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誰かの定めた型など手放して、自分の色を思い出す。

「定型」とは、
常識からはみ出た部分をトリミングして定型の型に上手くハマっている状態の事であり、
「定型」と言う人たちは実在せずに
「みんな同じ」に切り抜くための「型紙」
ーーつまり人ではなく、平均値の事なのではないか。

ASDと引き合いに出す定型というのは
「コミュニケーションが問題なく取れる人」
という型で
ADHDと引き合いに出す定型は
「社会生活が問題なく送れる人」
という型になるだろう。


世の言う「定型」とは、社会生活に支障のない人たち、はみ出た部分(個性)を押し殺して生きてる人たちのことを指しているだろうから、実際には、そのままの自分100%でこの社会生活に支障のない人間など一人もいないとも言えるのではないか。
だから、その中でも「定型」のパターンからはみ出たまま自分を貫いて生きてるように見える人は、度々、魅力的に映る。反面、いざ自分と親密に関わるとなると受け入れるのが難しく、時に自分の眠った傷に塩を塗りたくられる存在になるのではないだろうか。

そして、
定型の型に収めようとしても、収まりきらず、実際にはみ出て社会生活の弊害となってしまうのが所謂「発達障害」と呼ばれる領域なんだと、私は勝手に解釈している。


結論から言うと、今時点の定型も非定型も、名前や型に関わらず、
「どんな自分も自分自身が受け入れられるか?」
という問題な気がする。

つまりトリミングして見えなくなったり、継ぎ足して背伸びしている自分も含め、良い悪いではなく、許容し愛せるか?が問題の根本なのでは、と。

自己愛=他者愛なので
自己愛性人格障害などは
自分を満たすために、相手を自分に合わさせようとする時点で、自己も他者も受け入れられてない。執着する様子と、愛している事はまったく別物だ。
人に自分を愛させて満たそうとする事と、自分で自分を受け入れ満たす事とはまったく真逆のベクトルだ。

とにかくどんな自分も(過去の傷を含め)否定せずに受け入れられるかどうかだ。どんなに平均値からはみ出てしまった自分の個性も受け入れられるか。
でないと、他人のはみ出て見える部分まで受け入れることは難しいのではないかと思う。

それで私の場合はまず、「はみ出たまま生きてる夫が羨ましい」という自分の丸裸な気持ちに気付いた。

それならば、自分のトリミング(我慢や抑圧)しちゃった部分や過去の満たされなかった感情もぜーんぶ、何一つ否定せずに、自分の中で丸々受け入れてあげようという作業をここ一年くらい続けている。夫に腹が立ったり、イライラしてしまう自分すら、俯瞰した視点で受け入れていく。「今私、ムカついてるね〜」など。最初は難しかったが、慣れてくるとこれが意外と楽しい。
この精神状態になってから、私は他人をどうこう言う暇がないくらい充実している。

 そんな私も結婚当初は、真正面から問題を受け止めすぎて、定型社会に合わせて生きてきたのに、今度は普通からはみ出てるコミュ障な夫にまで合わせなきゃならないなんて…!冗談じゃないと思ったし、本当の自分を更に押し殺してしまい、感情はカラカラに干上がって、息が詰まる心地がした。

発想の転換が必要なのはまさに、ここだと思う。

誰かのつくった「定型」という型、「ASD」という型こそ
お互いにとって邪魔なものだ。

あなたはあなた、私は私。

シンプルな考え方にこそ真理がある。
実は、私たちの壁というのは、「ASD」にあるとか「定型」にあるとかではなく、その「型」にハメようとする考え方そのものにあるのだと思う。

そしてそこから、
ASDを無自覚な夫は、無自覚も何も社会生活において支障がなく、一人で生きる分にはそれほどトリミングする必要がなかったのは事実なわけだ。

だけど夫婦をやるとなると、
他人と隣合って歩調を合わせなきゃならないから今までとは勝手がだいぶ変わる。

そこでやっぱり社会生活での「定型」は無視できたとしても
「私たち夫婦」という"器"を作っていく作業は少なからずはじまる。
大なり小なり、どの夫婦もそうであるように。

