸して母屋を取られるとは、まさにこういうことだと思う。貸した覚えはないけど。
「やれやれ、私が最近仕事しないからって、どこのどいつだか知らないけど……」
名前に誇りを感じたことはないものの、内心面白くないので毒づきながらビールを飲んだりしていると、都市伝説は更なる暴走を始めてしまった。


『見た? 死神ヨハネの生配信』
『あれって本物なの?』
『本物でしょ。イメージ通りの人だったよ』
『配信で名前出た奴、次の日に死んだってニュースに出てたよ』


生配信の動画は数時間後には削除されたけど、世の中に流しても許されそうな部分は切り抜かれて、あっちこっちにアップロードされた。
そこに映っている男は、見た感じ50代半ばに達してそうな、髪を長く伸ばして口元にしっかりと髭を生やした宗教家めいた風貌の持ち主で、体の各部に聖書の言葉を引用して彫っていた。
『Ask, and you will receive, that your joy may be full(求めよ、さらば与えられん)』とか『You shall love your neighbor as yourself(汝の隣人を愛せよ)』とか、そういう有名な言葉から信心深い人だけがわかるものまで色々と。
ますます私に偽物感が漂ってきたな、とか考えながら動画を見ていると、新しくタイムライン上を流れてきた映像の中で、本物っぽい方のヨハネがこう呟いた。
「諸君、私はこれから死を撒き散らす。君たちの頭上を膨大な量の死で埋め尽くす。魔王の腹すらも満たし尽くす数の死者の魂を、神へと奉げるのだ」
仰々しい台詞を吐いて、キャラ作りすごいなと感心する。
でもそういう物騒なのは、どこか遠くでやってくれないか、とも言いたい。私は死神ヨハネなんて呼ばれてたけど、別に人が死んだり殺したりされるのが好きなわけではない。猫とか犬とかのモフモフした生き物と、キンキンに冷えたビールが好きな、ゆるふわ女子みたいな者なのだ。

スマホの画面を消して、冷蔵庫の中の缶ビールに手を伸ばした瞬間、外で映画でしか聞いたことのない轟音が響いた。
何事だろうとSNSで爆発とか火事とかで検索を掛けると、拘束衣のスキンヘッドの男が雑踏の中で爆発する映像が見つかった。見覚えのある場所で、すぐにうちの近所、この部屋から300メートルくらいの地点だとすぐに気づいた。
なんて傍迷惑な連中だ。これだからカルト野郎共は嫌いなんだ。
この日、更に地下鉄の駅やショッピングモールも含めた数ヶ所で爆発や放火、大型トラックの衝突などが起きて、今まで半ば面白がって囃し立ててた連中も手首の関節が捩じ切れるくらい掌を返すほど、死神ヨハネの悪名は轟き、同時に最悪のテロリストとして地の底へと落ちた。


『最悪。誰だよ、あんなの褒め称えたの。責任取れよ』
『なにが死神だよ、クソテロリストが』
『ファッキン■■■■!』


人間の掌返しというのはすごいもので、よくもまあこんなに掌がくるくると回るものだなって、妙に関心してしまう。ビート板とか持ってたらそのまま空を飛べるんじゃないかな。
なんて面白くもない感想を抱えながら、床にぐでんと寝転がる。
それにしてもあの偽ヨハネ、人の名を騙ってとんでもないことをしてくれたものだ。いったい何人の死者が出たのやら、もしかしたら100人では利かないかもしれない。なんて連中だ、本物のヨハネだってそんな人数……。
ふと自分の受けた依頼の数と、仕方なく巻き込んだ人数も含めて大雑把に計算する。最初は指を折って、すぐに指では足りなくなって頭の中で数字を晩酌の時の柿の種のように積み重ねて、途中で面倒になって一気にざーっと大皿に流し込んで、
「仮に100人として、私の20分の1以下か」
所詮偽物だなって鼻で笑い、すぐに自分の罪深さとか業の深さに呆れ返る。
そのままナメクジか尺取虫みたいに床を這って冷蔵庫まで体を伸ばし、缶ビールとチーズを手に立ち上がったのだ。


