夏目漱石「こころ」下・先生と遺書五十一「私はとうとうお嬢さんと結婚しました」
先生は、さまざまな人から、「Kがどうして自殺したのだろうという質問を受け」、「もう何度となくこの質問で苦しめられていた」。Kの友人、奥さん、お嬢さん、Kの父兄、通知を出した知り合い、彼とは何の縁故もない新聞記者。すべての人が、「必ず同様の質問を私に掛けない事はなかったのです。」
周囲の者からすれば、Kは、実直に勉学に励む青年と見られていただろう。多少堅物ではあるが、その精進する姿に偽りはない。従って、彼が自殺する理由が、周囲の者には思い当たらないのだ。だから、とても素直な質問ということになる。
しかし、それがために先生の「良心はそのたびにちくちく刺されるように痛みました。」 素朴な質問ほど怖いものはない。つい、本音を言ってしまいそうになる。我知らず、真実を答えてしまいたくなる。だから、自らの罪を感じている先生にとってこの質問は、自分を糾弾する言葉、自分に白状することを迫る言葉に聞こえてくる。
「そうして私はこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。」というのは、そういうことだ。
しかし先生は、真実の告白ができない。
「私の答えは誰に対しても同じでした。私はただ彼の私 宛(あて)で書き残した手紙を繰り返すだけで、外(ほか)に一口(ひとくち)も附け加える事はしませんでした。」
この先生の態度は、 自分の罪を隠そうと考えている犯罪者として的確な対応だ。何度聞かれても同じ答えをし、それ以上の情報を与えない。しかも答えの内容は、自殺したK自身が遺書の中に書いた言葉だ。K自身がこう書いている。だから自殺の原因はこれだ、という論法。これらは、罪を隠す常套(じょうとう)手段だ。この姿勢を貫けば、聞く相手もやがて根負けする。質問の海から解放される。人の噂も七十五日。先生は、こういうところに頭が回る人だ。 行動するエゴもあるが、行動しない・ 隠すエゴもある。
Kの葬式の帰りに、先生は、Kの友人から新聞を見せられる。「それにはKが父兄から勘当された結果厭世的な考えを起して自殺したと書いてあるのです」。これは、Kの自殺の本当の原因ではない。自分の身が疑われていないと知った先生は、だから、「何にもいわずに、その新聞を畳(たた)んで友人の手に帰」す。余計なことは話さない方がいい。言葉の隙間から、真実が漏れ出てしまう可能性があるからだ。
「友人はこの外にもKが気が狂って自殺したと書いた新聞があるといって教えてくれました」。
新聞という報道媒体に、親からの勘当とか、Kの心の病とか書いてある。それならば、先生は、それに従うだけだ。Kの遺書にもこう書いてある。新聞でもこう言っている。だから、そのどれかが、Kの自殺の原因なのだろう。先生は、そう答えればいい。そうすることで、自分の罪を隠しおおせる。決して自分の考えを付け加えてはならぬ。
先生が、「腹の中では始終気にかかっていたところ」は、「何よりも宅(うち)のものの迷惑になるような記事の出るのを恐れた」ことだった。「ことに名前だけにせよお嬢さんが引合いに出たら堪(たま)らないと思っていた」。先生は、事あるごとにお嬢さんを気にし、Kの自殺後にもお嬢さんの話題が登場する。本来、友人の死を悲しむべき場面や、ここのように、Kの自殺の理由について、自分が疑われるのも嫌だがお嬢さんが疑われるのはもっと嫌だという場面に、愛人への気遣いの感情が現れる。
幸い、先生の心配は杞憂に終わる。「友人は自分の眼に着いたのは、ただその二種ぎりだと答えました。」
「私が今おる家へ引っ越したのはそれから間もなくでした。」
先生とお嬢さんが、現在住んでいる家のこと。ここで、Kの死後「まもなく」引っ越したことが示される。
引越しの理由は、「奥さんもお嬢さんも前の所にいるのを厭(いや)がりますし」、というのは当然だろう。父親が設けただろう家だからといって、やはり自殺者が出た所に住み続けるのは、嫌だっただろう。
先生は、より以上に、いつづけることがためらわれただろう。ここにいれば、自分のせいで友人を自殺させてしまったという罪の意識を常に想起させられる。ましてや死んだKは、先生の部屋に安置された。今自分が寝ていた場所に、自分を恨んで死んだKも寝ていたなどと想像したら、寝付くこともできなかったはずだ。線香の匂いも、鼻の奥に染みついていただろう。
だから先生も、「その夜の記憶を毎晩繰り返すのが苦痛だったので、相談の上移る事に極(き)めたのです」。
「移って二カ月ほどしてから私は無事に大学を卒業しました。卒業して半年も経たないうちに、私はとうとうお嬢さんと結婚しました。」
このあたりを、まとめておきたい。
Kの自殺と葬式
→それからまもなく引っ越し
→引っ越しした2ヶ月後、大学卒業
→卒業した半年後、お嬢さんと結婚
ここに気になる事柄がいくつかある。
まず1つ目は、親友の自殺、それも、自分のせいで 相手は死んだと自責している人が、その死後1年も経たないうちに、しかも自殺の原因にまつわる相手と、平気で結婚するだろうか? 死を弔うとか、他人ではあるが喪中という概念が、先生(だけでなく奥さんとお嬢さん)には無いのか?
