見出し画像

情動の共有は、ボーナスステージ。

 はじめに、私の考える「感情」と「情動」の定義について、今時点の考察を書いておきます。

"感情"は、自然と湧き上がるもの。人間のエネルギー源。
「嬉しい」「悲しい」「楽しい」「腹立たしい」
感情そのものに良し悪しや時間軸はなく、自分がそれを「今この瞬間」に認識し、自分で自分に共感してあげる事で味わい尽くせる。感情には理論はなく、エネルギーそのものなので、言語化する事なく他人と共振する事ができる。

"情動"は、読んで字の如く、感情を時間軸や空間で繋ぎ合わせた感情の動き、ストーリーのこと。本来、目の前の事実に意味はないが、人それぞれが紡ぎ出すストーリーは、感情フィルターを通して意味付けされた自分だけの体験なので、他者に話して正確に伝わる事はまずないと言える。恐らく、このロジックの事を「心の理論」と呼んでいる。自分の情動は、言語化しないと他者には伝わらない。


 これらの事から、本当の意味での「情動的共感」は自分自身でしかできないと私は思う。
 人はそれぞれ違った視点を持っているので、違う事が前提の「認知的共感」を基本にした方が、認知異文化同士の意思疎通は上手くいく。


 記事の更新はご無沙汰していましたが、去年の春以降、実は地味に一番辛かったかも知れません。
 と言うのも、ASD特性や愛着の知識を必要なだけ学び、やれるだけの事はやり尽くした感がありまして、それでも尚、夫婦間の意思疎通が上手くいかない…という現象に、割と絶望感を味わい、私は少し抑鬱状態になってしまいました。

 よく聞く、ASDとのパートナーシップを続けるなら、大きく分けて二つ、『ASDを理解し療育しつつ歩み寄る or 離れる』くらいしか私は聞いた事がありません。うちも、去年は行き詰まってシェアハウスのように距離感を保って暮らす事を試していたんですが、全然生活が楽しくなくなってしまい(まぁ当然ですが…)、最終的に離れて暮らした方が良いのかな?となり、なんだか腑に落ちなかったんですね。
 それで、こんなのおかしい!!なぜ二択なんだ?夫とは一緒に楽しく暮らしたい!他に方法はないの!?

3つ目の選択肢

 ある時、自分の中にまたしても、「円満な夫婦生活と自分のやりたい事どちらを取るか?」の二択しかない事に気付き疑問を持ちました。そして、
夫婦生活 or 自分のやりたい事のどちらかではなく、私にとっては両方必要!!
と、覚悟を決めました。

そう決めるという事は、夫との間に情動の共有を求めない事とイコールでもあります。

でも、自分が一緒に居る事を望み、選ぶのならそこは自ずと腹を括る部分になりますし、その先に自分の目的イメージがはっきりしていたので、私が夫といて一番居心地が悪かったのが「情動」が通じない事だったにも関わらず、不思議とそれが大した事には感じなくなっていたのです。

 それまでも少しずつ自分の中で小さな気付きを積み重ねていたと思います。
 まず、当たり前なのですが、夫が他人の情動が分からないという事が気になっていたのは、私なんですよね。だから、そこには私が情動を人と共有する事への拘り、執着があるんだと気付いて、少しずつ一人の時間(=自分と居ること)を楽しむようになりました。勿論、自分の中に湧き上がる感情は大切なエネルギー源なので、抑えつけたり、否定したりして我慢するとやる気もなくなってしまいます。
 そのためにも、感情にのまれないように俯瞰する癖をつけています。例えば、怒っている時は、自分は腹が立っているな…などと客観視し、むしろしっかりと認識するなど。そうすると、感情にのまれて軸がグラグラしやすかった自分の内面が穏やかになっていくのが分かりました。