▷ ▷ ▷


その男は生まれながらに罪深い男であると同時に、奇妙な信仰心を持っていた。
幼い頃から共感性に欠けて他人の気持ちが一切理解出来ず、強烈なまでに頑なに自分の世界を抱え込んでいた。
親からも周りからも見捨てられた男は当たり前のように悪の街道と突き進み、自身の死を偽装して表の社会から姿を消して地下生活者と成り、なんの巡り合わせか殺し屋の元締めと出会い、やがて鮫のひとりとなるまでに至った。
男の手法は鮫の中では珍しい部下や代理人を使うといったもので、玉砕覚悟の特攻やガスや爆弾を使った自爆も含まれていた。
そうして標的以外の死を積み重ねていく内に、男の耳にとある死神の噂が届くようになった。
死神ヨハネ、鮫をも上回る殺し屋で誰もその正体を知らない都市伝説のような存在の殺し屋は、どんな相手であっても24時間で確実に仕留めてしまうという。
男は見たこともない死神を神と錯覚し、自分の積み重ねてきた死が神を生み出したのだと思い込むようになった。
やがて噂の最初の出処である情報屋が失踪を遂げたと同時に、死神ヨハネへの信仰を全て乗っ取ってしまおうと考えた。

そうして神の依り代として自らの体を使い、死神の代行者としてヨハネを名乗り、神に更なる信仰心を捧げるために膨大な死を作ろうと画策したのだ。


「ミシェヌェオルクォーツデ レェメクァゾイルクォーデフォナーヌ ミシェヌェフォヌラム」
男は独自に創り上げた言語で賛美歌を口ずさみながら、呑気にシャワーなど浴びていた。
神への祈りの前に身を清めるのは男にとっては当然の身嗜みで、それが生贄を捧げた後であっても例外ではない。排水溝には椿のように鮮やかな赤色が溶けた水が流れ、男の目の前には聖母を思わせる女の彫られた人皮らしきものが吊り下げられている。
その忌まわしくも耽美な聖母に向けて、男は身を清めながら両手を合わせて祈りを奉げ、賛美歌を口ずさみ続けた。
たっぷり30分ほど水を浴びた男は、部屋の中央に飾った奇妙な像に向けて跪き、両手を大きく広げてみせた。
その像は実に奇妙な姿で、体は8本足の馬のようで、それぞれの足は捻じくれた樹木のようで、大蛇のように長い首を伸ばして、頭部は人間を模したものの大きく口が裂けて、その中から無数の触手がクラゲのように生えている。体の表面には無数の眼尻の裂けた半ば剥き出しの眼球が並び、肋骨ごと大きく開いた腹の下には金貨と頭蓋骨を乗せた揺り篭がぶら下がり、背中にはさかさまに生えた胎児が何体も並んでいる。
この奇妙な像が男の信じる神の姿らしく、像を見つめる男の表情には恍惚と陶酔が浮かんでいた。
「神よ、今宵も贄を受け取り給え。ブェシーア、ノユクーダ、ベーミキェツ……」
男は像の前で長々と懺悔なのか自慢なのかわからない昔話を垂れ流し、両手を握り締めて祈り、ブツブツと呪文のように独自の言語を繰り返している。
まさかさっきから一部始終、全部まるっと見られているとは思いもせずに。
そう、私が赤の他人で偽物を称するこいつの過去だの心情だのを知っているのは、像に向けて2時間近くも語り続けていた懺悔めいた時間を聞いたからに過ぎないし、風呂場だのなんだのの様子も堂々と隠れて覗いていたから見た通りを説明しただけなのだ。
そして今は、喋り終えて爽やかな表情で髪を掻き上げて、冷蔵庫の中からワインを取り出している。銘柄的に結構な値段のする美酒で、こんな奴に飲ませるのは勿体ないと思う。こんな奴は溜めた雨水か、魚をぎゅっと握り潰した絞り汁でも飲んでおけばいいのだ。