もう一つは、これらの経過の説明に、気になる表現がいくつかあることだ。
例えば、「私は無事に大学を卒業しました」の「無事に」や、「卒業して半年も経たないうちに、私はとうとうお嬢さんと結婚しました」の「とうとう」。「外側から見れば、万事が予期通りに運んだ」の「万事」・「予定通りに進んだ」や、「目出度(めでたい)」という表現だ。
「自分の大学卒業は、友人の自殺の影響もなく、おかげ様で無事に済ませることができた。愛する人と念願かなってとうとう結婚することができた。(「外側から見れば」という保留はつけられているが、)全てのことを予定通りに進めることができた。それはとてもめでたいことだ。」
このような言い方に、強い違和感を抱く。このようなことを言う人が、自分の罪により友人が自殺したと本当に悩んでいるとは、とても思えない。本当にこの人は、友人を裏切るという自分が犯した罪を心に深く刻み、また懺悔しようと思っているのだろうかという疑念。つまり、先生の後悔や反省が、真実のものとはとても受け取れない表現なのだ 。
以上のように考えてくると、先生は、後悔の念や自分の罪がばれてしまうことに対する恐れを抱いてはいるが、反省や懺悔をしようとは思っていないのではないか、ということになる。 自分の犯した罪の暴露をただただ恐れる人。卑怯者と言われても仕方がない。
さらに先生は、「奥さんもお嬢さんもいかにも幸福らしく見えました。私も幸福だったのです」、と、言ってのける。友人の死の衝撃から1年も経たずに結婚し、しかも その時の自分の心情を、「私も幸福だったのです」と説明する先生。恐ろしい人だ。
このような説明の後に、次のような言い訳をされても、にわかに信用することはできない。後から取ってつけたような弁明が、この後、続く。
「けれども私の幸福には黒い影が随(つ)いていました。私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。」
多少意地の悪い言い方になるかもしれないが、先生の心にはまず幸福が満たされる。その後でその幸福には黒い影がついていると言われても、幸福が主で黒い影は従ではないか。「結局お嬢さんと結婚できて幸せだったんでしょ」と言われても仕方がない。倫理・道徳の欠如とまで言いたくなる、先生の様子だ。
先生は自分でちゃんと分かっている。自分は何をなすべきかを。
自分の「幸福」に「随いて」いる「黒い影」を取り除くには、告白と懺悔しかない。 まず自分の罪を自らしっかり認めることだ。そうしないことには、幸福の裏についている黒い影を取り除くことは、絶対にできない。このままでは、幸福を感じると同時に必ず黒い影がさす。
しかし、この「幸福」を真の幸福たらしめるために必要なことを、先生はあくまで回避する。幸福が「最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました」と、感傷に浸るだけなのだ。
問題の本質的な解決のための行動ができない先生は、 何とかならないものかと、ただ手をこまねいて見ているだけだ。そのように批判されても仕方がないだろう。
しかも、この「導火線」には、既に火が着いている。このまま放置すれば、必ず爆発する。
しかし、先生は、その火を消そうとはしない。
ただじっと見つめているだけなのだ。
「結婚した時お嬢さんが」、「――妻が、何を思い出したのか、二人でKの墓参りをしようといい出しました。」
「何を思い出したのか」とは、「何を思ったのか」の意。何をどう考えて、Kの墓参りをしようなどと言い出したのだろう、ということ。しかしこう思うことは普通の感情だろう。だからこのお嬢さんの提案に対して、先生の、「私は意味もなくただぎょっとしました」という方がむしろ不自然だ。
「自分だけでなく、相手にとっても密接なかかわりがあった人が亡くなった。その後、自分たちは結婚をし、ともに生活をしている。であるならば、ふたりに関係のあった、しかも、先生にとっては少年時代からの友人であり、大学ではその生活費まで面倒を見た相手に、結婚したことや、その後の生活を報告しに行くのは、何の不思議もない。親友であっても、その人が亡くなったら急に疎遠になるというのも妙だ。墓参りくらい、普通にするだろう。」
以上のように、お嬢さんは思っている。
だから、先生の、「ぎょっとし」た表情・様子に、お嬢さんの方がむしろ、「ぎょっ」としただろう。そうして、Kに対する夫の態度の急変に、不審を抱いただろう。従って、「どうしてそんな事を急に思い立ったのか」という問いかけは、お嬢さんには理解不能だった。「二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろう」と、ごく当たり前の答えを述べるしかない。