だからこそ単純に、「個性的」と感じる人との共同生活は、定型からはみ出た部分が大きいからこそ合わせるのも大変だ。逆に言うと、ただそれだけのことだ。
また、個性的な人と釣り合い結婚する人もまた個性的だとも言えるだろう。

 個性的と言っても、独身時代から飲み友達が適当におり、親兄弟を大切にし、職場でも特に問題ないのは、単純に夫の人から好かれる性格の良さを物語っていて、ましてや私に暴力や暴言をふるうわけでもない。よくこれが周りに分かってもらえず苦しむカサンドラの原因だと定義されているが、カサンドラもまた一つの「型」だ。世間一般の定義よりも、目の前の夫と自分の感覚を私は信じる。個性的な相手と一番近い距離感にいる自分の心境を、その円の外にいる人に分かってもらえないのは、これも当然の話だ。「定型」という平均値から大きくはみ出た個人の集まりが「定型家族」の型にハマるわけもないし、自分たちが納得いく「個性的な夫婦の型」をつくれば良いのだと、私は思う。これも、ASD限らずどの夫婦や家族も本来、オーダーメイドのはずなんだけれど、一般常識が邪魔をしてそれが許されない場面も多い。だからこそ、一般常識という型にハマった考え方自体、「家庭外」に向けて使うものであり、個人を大切にする「家庭内」に向けるものではないと思う。こうして、世の中を見渡すと自分ではない誰かの作った「型」だらけなのだ。

 話を戻すと、夫は他人と「気持ちの共同作業」をするのは私が初めてだった。だから今いい歳して(これも刷り込まれた一般常識)私から初めて共同作業のし方を学んでいる。私も教えながら学んでいる。

この社会全体が強烈なモラルハラスメントとも言える状況だからこそ、家庭という自分の選んだ人との生活では、夫と自分の個性を潰さないように心地よく過ごせる場にしたい。そして、その試行錯誤を楽しみたい。

つまり、社会が作りあげた幻想である「定型像」こそ、私たちの首を絞めていた。
今だって喧嘩したりぶつかる事はあるけど、自分たちの家だから、気楽にやろうよ、と思う。

夫は自分自身を大切にし、「型」をがっつりスルーして伸び伸びと生きてきた人で、私は世に言う「定型像」に寄せるために、無意識で長い枝や葉っぱを切り落としたり足りないところを継ぎ足したりしてきたタイプだ。私は切り落としたはずの枝や葉っぱを拾い集め、本当の自分を見つめはじめた頃から、夫の自由さに腹が立つ事はなくなっていった。
むしろ、お互い自分の個性のまま自由にやろう!だけど困った時は一番に協力し合おう!すごく大雑把に言うと今の我が家は、そんな感じだ。
これを手放しでできるようになったのは、ここ一年ほどみっちりと信頼関係を育んで来た成果だと思う。

社会でも「定型像」に合わせ、家庭でも「定型家族像」に合わせ、個性をトリミングしていく…これじゃあ、あなたが、私が、自分らしさをどんどん失い、人に上手に合わせて無害化し、何のために生まれてきたかさえ分からなくなってしまう。

「合わせる=調和」とは、同化して透明になるという意味でなく、それぞれの色を混ぜ合わせるという事なのではないか。あなたはブルー、私はイエロー。しっかり自分の色があるからこそグリーンがつくれる。違う色味だからこそ新しい色を作れるのだ。
 夫婦の折り合いについて考えていくうちに、意外にも自分自身に植え付けられていた没個性的な考え方の呪縛から解放される事となった。だけど、没個性の考え方が主流である今は、私もまた、変わり者になっていくのだろう。
それでいい。無色透明になってしまうより、よっぽどいい。

社会より個人の方が私にとって遥かに大切だ。それに、このような考え方が世間一般に広まれば、常識がひっくり返る時がくる。私はそう信じている。だって、調和の考え方って誰も傷付けない。何が悪いのだろう?むしろそれが一般的でない方がとても不思議で仕方ない。

 そして「あなたも私もこの窮屈な世界で、無事生き抜いてくれて、今日もありがとう!」と言い合える相手がいる事こそ、本当の安らぎではないかな。
また、その安らぎのある相手にこそ、日々協力し合って生きていこうという覚悟が、自然と湧くものではないだろうか、などと思うのだ。

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