 人間は、自分自身のフォーカスを通して現実世界を見ているので、簡単に言ってしまえば、自分の今見てる現実が気に入らないのなら、自分の視点を変えれば良いという事なんですよね。
 実際、私が自分の事で忙しくなった時、非常に勝手ながら、夫に情動が通じないとかいう事はどうでも良く感じたんです。その時、この自分が満たされた状態が続けば、このまま気にならなくなって、夫婦間の問題は解決するんじゃないか?とピン!と来たわけです。
 自分以外の事が気になる時というのは、そもそも自分自身の中に不安や恐れ、未解決の問題などがあって、やりたい事があるのにできず満たされていない状態です。それを直視したくないから、外に意識が向くんです。自分で自分を受け止めてあげないと解決しない場面で、逃げてしまうわけですから、ある意味甘えです。これは、この一年ちょっと自分を内観するようになって分かるようになったんですが、私の場合は「自分のやりたい事が夫と揉める事によってできなくなっている」と恐れ、思い込んでいたんですよね。
 そこに私の意識はフォーカスしていたわけですから、その通りの現実を日々描いてしまっていたのです。これは意識エネルギーの性質上そうですし、自分自身を観察してきて本当にそうだなぁと、日々実感しています。

違いを知り、自分を満たす

 男性脳と女性脳の違いは、事実面と感情面の二つの割合の問題だと思うんですね。女性の方が、感覚的に感情を感じ取る事ができ(右脳的)、男性は事実面を考えるのが得意(左脳的)です。それは基本的に女性には子供を産む能力が、男性には外敵から守る能力が備わっているからですが、一般的な男女の場合は、比重の違いはあっても、事実面と感情面の円が少しは交わっていると思うんです。でも、うちの場合は、夫は事実面オンリーで、私はほぼ感情面オンリーの真っ二つといった両極端な感じなのです。そりゃ話が合うわけがないのですよ。
 これはお互いの得手不得手がハッキリ分かったから私が感覚的に分かるようになったんですが、夫とは事実面の話を楽しむようにして、夫の分からない感情面の話に共感は求めないようになりました。ここで重要なのは、冒頭にも書いた通り、あくまでも"会話上の"「情動」の共有です。その場での「楽しい」「嬉しい」「悲しい」という「感情」の共有はできるんです。

 嫌がらせでもなんでもなく、夫は感覚的に感情を捉える事ができないので、抽象的な話への共感の言葉を私が求めても、お寿司屋さんでステーキを注文しているようなものです。だから、夫に分かりやすい話を選ぶようにして、夫の喋りたい話を聞くようになりました。
 ただ、ここに至れるには、まず夫が親しい人間関係に多くの人が必要とする「情動」を他者と共有する作業がすっ飛んでいるという自覚がある事と、私自身が自分で自分の機嫌を取り、感情を満たせるようになったというのが大きいです。そのためにも私は、理屈よりも感覚に重きを置くようにシフトしていきました。理屈や理論は脳の解釈なので、感覚が違う同士の言語はどうしてもズレますが、感覚は体験したその時の表情、リアクションなど言語を介さず、夫と私それぞれの真実そのものだからです。

「人にエネルギーを奪われる」それを許しているのは、自分です

 私が自分を満たせるようになるために何をしたかと言えば、徹底的に我慢をやめていきました。嫌なことをする我慢や、やりたい事をやらない我慢ですね。
 我慢をするとエネルギーが削れるんです。エネルギーが削れてると、目の前の相手から無意識に奪おうとしてしまうのです。だからまず、自分が何に我慢をしているかに気付いてやめていき、自分が楽しいと感じる事だけに専念していったんです。やらなければいけない事は「積極的に自分からやる」という意識です。それだと我慢が少し軽減されます。とにかく「嫌々やる」をなくしていったら、自分にエネルギーが戻ってきて、夫の話に耳を傾ける余裕と、自分の楽しい事をやる気力ができていったというわけです。
 それで夫も家庭の中でエネルギーが削られないようになったら、余裕ができてきたみたいで、落ち着いてやり取りできるようになったんですよね。すごく好循環に切り替わりました。
 今まで実は、私が定型的なコミュニケーションを求めて、夫のエネルギーも削ってしまってたんですね。
 他人と感情の共有をする事はとても楽しく豊かな事で、情動の共有は、更にパワフルな喜びを得られます。でも、それがないと生きられないとなると、他者がいないと自分が成り立たない、依存状態という事になります。自分で自分の機嫌を取れていない状態ですね。自分一人でも十分楽しめる自立した状態になると、他人と共有して楽しむというのは、あくまでも「ボーナスステージ」という認識になっていきます。
 つまり、自立した人間にとって、人のせいで自分が満たされないなんていう事は存在しないのです。例えば、夫が分からない事を私が説明しなければいけない場面など、エネルギーが奪われていくような感覚がありましたが、説明する/しないも私が選べる事。実際、自分で選んでいる事なのです。人にやらされている感覚というのも、不満を抱いてしまうので、自分のエネルギーを削ってしまいます。

