芥川龍之介「羅生門」を読む2~廣い門の下には、この男の外に誰もゐない。(コオロギもいるよ)

    廣い門の下には、この男の外(ほか)に誰もゐない。唯、所々 丹塗(にぬり)の剥げた、大きな圓柱(まるばしら)に、蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる。羅生門が、朱雀大路(すじやくおおぢ)にある以上は、この男の外にも、雨(あめ)やみをする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子が、もう二三人はありさうなものである。それが、この男の外には誰もゐない。

(青空文庫より)

「廣い」門の下の空間には、「この男の外(ほか)に誰もゐない」という設定が、何度も繰り返される。読者は、下人がただひとりであることを共有・共感せねばならぬ。
「一人の下人」、「廣い門の下には、この男の外(ほか)に誰もゐない」、「蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる」、「羅生門が、朱雀大路(すじやくおおぢ)にある以上は、この男の外にも、雨(あめやみ)をする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子が、もう二三人はありさうなものである」、「それが、この男の外には誰もゐない」。
このように見てくると、このあたりの部分の説明はすべて、下人はたった一人であることを表している。それはしつこいほどだ。もちろん、下人だけであることを述べつつ、物語の舞台の説明・情報も、それとなく入れ込んでいるところが巧みだ。

羅生門は、平安京の正門で、朱雀大路の南端にあった。高さは20メートル余り。朱雀大路は、平安京中央を南北に貫く大通りで、道幅は80mほど、長さは4㎞ほどとみられる。
羅生門は、都と鄙(ひな)を隔てる境界だった。そこは、都市と地方・異界を截然(せつぜん)と区切る砦(とりで)だ。その内と外は、まるで違う世界だった。規律・法の世界と混沌・無法の世界の境目・中間地点であるはずだった場所に、下人はいま存在している。しかし今や、その内側も無秩序な世界になっている。

羅生門を現在に例えると東京駅だろうか。
だからそこに人が「誰もいない」というのは、特殊・異常なことだ。
物語は、いつもと違うところから、何かが始まる。

「所々 丹塗(にぬり)の剥げた、大きな圓柱(まるばしら)」から、繁栄と秩序の世界だったはずの都の荒廃が述べられ始める。柱にペンキを塗り直すお金も手間も配慮も既に失くなっている状態。

下人の他には、「唯」「蟋蟀(きりぎりす)が一匹とまつてゐる」だけだ。命を持つものは、下人と蟋蟀(今のコオロギ)のみという、薄ら寒い場所。もちろん、下人と蟋蟀に交流は不可能だが、蟋蟀を取り上げずには、生あるものが下人の他には全く存在しない場所が羅生門だ。つまり、ことさらに蟋蟀を登場させることで、まだかろうじて虫は(生き残って)いるが、人間は下人しかいないことの強調になっている。下人の他には人っ子ひとりいない東京駅は、この世の終わり・終末ということになる。アキラの世界だ。

この蟋蟀は、いわば、下人の相棒だ。ひとりと一匹は、ある意味仲良く雨宿りをしている。やがてそのうちの一匹はいつの間にか退場するのだが、その鳴く音は、雨音とあいまって、舞台の寂寥をいや増すだろう。
そもそも、鳴かなかったら、それがそこにいるとは気づかなかった。つまり蟋蟀は、泣くことによって自己の存在を主張し、その音は舞台上の下人を浮き上がらせる効果を持つ。柱は大きく立派なのに、丹塗は剥げているというアンバランス。それは世情の不安定と混乱を表している。蟋蟀もいつまでも柱にとまっているわけではない。やがては舞台から去るのだ。それは下人も同じ。

この、本来いるべき人々がいないという設定は、次のように繰り返し具体的に説明される。
「羅生門が、朱雀大路(すじやくおおぢ)にある以上は、この男の外にも、雨(あめやみ)をする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子が、もう二三人はありさうなものである。それが、この男の外には誰もゐない。」

「この男の外には誰もゐない」ことのリフレイン。
後に、誰もいないはずの羅生門に、もうひとり、老婆が登場する。自分だけでこの場所を専有していると思い込んでいた下人は、それに気づき驚くのだが、舞台の上には下人しかいないことの強調は、門の上に潜む老婆の存在の意外性を高める効果を持つ。
「門の下には、この男の外(ほか)に誰もゐない」のに対し、門の上には老婆が隠れている。

ところで、たったひとりであるにも関わらず、実はこの下人は、それほど孤独を感じていない節(ふし)がある。まだ若い男なので、その生命力からだろうか。

「雨(あめやみ)をする市女笠(いちめがさ)や揉烏帽子」は、それを被る女と男を表すが、それが少なくとも「もう二三人はありさうなものなのに、」やはり「この男の外には誰もゐない」。
いくら荒廃が進む羅生門とはいえ、東京駅のホームに人影がないのは、異常事態だ。やがて蟋蟀も姿を消す。下人はこの世にたったひとり取り残される。普通であれば、彼に待つものは、死だけだろう。

以上の通り、今回取り上げた部分は、はじめと終わりが「この男の外には誰もゐない」で挟まれた形になっている。 その間に、命あるものとしての蟋蟀を配置し、それに対していつもはいるはずの人々がなぜか今日はひとりもいないという情報をサンドイッチした形になっている。説明が円環を描き、読者はまた振り出しに戻ったような気分になる。

あらためてこの部分をもう一度考えたい。
下人の他に雨宿りする人がいないということは、よほどこの近辺を通る人がいないことを表す。若い下人でさえ雨宿りするほどの雨の降り方。それにも関わらず、下人の他には誰もいない。羅生門周辺は、よほど人々に忌避されている、立ち入り禁止の区域ということになる。すると逆に、なぜそのような場所に下人はたった一人でいるのかということの意味が問われるだろう。後に説明されるが、このあたりには盗人が棲んでいる。強盗に襲われる可能性が高い危険区域だ。であるならば、一刻も早く通り過ぎ、立ち去らねばならない。それなのに、この下人の態度は悠長だ。のんびりしている。のんびり、頬のニキビなんか気にしてしまっている。下人はそれだけ自分を取りまく「悪」に慣れてしまっているとも言えるが。
つまり、この状況は、一人の男が、ただ、門の下で雨宿りをしているというのんびりした場面ではないのだ。彼はいつ身に危険が迫るともわからない場所・状況にある。
物語は悪の時代・場面だ。それは都であろうと同じこと。弱い者には死が待つ。油断ならない日々。そのような現実を下人は生きている。

下人は通りすがりのものである。彼は、羅生門を目的地として来ているのではないことは、意外に重要だ。下人にとって羅生門は、目的地ではなく通過点だということを押さえておきたい。
「駅」には物語がある。物語が生まれる場所が「駅」だ。
下人はどこからか来て、どこかへ行こうとしている。いま、羅生門にいるのは、たまたま雨に降られたからだ。雨宿りは一時的なものだ。雨が上がれば、下人がここにいる必要はなくなる。
だから彼は、足止めされた状態にある。一般的に足止めは、とても宙ぶらりんな状態だ。本当はすぐにでも移動したいのに、それが何かの理由・力で、許されない。心が焦(じ)れる。
ただ、この後の下人の行動については、「下人は雨がやんでも、格別どうしようという当てはない」と述べられる。だから、「格別どうしようという当てはない」下人がなぜそこにいるのかは、また別の問題となる。

〇あとがき
「羅生門」は、簡潔で短いけど密度が濃い物語で、なかなか先に進みません。まだ形式段落の2段落目までしか読んでいないのです。
でも、急がず地道にいきたいと思います。
「こころ」の続きはまだ先になりそうです。

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