「……ようやく寝たか」
かれこれ23時間以上、間違っても見つからないように息を潜めて傍にいたけど、興味もない上に悪意しか抱かない、おまけに勝手に死神を名乗る偽物のカルト野郎を眺め続けるのは苦痛にも程がある。
しかし私にもそうしないといけない事情があって、仕方なくカルト野郎の部屋にいるのだ。

【私を中心に半径30メートル以内で24時間離れず過ごしたものを自然死させる伝染病】

これが死神ヨハネの正体であり、鮫を上回る殺し屋と呼ばれる所以そのものだ。究極的に影が薄いとか映像に映らないとか武器も拳も届かないとか、そういうものはあくまでもおまけでしかなく、手を下さずとも息の根を止める死神の名にふさわしい伝染病こそが真骨頂なのだ。
どれだけ数をこなそうと、どれだけ凄腕だろうと、自らの手で或いは誰かを使って命を奪う限りは単なる殺し屋でしかなく、死神を名乗るにはひとつもふたつも足りない。命を奪う力とか理不尽さとか、そういうものが。
私の流儀として死なせる相手には名乗らないし、正体は教えないようにしてるのだけど、夢見心地のまま死なれるよりは偽物だと自覚して死んでもらいたい。なんというか私にしては珍しく注文を着けて、あの世に行って欲しいのだ。
だって私の異名が滅茶苦茶にされたから。
「起きろ」
残っていたワインをだばだばと顔に向けて流して、カルト野郎を無理矢理に起こす。
ゆっくりと目を開いた間抜けの視界で、どれだけ認識しているかわからないけどしっかりと自己主張して、
「よく聞け、偽物。私が死神ヨハネだ。間違ってもあんな気持ち悪いのじゃないから、その辺をちゃんと理解して死ね」
奇妙な姿の像を指差して、正面から堂々と事実を突きつける。
寝ぼけていたカルト野郎の頭の線が繋がったのか、上体を起こして床に転がしていた杭に手を伸ばし、私の咽や胴に向けて突き出して見せるけど、途中で腕の筋が断裂したり、肩や肘の関節が外れたりして一切届かずに、わけがわからないといった表情のまま心臓を止めて、糸の切れた操り人形みたいに床の上に転がる。

腕時計に目線を落とすと、きっかり24時間ちょうど。理解させるにはもう少し時間があった方が良かったかもしれないけど、相手は鮫なので全速力で逃げられて30メートル以上離れられると苦労が無駄になる。苦労というか不快な時間のストレスとかだけど。


▽ ▽ ▽


「それにしても百々山君は、居なくなってからもいい仕事するな」

昨日、まったく見ず知らずのアドレスからDMが届いた。
送り主は百々山君の代理人を名乗っていて、もし彼が姿を消した後で死神ヨハネに関する妙な動きがあった時は、私がごはんの写真を乗せるためだけにやってる暇つぶしのSNSへ連絡をするように頼まれていたらしい。
送られてきた内容はエンジェルの異名を持つ鮫の写真と居場所、どうやら百々山君はカルト野郎の企ても事前に情報として入手済みで、失踪後のアフターサービスとして準備していたのだという。
寿命が心配になる体型の割に、仕事面に関しては実に優秀だ。その努力と段取りの良さを健康に使えればよかったのに。
でもまあ、最後の仕事がこういう形になるのは、不本意だけれども後腐れなくて良かったのかもしれない。
ここまで悪名が轟いてしまったからには、死神ヨハネとして仕事をしようとも思わないし、かといってきっちり後始末はつけたので馬鹿でもない限りは死神ヨハネを名乗る偽物も出てこないはずだ。世の中には馬鹿が多すぎるからわからないけど、そんなところまで責任は持てない。そもそも私の責任じゃないし。



かくして私の死神としての仕事は幕を閉じた。

実はこの後にも疲れ果てる程の大仕事が舞い込んできたりするのだけど、またそれは別の話だ。
今は帰ってビール飲んで寝たい。だって、仕事後のビールはたまらん、と昔から言うじゃないか。


(終わり)