芥川龍之介「羅生門」を読む7~檜肌色の着物を著た、背の低い、痩せた、白髮頭の、猿のやうな老婆

    下人は、それらの屍骸の腐爛(ふらん)した臭氣に思はず、鼻を掩つた。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩ふ事を忘れてゐた。或る強い感情が、殆(ほとんど)悉(ことごとく)この男の嗅覺を奪つてしまつたからである。
 下人の眼は、その時、はじめて、其(そ)の屍骸(しがい)の中に蹲(うずくま)つている人間を見た。檜肌色(ひはだいろ)の着物を著た、背の低い、痩せた、白髮頭(しらがあたま)の、猿のやうな老婆である。その老婆は、右の手に火をともした松の木片を持つて、その屍骸の一つの顏を覗きこむやうに眺めてゐた。髮の毛の長い所を見ると、多分 女の屍骸であらう。
 下人は、六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸(いき)をするのさへ忘れてゐた。舊記の記者の語を借りれば、「頭身(とうしん)の毛も太る」やうに感じたのである。すると、老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めてゐた屍骸の首に兩手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱(しらみ)をとるやうに、その長い髮の毛を一本づゝ拔きはじめた。髮は手に從つて拔けるらしい。
 その髮の毛が、一本ずゝ拔けるのに從つて下人の心からは、恐怖が少しづつ消えて行つた。さうして、それと同時に、この老婆に對するはげしい憎惡が、少しづゝ動いて來た。――いや、この老婆に對すると云つては、語弊があるかも知れない。寧、あらゆる惡に對する反感が、一分毎に強さを増して來たのである。この時、誰かがこの下人に、さつき門の下でこの男が考へてゐた、饑死をするか盗人になるかと云ふ問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であらう。それほど、この男の惡を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のやうに、勢よく燃え上がり出してゐたのである。
 下人には、勿論、何故老婆が死人の髮の毛を拔くかわからなかつた。從つて、合理的には、それを善惡の何れに片づけてよいか知らなかつた。しかし下人にとつては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髮の毛を拔くと云ふ事が、それ丈で既に許す可らざる惡であつた。勿論、下人は、さつき迄自分が、盗人になる氣でゐた事なぞは、とうに忘れてゐるのである。

(青空文庫より)

羅生門の2階を覗き込んだ下人は、「屍骸の腐爛(ふらん)した臭氣に思はず、鼻を掩」う。下人の嗅覚は、思わず鼻を覆うほどの強烈な刺激を受ける。「しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を掩ふ事を忘れてゐた。或る強い感情が、殆(ほとんど)悉(ことごとく)この男の嗅覺を奪つてしまつたからである」。
強烈な匂いを全て忘れさせるほどの「或る強い感情」とは何なのか?

「下人の眼」が捉えたものは、「其(そ)の屍骸(しがい)の中に蹲(うずくま)つている人間」だった。「檜肌色(ひはだいろ)の着物を着た、背の低い、痩せた、白髮頭(しらがあたま)の、猿のやうな老婆」。
老婆は猿のようと形容されるが、そのすばしっこそうでずる賢そうな様子からも、このように形容されたのだろう。油断ならない存在だ。

しかも老婆は、「右の手に火をともした松の木片を持つて、その屍骸の一つの顏を覗きこむやうに眺め」るという異常な行動をしている。
その相手は、「髮の毛の長い」「女の屍骸」。

下人は、「六分の恐怖と四分の好奇心とに動かされて、暫時は呼吸(いき)をするのさへ忘れてゐた」。この、「六分の恐怖と四分の好奇心」が、先ほどの「或る強い感情」だと一般的には解釈される。しかし、「殆(ほとんど)悉(ことごとく)この男の嗅覺を奪つてしまつた」「或る強い感情」が、「六分の恐怖と四分の好奇心」だとされることが、私は不審だ。嗅覚を失うほどの「強い感情」であれば、例えば、恐怖100%にならないか?  そこをある意味冷静に、 60%と40%に区分けする・できる余裕・説明に、違和感を抱く。一つの感情で心が塗りつぶされるのなら分かる。
よって、「或る強い感情」と「六分の恐怖と四分の好奇心」は、別の感情だと考える。「或る強い感情」に襲われた後で、「六分の恐怖と四分の好奇心」が湧いた・変化したのではないか。
「或る強い感情」とは、そう述べるしかない、何とも表現しようのない感情ということだろう。猿のような老婆が女の死骸をじっと覗き込んでいる。手には、「火をともした松の木片を持つて」いる。これを下人とともに見たとしたら、私なら、まずゾッとするだろう。今にも死骸に食いつきそうな老婆。何か呪いの儀式でもしている最中なのではないか。とっさにそう思うだろう。だから、その場面をパッと見た瞬間は、「好奇心」までには至らない。そこに違和感を抱くのだ。

次の、「頭身(とうしん)の毛も太る」は、強い恐怖をあらわす。ここに、「好奇心」が入らないところも、不審だ。

「すると、老婆は、松の木片を、床板の間に挿して、それから、今まで眺めてゐた屍骸の首に兩手をかけると、丁度、猿の親が猿の子の虱(しらみ)をとるやうに、その長い髮の毛を一本づゝ拔きはじめた。髮は手に從つて拔けるらしい。」
この部分の説明は一つ一つ丁寧で分かりやすい。
「今まで眺めてゐた」は、獲物の品定めの様子でおぞましい。さらに、平気で「屍骸の首に兩手をかけ」、「丁度、猿の親が猿の子の虱(しらみ)をとるやうに、その長い髮の毛を一本づゝ拔きはじめ」る。後に説明されるのだが、老婆とその女とは、同じ穴の狢(むじな)なのだ。ともに、生きるためには手段を選ばない、獣の親子。獣は倫理や道徳に悩まない。

