芥川龍之介「羅生門」を読む10~下人の行方は誰も知らない

    下人は、太刀を鞘(さや)におさめて、その太刀の柄を左の手でおさへながら、冷然として、この話を聞いてゐた。勿論、右の手では、赤く頬に膿(うみ)を持つた大きな面皰を氣にしながら、聞いてゐるのである。しかし、之を聞いてゐる中に、下人の心には、或る勇氣が生まれて來た。それは、さつき、門の下でこの男に缺けてゐた勇氣である。さうして、又さつき、この門の上へ上あがつて、この老婆を捕へた時の勇氣とは、全然、反對な方向に動かうとする勇氣である。下人は、饑死をするか盗人になるかに迷はなかつたばかりではない。その時のこの男の心もちから云へば、饑死などと云ふ事は、殆、考へる事さへ出來ない程、意識の外に追ひ出されてゐた。
「きつと、そうか。」
 老婆の話が完ると、下人は嘲るやうな聲で念を押した。さうして、一足前へ出ると、不意に、右の手を面皰から離して、老婆の襟上(えりがみ)をつかみながら、かう云つた。
「では、己が引剥(ひはぎ)をしようと恨むまいな。己もさうしなければ、饑死をする體なのだ。」
 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとつた。それから、足にしがみつかうとする老婆を、手荒く屍骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅(わづか)に五歩を數へるばかりである。下人は、剥(は)ぎとつた檜肌色の着物をわきにかゝへて、またゝく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
 暫(しばら)く、死んだやうに倒れてゐた老婆が、屍骸の中から、その裸の體を起したのは、それから間もなくの事である。老婆は、つぶやくやうな、うめくやうな聲を立てながら、まだ燃えてゐる火の光をたよりに、梯子の口まで、這つて行つた。さうして、そこから、短い白髮(しらが)を倒にして、門の下を覗きこんだ。外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。
 下人は、既に、雨を冐して、京都の町へ強盗を働きに急いでゐた。

(青空文庫より)

「下人は、太刀を鞘(さや)におさめて、その太刀の柄を左の手でおさへながら、冷然として、この話を聞いてゐた。」
「太刀を鞘(さや)におさめて、その太刀の柄を左の手でおさへながら」は、もう老婆と争う気持ちがないことを表す。またこれにより、老婆も、太刀の刃に恐れることなく、自分の気持ちを表現することができる。さらに言うと、老婆の悪の論理を聞きながら、次第に下人も、老婆側に寄っていく様がうかがわれる。下人も老婆側の人間になる ことを暗示している。
「冷然と」は、老婆なりに小癪(こしゃく)な論理展開をしたので、何を偉そうに、という態度。また、老婆の悪の論理の正当性を心で図る様子。

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