芥川龍之介「羅生門」を読む11(最終回)~下人の心情の変化とまとめ

まず、下人の心情の推移を、グラフで順に示す。

以上から分かる通り、下人の心情が次の瞬間にどうなってるかは、誰にもわからない。まったく予測がつかないのだ。従って、前回も説明した通り、夜の底に駆け下りていった下人がその後どうなるかは、誰にもわからない。夜が明ければ朝になる。その時に下人の心情がどうなっているかは不確定だ。
確かに下人は、老婆から、悪の論理を受け取った。悪も許されるのだという、全く新しい概念・価値観を獲得したのだった。
しかし、とかく人の心はうつろいやすい。老婆の悪の論理が、下人の心にしっかりと定着するとは限らない。むしろこの下人の心情の変化の様子を眺めてみると、やはりこの後も下人は、善と悪との間をさまよい続けることが予想される。まだ若い下人の心情が次々に変化する様子は、我々自身にも思いあたるだろう。

このように考察を進めてくると、「羅生門」に対する印象が当初よりだいぶ変わってきていることに気づく。悪を体現した老婆の印象があまりにも強すぎるため、下人も悪の論理に完全に染まるという、悪の世界を描いた物語であると読まれがちだ。しかし、実は、人の心の移ろいやすさをテーマとして描かれたものであることが分かる。 主人公の下人も、この後、完全なる悪になるとは限らない。彼の心も移ろいやすい。
人の心は容易に変化する。善と悪という価値観についても同じだ。
「羅生門」は、善と悪に揺れる人の心を二元論的に描いたものだが、現実の社会においては、そのどちらでもない場合も多くある。完全なる全でも完全なる悪でもない場合が多い。老婆の論理でも、生きるための悪は、完全なる悪ではないとする。悪ではあるが、悪ではない、パラドックス。

生きるための悪・罪を、日々犯している我々が、この物語をどのように考え、判断するかが、「作者」から問われている。

その一方で、前回説明した、第二の解釈も可能だ。暗黒の世界へと弾き飛ばされてしまった下人は、真っ暗闇の海を後悔の波を受けながら泳ぎ続けなければならない。一時(いっとき)、老婆の悪の論理に従ったばかりに、そのような地獄から抜け出せなくなってしまった。

善と悪の間を迷い続けるにせよ、暗黒の世界を泳ぐにせよ、いずれにしても下人に安楽の時は訪れない。少しでも悪に身を染めた者は、そうなる運命なのだろう。

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