だから、この後のふたりのやりとりは、次のようなものになる。
先生の、「何事も知らない妻の顔をしけじけ眺め」る様子に対し、「妻からなぜそんな顔をするのかと問われ」る。そのお嬢さんの言葉で、今度は先生の方が、自分が妙な顔をしていたということに「始めて気が付」く。
この場面をまとめると、お嬢さんが、「二人でKの墓参りをしようといい出した」り、「二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろう」と言ったりするのは、人として当たり前の感情と言葉だ。これに対し、先生の、「意味もなくただぎょっと」したり、「どうしてそんな事を急に思い立ったのか」と言ったり、「妻の顔をしけじけ眺め」たりする方が、おかしいのだ。お嬢さんの考え方は自然なものなので、夫のこれらの言葉や態度は理解しがたかっただろう。だから、「なぜそんな顔をするのか」と問うたのだ。
先生は、「妻からなぜそんな顔をするのかと問われて始めて気が付」く。「二人揃ってお参りをしたら、Kがさぞ喜ぶだろう」という感情や考え方が普通であることを。
この時の先生の思考のベクトルは、完全に自分に向いている。
その一方で、私は、お嬢さんに対する疑念が、どうしても晴れない。
この人は、Kの自殺の原因について、なぜ何も知らないのだろう。気づかないのだろう。自分がさんざんちょっかいを出した相手だ。その人が自殺をした。自分にも何か関係があるのではないかと思わないものか。その部分だけ、非常に鈍感なお嬢さん。多少子供っぽいところはあるが、あれほど利発で、人の心をもてあそぶことができる人が、唯一この点については少しも察しない。先生に対して、Kの自殺の理由を尋ねたことがあるようだが、ふたりの会話は深まらなかったようだ。いくら先生が隠しているからといって、そのようなことが可能だろうか。
それともお嬢さんは、薄々気が付いていたのだが、あえてそれを隠していたのか。自分が原因で、もしくは自分と先生とKとの三角関係が原因で、Kは自殺したと、気づいていることを。私は、この考えが合っているような気がしてならない。知っているのに知らぬふり。それは、お嬢さん自身の罪を隠すための演技。つまり、お嬢さんも、自分が原因でKが自殺したということを認識しており、それを隠すためにわざと知らないふりをしている。
このように考えてくると、互いに真実を隠し続ける先生とお嬢さんのふたりの結婚生活は、一見「幸福」なようで、実は砂を嚙むようなものだっただろう。互いが互いの真実を知らず、自己も明かさない。ふたつの偽りの「こころ」の同居。
死んだ友人の墓前に報告するのは自然なことなのだとお嬢さんに気づかされた先生は、「妻の望み通り二人連れ立って雑司ヶ谷へ行」く。
「新しいKの墓へ水をかけて洗ってやり」、「妻はその前へ線香と花を立て」、「二人は頭を下げて、合掌」する。先生は、合掌する妻の脳中を推し量る。「妻は定めて私といっしょになった顛末(てんまつ)を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう」、と。
何も知らない妻が冥福を祈り、その人が原因で死んだ親友は墓の中にいる。何ともアイロニカルなシーンだ。先生は、「その新しい墓と、新しい私の妻と、それから地面の下に埋(うず)められたKの新しい白骨とを思い比べて、運命の冷罵(れいば)を感ぜずにはいられなかった」。だから先生は、「腹の中で、ただ自分が悪かったと繰り返すだけ」だった。
(この時のお嬢さんが、もし、先ほど述べたようであったとしたら、この部分は、まったく違う意味を持ってくる)
先生は、「それ以後決して妻といっしょにKの墓参りをしない事に」する。自分一人ならまだいい。墓の中の親友から、罵倒されるだけだからだ。しかし、そこに「新しい妻」がいるのは困る。墓の中の親友から厳しく責められる自分の姿を見られてしまい、また妻から、「なぜそんな顔をするのかと問われて」しまうだろうからだ。
「その時妻はKの墓を撫(なで)てみて立派だと評していました。」
事件について、何も知らないお嬢さんの図。漱石は、お嬢さんに、わざとこうさせている。
一方、もしお嬢さんが知っていてやっていたとしたら、大変な役者だ。「こころ」における最大の役者であり、最も罪深い存在となる。
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