すべてやってみて出た答え

 長くなりましたが、夫の特性に寄り添うか、離れるかどちらもやってみて、多数派の中に紛れてしまって気付かなかった自分の拘りや執着に気付いたところから、私のフォーカスが変わっていきました。私の意識が夫婦間での情動の共有に執着し、フォーカスしている限り、問題が消えるわけがなかったんですよね。叶わない事に執着していたのですから。
 その深層心理には、情動の共有がなくなってしまった世界への恐怖があったのですが、自分から感情がなくなるわけではないし、実際は、夫への余計な期待や依存心がなくなって軽やかになっていきました。それに、私が「今の感覚」に全意識を集中するマインドフルネスを身につけてから、その場その場で、2人の感情を感じる事で共有できるようになってきたのです。
 そして、私はいつでも体験したいと思えば、情動を他者と共有する世界を体験する事はできます。情動の共有ができる相手とすれば良いだけなのですから。夫の現実世界には元からその部分がないだけです。単純に、私が情動の共有の相手役を夫に求めるのはナンセンスだというだけの事です。

 答えは至ってシンプルなのですが、このシンプルさを腑に落とすには、社会システムへの疑問や自己受容やマインドフルネス、エネルギーの知識など、多岐に渡る新しい情報と知識を得て、思考のアップデートが必要でした。
 自分の考え方の基盤となっている、子供の頃から刷り込まれた古い考え方や、ドラマや映画などメディアで画一化されてしまった感性を疑って、手放していく作業は、ある程度の労力やタイミングが必要となりますし、自分の中の傷付きや燻った感情がある場合、こういう話は痛くて受け付けない時もあります。また、子育てや過酷な労働などで我慢する事が多く、無意識の我慢が溜まっていると、我慢しない人が羨ましく、妬みの感情が湧き上がったりもします。エネルギーの観点から見ると、人間社会はエネルギー争奪戦が日常なわけです。お金があるとか、地位、名誉があるとか、目に見える事とは全く関係なく、自分が満たされている状態の人が実は一番、柔軟で強いのだと感じます。
 我慢は美徳どころか、良いことは一つもありません。今我慢すれば次の我慢を生み出し、自分が我慢すれば他人にも我慢を強いてしまうのです。同じ我慢でも、自分のしたい事(目的)のために今は我慢している…と認識するだけでも、ダメージは全く変わってきます。因みに、今現在の私は、ほとんど何も我慢をしていませんが、全く他人の事が気になりません。自分が満たされていると自分を尊重できるので、興味がないわけではなく、むしろすべての他者に対しても自分と同じように尊重の気持ちが持てるようになりました。

 やはりすべては意識の使い方次第で、自分の答えは自分の中にしかありません。
 相手がどうこうではなく、「私はどうしたいのだろう?」これを常に自分に問いかける。それで、私の出した答えは、夫婦生活が自分のやりたい事を邪魔しているという思い込みを手放し、人から見たら欲張りだとかいう他者視点の考えも手放していき、「どちらも自分にとって必要なもの」と捉え直し腹を括り、自分の意思を自覚し、その先をイメージした事で、負のスパイラルから抜け出られたようです。今ではすっかり抑うつ状態からも回復できました。

 最終的には、夫のASDだとか愛着だとかの問題は事実としてあったとしても、私の現実とは全く関係ないんですよね。私の問題は私が問題として捉えるから問題として見えているわけです。夫は他者との情動の共有にフォーカスがいかないわけですから、問題として捉えるわけもなく、夫は夫の現実を体験しているだけなのです。

 別の問題を別の問題に、自分の問題と相手の問題をつなげて考え、こじつけて絡み合っているように見える…大抵の場合、そうやって問題を複雑化してしまっていると思います。答えはいつだって、自分の中にあり、とてもシンプルなものなんだと思います。


 と、言うわけで、私の思考や視点はnoteを書き始めた2年前からだいぶ広がり、価値観もかなり変わりました。よって、今までの『ASD×定型夫婦』のマガジンとは区別をしていきたいと思います。
 今後は定型範疇の常識をアップデートし、集団の中の一部としての自分ではなく、個々人を重視する多様化の考え方に焦点を当てて『思考のアプデ』マガジンに記事を投稿していこうと思いますので、興味のある方は、これからも、どうぞよろしくお願い致します。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?