「髮は手に從つて拔けるらしい。」
死骸から髪を抜く猿のような老婆。人の住む世界の話・人の行為とはとても思えない、不気味でおぞましい様子。

「その髮の毛が、一本ずゝ拔けるのに從つて下人の心からは、恐怖が少しづつ消えて行つた。さうして、それと同時に、この老婆に對するはげしい憎惡が、少しづゝ動いて來た。」
「恐怖が少しづつ消えて行」き、その代わりに「老婆に對するはげしい憎惡が、少しづゝ」割合を増す。
ここも、先に「六分の恐怖と四分の好奇心」と述べていた「好奇心」には触れられないのが不審だ。「好奇心」は、40%もあるのに。

次には、また「作者」が顔を出す。「――いや、この老婆に對すると云つては、語弊があるかも知れない。寧(むしろ)、あらゆる惡に對する反感が、一分毎に強さを増して來たのである。」
前にもあったが、ここでも「作者」は言い直す。ならば、書き直してから物語ればいいではないかと思われるのだが、この「作者」は書き直さない。従って、この言い直しは、わざとということになる。言い直したほうが、物語として適切なのだ。
また、その内容なのだが、「この老婆に對すると云つては、語弊があるかも知れない。寧、あらゆる惡に對する反感が、一分毎に強さを増して來たのである。」という言い方が、大げさだ。感情自体も表現も、本当にそう思ったのだろうかと疑われるほどの大げさな言い回し。とても格好をつけていて、鼻につく。
詳しく見ていくと、「この老婆に對すると云つては、語弊があるかも知れない」については、「作者」ならば、「語弊がある」のならば、言い換えることは容易なはずだ。さらに、「かも知れない」という言い方は不適切だ。自分の語る物語の登場人物の感情なのだから、断定できるしそうすべきだ。推定表現はおかしい。
だからここは初めから、「あらゆる惡に對する反感が、一分毎に強さを増して來たのである。」だけでいい。
また、その内容も、おぞましい行為をする老婆の様子を見て、「あらゆる惡に對する反感」を抱くだろうか。そうなのだと言われればそれまでだが、ここも格好をつけているように感じる。一般にこの下人と「作者」は、とても格好をつける。それが鼻につく。語りに技巧を強く感じる。

ところで、「一分毎」という表現だが、これは少し長くないか。いったい下人は何分老婆を見ていたのだろうと思ってしまう。その1本ずつ髪を抜く行為を。
心情の推移の時間が、とてもゆっくりだ。この場面の印象としては、もう少し早いイメージがある。

「作者」の説明はもう少し続く。「この時、誰かがこの下人に、さつき門の下でこの男が考へてゐた、饑死をするか盗人になるかと云ふ問題を、改めて持出したら、恐らく下人は、何の未練もなく、饑死を選んだ事であらう。」
ここも技巧的な表現だ。「この時~恐らく」までは、すべて無くてもよい。だから、これほど長い修飾が施されていることになる。「饑死をするか盗人になるかと云ふ問題」を「改めて持出」す「誰か」・他者の促しがなければ、下人は餓死を選ぶわけではない。また、「恐らく」も不要だ。下人は「作者」の支配下にあるのだから。

勿論、以上は、「物語」の語りというものを無視した考察ということになるが、それでもこのように考えることも可能だ。

先ほどの長い修飾は、結局、次の表現を導くためのものだ。
「それほど、この男の惡を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のやうに、勢よく燃え上がり出してゐたのである。」
死骸を損壊する老婆への激しい憎悪が、下人の心に燃え上がる。

下人の心情は、次々に変化する。
それは、次の表現に特徴的だ。「下人には、勿論、何故老婆が死人の髮の毛を拔くかわからなかつた。從つて、合理的には、それを善惡の何れに片づけてよいか知らなかつた。しかし下人にとつては、この雨の夜に、この羅生門の上で、死人の髮の毛を拔くと云ふ事が、それ丈で既に許す可らざる惡であつた。」
理由も分からず非合理に老婆を憎悪する下人。老婆が悪いと、自分には思われることをしているから、理由もなく憎悪する。それも激しく。老婆にしてみれば、勝手な憎悪はいい迷惑だ。「訳のわからない憎悪を向けられても迷惑だ。あんたには関係ない」のひとこと。

「この男の惡を憎む心は、老婆の床に挿した松の木片のやうに、勢よく燃え上がり出してゐたのである。」
ここで下人を「この男」と少し下げて呼ぶ理由は、いま「勢よく燃え上がり出して」いる「惡を憎む心」は、所詮「床に挿した松の木片のやうに」つまらないもの、その場限りですぐに燃え尽きてしまうものであることを表す。確かに勢いはいい。しかし、それはとても頼りなくはかない気分であることを表している。
「この男」の「心」は、その場限りで、目まぐるしく変化する。思慮の浅い男なのだ。だから正義感を振りかざす。

生きるために悪を肯定する老婆。それに対し、下人の方も、「勿論、下人は、さつき迄自分が、盗人になる氣でゐた事なぞは、とうに忘れてゐる」という状態。
それぞれが、身勝手に生きている。


標題に示したように、「羅生門」の特徴は、文章が読点で細かく区切られていることだ。それが、印象的なシーンを強調し、また、緊張感を表すのに効果的なのだが、その他の部分も、一般的に短く区切られている。
人物やシーンが細かく刻まれることにより、丁寧さ、印象の強さを感じ、物語が読者の心に深く刻み込まれる。
途切れ途切れで、いちいち立ち止まらされるのだが、その欠点よりも、誰がどうしたという語りの正確性や先ほど述べた効果を重視したのだろう。

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