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その角を曲がった先に、ペンギンはいない

先月、「映画『打ち上げ花火 下から見るか横から見るか』がつまらないと言うやつは読解力がないだけ」というツイートをしたところプチプチ炎上した。大量の空リプの嵐が僕を襲い、僕のツイートをスクショして晒しあげる悪質な粘着垢もあった(怖かった)。

僕の表現に不適切な部分があったことは大いに認める。「つまらない」と言っている人を十把一絡げに「読解力なし」とするのは横暴だった。しかし、一部の反応には受け容れられないものがあった。

「多くの人が理解できない=駄作だ」
「自分は中の上の理解力はあるから、その自分が理解できないということは失敗作だ。」(とんだ思い上がりである……)

世の中には、自分が「わからない」ものを「駄作」と切り捨てる人が一定数いる。
衝撃的な発見だった。

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『ペンギン・ハイウェイ』という作品がある。
主人公のアオヤマ少年が、突如街に現れたペンギンの謎を探って冒険する物語である。

アオヤマ少年は、「ペンギン」という「謎」に対して思考停止しない。
むしろ「謎」は彼にとって原動力である。
「知りたい」という知的好奇心が、彼を謎の解明に向けて走らせるのである。

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アオヤマ少年の例のように、「わからなさ」は必ずしも作品にとってマイナス要素ではない。

「どうしてこんな表現をしているのだろう?」「どうして彼はここでこんな行動を取るのだろう?」

こうした謎は、観衆を作品に惹きつけるフックである。「わからない」からこそ「知りたい」と思い、作品にさらにのめり込むのである。

しかし、彼らはこの謎を前にすぐ思考停止してしまう。少しの「わからなさ」に直面すると早々と作品に見切りをつけて「つまらない」と断じてしまうのだ。

だから、彼らに足りないのは読解力ではなく「知りたい」と思う心、つまり知的好奇心かもしれない。

彼らはなぜ知的好奇心がないか。
月並みで暴力的な論だが、何でも調べたら「答え」が出てくる時代だからではないか。「答え」があるから知ろうとしない。考えようとしない。「答え」が溢れている現代において、彼らは「謎」との戦い方を身につけられなかったのだ。



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謎と戦う力。
それは、問いを立て、自ら解決する能力だ。
教育業界の専門用語では「課題発見能力」「課題解決能力」と言うが、これらが現代の人々に欠如している能力かもしれない。

データの裏付けがあるのかと言われたらそんなものはない。昔からそんな力を持っている人は少なかったのかもしれない。
しかし、小中学生を実際に教えている僕の現場の感覚では、子供たちはその若さを加味しても、驚くべきほどに世界の事象に無関心だ。あるいは、どうやって興味を持ったらいいのか、その方法がわからないのかもしれない。
(だから、僕も授業の中では彼らが教科的な知識に興味をもつきっかけを与えるように意識している。)

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『ペンギン・ハイウェイ』は作者、森見登美彦の「街角に急にペンギン(=不可思議な存在)が現れたら面白い!」というワンアイディアで生まれたという。

「答え」の氾濫する現代において、街中に存在する「ペンギン=謎」を発見して解決しようと動くことのできる人間は少ない。
多くの人は「ペンギン」など視界に入らずに通り過ぎてしまう。

映画とは実に差別的なものである。一部の人にしか「謎」は見つけられさえせず、その魅力の半分も観衆に与えないのである。その点、ある種の映画は知的上流市民の特権的な愉しみである。(自分にもまだまだ問いさえ立てられないくらい難解だと思う作品が多くあるから、僕は知的貴族ではない。)

例えば『天気の子』はエンターテインメント作品としても素晴らしかった。しかし、「災害」と「男女の出会い」という意図的な『君の名は。』との連関に引っかかり、新海誠監督のインタビューを読んでその意図の深さに唸ってしまった。(詳細は是非色々ググってほしい。)
ここまでの意図の元に『天気の子』が作られているとどれだけの観衆が気付いているだろうか。ほんの一握りに違いない。

そう、「謎」に気づくのは一部の人だけなのだ。

一部の人だけがスクリーン上で「ペンギン」を見つけニヤニヤと笑い、気味悪がられるのである。

そしてきっとこのnoteも「ペンギン」のようなものだろう。




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