ミスチル狂信者がスピッツ入門するための覚え書き
スピッツを勉強したい!
……この思いは結構昔からあったのだが、なかなか手をつけられずにいた。
それには理由があって、スピッツが表現する世界が、僕の愛するミスチルとかなり離れたところで展開されているような気がしていたからだ。
このコロナ期間でスピッツ、ミスチル双方がライブを無料公開していた。それを見比べて疑念は確信に変わった。
スガシカオ曰く桜井和寿は「顔の面積が大きい、みたいな歌い方をする」。
要は、ライブパフォーマンス中の表情の変化、身振り手振りが大きく派手なのである。
良く言えば華があり、悪く言えばしつこい。
そんなミスチルのライブに慣れ親しんでいる僕にはスピッツのライブは異様だった。
「この人、全然動かないやん!」
ずっとギター弾きながらスタンドマイクで歌っている草野マサムネを見ながら、僕はこの人の音楽が好きになれるだろうかと不安になってしまった。
ここで勘違いされたくないのは、僕はスピッツの幻想的な世界観にカッコ良さを感じていて、好きになりたいということである。しかし、まだ沼にハマれない。なぜなら、ミスチルの文脈に染まりすぎてスピッツの文脈を理解する土壌がないからだ。
そして、ミスチル文脈とスピッツ文脈の距離が遠い。予想よりも遥かに遠い気がする。これからはミスチル狂信者として「スピッツもミスチルも両方好き!」なんて軽々しくのたまう奴は全力で「お前はミスチルの何が好きなんだ!言ってみろ!」と質問責めしようと思うくらいには遠そうだ。
ライブパフォーマンスで世界観が違うと判断するのは早計だと言う人もいるかもしれない。しかし、歌い方ひとつとってもそのアーティストの表現である。この表現の在り方はそのまま歌の特徴に出る。と思う。
僕からすると、桜井和寿は犬、草野マサムネは猫である。
桜井和寿は感情がわかりやすい。クシャクシャの笑顔で笑って、ステージ上を駆け回る。ブンブン振っているシッポが見えるようである。
草野マサムネは掴みどころがない。ちょっとわかったかなと思っても、スルリと身をかわして避けていくような感覚がある。こいつぁ、完全に猫である。(私見です。的外れだったらごめんなさい。)
犬派と猫派なんて、キノコとタケノコの次くらいに対立するものだ。でも、同時に犬派が猫カフェに行って「あ、猫も意外と良いじゃん」となることもよくある話だ。キノコ派がタケノコ派に転じることはなくとも、「そもそも甘い物は食べないんです派閥」よりは理解し合える土壌がある。
そういう意味でミスチルとスピッツは同じ大地にありながら、異なる文脈という地域の上にいる様な気がしている。そもそも初めから理解し合えない音楽ではないということだ。
ここで言う「同じ大地」とは「一つの世界観」が作れることである。
例えばギターや歌がうまいアーティストというのが世の中にはいるが、単なる音の良さだけの音楽は僕は好きになれないだろう。それはその世界での良さがあるんだろうけど、「畑が違う」のである。
その点、スピッツにはスピッツ世界観がある。幻想的だという形容しか思いつかないのが歯がゆいのだけれど、このスピッツを語る語彙の少なさこそスピッツ文脈への理解のなさの現れなのだろう。
しかし確かにスピッツには、スピッツ節があって「スピッツのあの感じ」と言ってイメージする確固たる世界がある。僕はこの世界に触れてみたい。
近いようで遠い。遠いようで近い。
そんなスピッツ沼に、僕がハマれる日は来るのだろうか。
※ちなみに最初の写真は、ミスチルとスピッツがそれぞれ『旅人』というタイトルで曲を作るという企画の際に、ミスチルが出したCD(『旅人』は3曲目に収録)のジャケット。
追記
大学時代、友人のスピッツファンに「ミスチルの方がベトベトしてて、気持ち悪いイメージ」と言われたのをふと思い出した。
その発言はミスチルを貶そうというものではなく、その人の率直なミスチルへの評価だった。
確かにミスチルは、痛い時は痛いと、辛い時は辛いと、そのままに叫ぶ歌が多いかもしれない。
だからこそ等身大の人間の苦悩に、「僕だけじゃないんだな」「桜井さんが立ち上がるなら僕ももう一度頑張ろう」と背中を押される思いなのだが。
しかし、それは人によっては生々しく気味の悪いものに映るだろう。
一方、スピッツはどうなのだろうか。
悲しみや苦しみが歌われないわけではない。
しかし、それをそのままに表出するのではなく、芸術として昇華しているような気がする。
門外漢の私見だが、どうなのだろう。
現実を歌うか、芸術を歌うか。
ミスチルとスピッツの違いはこの辺りにあるのではないか。
……そう定義すると余計「スピッツとミスチル両方好き!」は相当センスがないような気がしてきた。「猫と犬両方好き!」もセンスねえもんな。反論お受けいたします。
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